元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「青いカフタンの仕立て屋」

2023-07-15 06:44:32 | 映画の感想(あ行)
 (原題:LE BLEU DU CAFTAN )世評は高く、2022年の第75回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門に出品され、国際映画批評家連盟賞を受賞している。しかし、個人的には評価できる点がまったく見出せず、鑑賞中はストレスが溜まるばかりだった。要するにこれは、近ごろ目立つ“内容よりも取り上げられた題材が重要視される”という映画界の謎のトレンド(?)に与するシャシンの一つなのだろう。

 モロッコの海に面した古都サレの路地裏で、ハリムとミナの夫婦は母から娘へと受け継がれるカフタンドレスの仕立て屋を営んでいた。働き者のミナは、実は乳ガンを患っており余命いくばくもない。一方のハリムは同性愛者であり、妻のそんな境遇から逃げるように時おり公衆浴場に出かけては“行きずりの相手”を求めている。そんな彼らの前にユーセフという若い職人が現れて一緒に青いカフタン作りに従事するが、ユーセフを過度に意識するようなハリムの様子に、ミナは気を揉む。



 まず、ハリムが斯様な性的嗜好を持っていながら、どうしてミナと結婚しているのか分からない。もちろん、土地柄や慣習によって所帯を持たないことが許されないという事情はあるだろう。それでも夫の性的アイデンティティーとそれに準拠した行動を知りながら、夫婦であり続けようとするミナの内面は謎でしかない。

 そして致命的なのは、映像の喚起力が限りなく低いこと。全編の大半を各キャラクターに対する接写が占める。これは登場人物の心理を焙り出そうという意図によるものかもしれないが、描写がお粗末であるため観ていて単に息苦しいだけだ。サレは海沿いの街であるにも関わらず、それらしい場面は無く、ラストに申し訳程度に出てくるのみ。

 土壁の住居の匂いや手触り、出てくる食物(特にミカン)の質感や香りもまったく伝わらない。そして肝心のカフタンドレスの魅力は希薄で、カーテンか何かにしか見えないし、どのようにして作られるのかも紹介されない。こんな調子で最後の愁嘆場で盛り上げようとしても、無駄である。

 マリヤム・トゥザニ監督の前作「モロッコ、彼女たちの朝」(2019年)もあまり感心しない出来だったが、現地の風土が良く捉えられていた分、本作よりもマシだった。ルブナ・アザバルにサーレフ・バクリ、アイユーブ・ミシウィらキャストの熱演も上滑りしている。とにかく、アフリカを舞台にLGBTネタを採用したという一点だけで高評価を得たような案配で、こちらとしてはホメる余地は無い。
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「グッド・ナース」

2023-07-14 06:09:22 | 映画の感想(か行)
 (原題:THE GOOD NURSE)2022年10月よりNetflixより配信。物足りない出来のサスペンス編だと思ったが、後半で実際に起こった事件を元にしていることが分かり、何とも言えない気分で鑑賞を終えた。要するにこれは私が苦手とする“実話なんだから、細かいところはどうでもいいだろ”(謎)というタイプのシャシンであり、評価できる余地はあまり無い。

 ニュージャージー州の総合病院に勤務するシングルマザーの看護師エイミー・ロークレンは、心臓病を患いつつも生活のため激務に耐えていたが、そろそろ心身ともに限界値に達してきた。ある日、同じ病棟にチャーリー・カレンという青年が配属される。彼は優しくて面倒見が良く、すぐにエイミーとも仲良くなる。彼の助けによりエイミーの担当業務はかなり楽になり、おまけにチャーリーは時折彼女の幼い娘2人の相手までしてくれる。しかし、その頃から病院でインスリンの大量投与による患者の突然死が相次ぎ、エイミーはチャーリーがこの一件に関与しているのではないかと疑うようになる。

 2003年に明るみになった、入院患者の相次ぐ不審死を扱ったチャールズ・グレーバーによるノンフィクションの映画化だが、肝心なことは何も描けていない。まず、犯人の動機がハッキリしない。明示することはおろか、暗示さえもしていない。かといって正体不明のモンスターのような扱いもされていない。とにかく中途半端なのだ。

 そして、チャーリーが“訳あり”の人物であることは明らかなのに、一つの職場を辞しても次々と別の病院にポストが用意されているという点もおかしい。病院側の一連の事件に対する及び腰な態度は釈然とせず、本来追及すべき警察や検察は今まで何をやっていたのか全く不明。トビアス・リンホルムの演出は事の真相に迫ろうというスタンスが感じられず、もっぱら“映像派”を気取ったようなエクステリアの造形に終始している。なるほど、まるで北欧映画のような暗く沈んだ画面構成は個性的だとは言えるが、圧迫感ばかりが強調されて観ていて愉快になれない。

 このような有様なので、主役にジェシカ・チャステインとエディ・レッドメインという実力派を配していながら、ドラマとして一向に盛り上がらないのだ。それにしても、先進国で唯一、日本のように全国民をカバーする公的医療保険制度が無いアメリカの状況は(いろいろな意見はあるが)理不尽だと思う。エイミーが苦しんでいたのも、そのためだ。とはいえ、劇中でそれを追求する気配が無いのも本作の不満な点である。
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「ハマのドン」

2023-07-10 06:06:36 | 映画の感想(は行)
 これは実に興味深いドキュメンタリー映画だ。舞台になった地域の問題を超え、我々が直面している問題の実相と解決の処方箋を総体的に垣間見せてくれる点で、存在価値の高い作品と言える。また、一応は“主役”扱いになる人物をはじめ出てくるキャラクターがどれも濃いので、観ていて退屈しないだけの求心力も確保されている。

 2021年8月に実施された横浜市長選における最大の争点は、カジノを含む統合型リゾート(IR)の誘致の是非であった。前任の林文子は2017年の市長選で“カジノは白紙”という立場で当選したが、2019年に態度を豹変させIR誘致を発表。2021年の選挙ではIR推進を掲げた林と、一応はカジノ反対を表明した自民党県連会長の小此木八郎が“保守分裂”の形で立候補したが、そこに割って入ったのが横浜港ハーバーリゾート協会会長で“ハマのドン”と呼ばれる大物ベテラン経営者の藤木幸夫だった。



 彼はカジノの有害性を認め、立憲民主党が推薦する山中竹春を支持。政財界との太いパイプと市民運動との連携を通し、IR誘致を捨てきれない与党推薦候補に立ち向かう。藤木は1930年生まれという高齢で、自民党の党員でもある。だから一見、彼の行動は地元政財界の勢力争いに過ぎないように思われる。しかし、終戦直後から横浜の街と港湾労働者たちをずっと見てきた藤木には、この土地にカジノが出来ることを拒否する真っ当な理由があったのだ。

 カジノは、しょせんバクチだ。ギャンブルが皆を幸せにすることは有り得ない。そのことを、藤木は身に染みて分かっている。しかも、IRのあげた利益は運営元と海外資本に吸い上げられて地元には大して残らない。このことは劇中で登場する在米の日本人カジノデザイナーのレクチャーで明確に示される。

 そして何より、市民団体がIR誘致の是非を問う住民投票の実施を求めて署名活動を行い、19万筆を超える署名を集めたこどか大きい。いくら藤木でも、伊達酔狂で個人的に選挙運動に関わろうとしたのではない。主権者である市民が声を上げたことに動かされたのである。本作はテレビ朝日が製作した2022年2月放送のドキュメンタリーを、番組プロデューサーの松原文枝が監督として再編集したものだ。

 松原のネタの取り上げ方は巧妙で、藤木のダークな過去も遠慮なく挿入する。だが、藤木にはそれらをカバーするだけのカリスマ性があることを、十分に活写する。特に彼の“今は亡き人々の思いが、生きている我々の口を通じて出ているのだ”といったセリフには胸を突かれた。そう、私たちは今現在を刹那的に生きているのではない。過去に生きてきた先人たちの業績によって生かされているのである。この世界観・人生観に触れられるだけで、この映画を観る価値はある。

 なお、周知のとおり先の横浜市長選は山中候補の圧勝に終わり、これで横浜市にIR施設が出来る可能性はほぼなくなった。しかし、日本には官民挙げてIR誘致に前のめりな土地も別に存在する。この“目先の利益と新奇さだけを重視する風潮”と、本作で描かれた“確固とした共同体のリファレンスを優先させる態度”というのが、我が国が直面して選択すべき二大トレンドであることは言うまでもないだろう。
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「ウーマン・トーキング 私たちの選択」

2023-07-09 06:38:02 | 映画の感想(あ行)
 (原題:WOMEN TALKING )無理筋の舞台設定に整合性を欠く脚本、さらに冗長な展開と、見るべきものがあまり無いシャシンである。それにも関わらず、この作品が第95回アカデミー賞の脚色賞をはじめ各アワードを獲得している事実を前にすると、昨今は映画の内容よりも取り上げられた題材が評価の指標になっているという印象を強く受ける。

 人里離れた場所で、キリスト教の一派であるメノナイトに属する信徒たちが自給自足のコミュニティを営んでいた。この村では、女たちが睡眠中に性的暴行を受けることが常態化していた。男たちはそれを“悪魔の仕業だ”と決めつけて長らく真相を隠してきたが、ある日その事実が明らかになり犯人が当局側に拘束される。男たちは保釈の交渉をするために街へと出かけて2日間村を不在にするが、その間に女たちは今後の身の振り方について話し合う。



 当初これは近世か、あるいは最低100年ぐらい前の話かと思っていた。ところが、途中で時代設定が2010年であることが示され愕然とした。つい最近の話なのに、かくも時間の流れから取り残されたような共同体が存在するとは信じがたい。聞けばこの映画は2005年から2009年にかけて南米ボリビアで実際にあった事件をもとに執筆されたミリアム・トウズの小説を原作にしているらしいが、おそらくは南米奥地の未開の地で起こった出来事ならばともかく、本作の舞台はどう見ても北米だ(ロケ地はカナダ)。

 しかも、近くに自動車が走っているので、住民たちは外部に文明社会が存在していることを知っているはず。その状況において、彼らが信仰とどう折り合いを付けているのかが全く説明されない。また、たかが保釈金を払いに行くのに男衆全員が2日間も村を留守にするという馬鹿げた設定や、かと思うと物分かりの良さそうな男が一人村に残っている謎な展開など、いったい作者はストーリーをまともに語る気があるのか実に疑わしい。

 ならばタイトルにある女たちの討論が盛り上がるのかというと、全然そうではない。単に“感想”を述べ合うばかりで、これではただの井戸端会議ではないか。終盤はその話し合いの“結論”により彼女たちは行動するのだが、その後の展望なんか開けちゃいない。作劇を放り投げたまま映画は終わる。監督サラ・ポーリーの仕事ぶりは低調だが、フェミニズムを押し出した点だけで評価されたと思われる。

 ルーニー・マーラにクレア・フォイ、ベン・ウィショー、フランシス・マクドーマンドといった面子を集めているにも関わらず、求心力のあるパフォーマンスは見られなかった。良かったのはリュック・モンテペリエのカメラによる映像と、ヒドゥル・グドナドッティルの音楽ぐらい。思い起こせば、似たような御膳立てのピーター・ウィアー監督の「刑事ジョン・ブック 目撃者」(85年)がいかに良い映画だったのかを痛感した。
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「父の恋人」

2023-07-08 06:04:30 | 映画の感想(た行)
 (原題:SONS)89年作品。地味ながら、とても情感豊かな佳作だと思う。公開当時はほとんど話題にはならなかったはずだが、あまり予備知識がない状態でスクリーンで接した観客にとっては、思わぬ拾い物をした気分になったことだろう。また主役のサミュエル・フラーは好事家の間では絶大な人気を誇った映画監督でもあり、コアなファンにとっては堪えられないシャシンでもある。

 ニュージャ一ジー州に住むフレッド・ジュニアとマイキー、リッチーの3人は腹違いの兄弟だ。彼らが気にかけているのは、年老いて在郷軍人病院で車椅子の生活を送る父フレッドのこと。もう長くは生きられず、失語症も患っているらしいフレッドのために、3兄弟は父を病院からこっそりと連れ出す。そして第二次大戦中にフレッドがフランスに従軍した際に知り合ったかつての恋人を探すため、大西洋を越えてノルマンディまでの旅に出る。



 3兄弟の母親がすべて違うことから父親はかなりの放蕩者だったことが窺えるが、それでも彼らはフレッドを慕っており、何とか最後の願いを叶えようと奮闘する。その意気がまず好ましい。やっとのことで探し出したその相手フロランスが、その後別に悲惨な人生を送ったわけでもなく、パン屋の夫と一人娘と共に平穏に暮らしていたことも悪くないモチーフだ。これがもしフロランスの側にもドラマティックなエピソードが用意されていたら、作劇のバランスが危うくなってきたところである。

 そして終盤、フレッドが3人の息子それぞれに(思わぬ形で)メッセージを伝えるシークエンスは出色で、鑑賞後の余韻を高めることに貢献している。監督のアレクサンダー・ロックウェルはS・フラーの信奉者のようで、主人公をとらえるショットの一つ一つに思い入れが籠っているようだ。ただ、S・フラーのファン以外は楽しめないかというとそうではない(かくいう私もフラーの映画はわずかしか観ていない)。普遍的な家族のドラマとして良く練られている。

 3兄弟に扮するロバート・ミランダにウィリアム・フォーサイス、D・B・スウィーニーはそれぞれ個性を前面に出した好演だ。ステファーヌ・オードランにジュディット・ゴドレーシュら脇の面子も申し分ない。ジェニファー・ビールスが顔を出しているのも驚いた。ステファン・チャプスキーのカメラによる映像はとても美しい。
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「怪物」

2023-07-07 06:09:32 | 映画の感想(か行)
 観終わって呆れた。第76回カンヌ国際映画祭にて脚本賞を獲得しているが、こんなヘタなシナリオでも“取り上げられた題材”によっては不必要に評価される世の中になったことに思い当たり、タメ息が出た。元より是枝裕和は出来不出来の幅が大きい映像作家だが、本作は間違いなく出来が悪い部類に入る。

 大きな湖のある郊外の町に住む息子を愛するシングルマザーと生徒思いの若い教師、そして子供たちという3つのスタンスから見た、小学校で起きたトラブルとそれに続くハプニングの数々を描く本作。言うまでもなく黒澤明監督の「羅生門」(1950年)の形式を踏襲しているが、内容はかなりの差がある。

 「羅生門」のストーリーの土台は、山中で発生した殺人事件という、映画内での確固とした“事実”である。この前提があるからこそ、関係者たちの食い違う証言の数々が紡ぎ出す物語性がスリリングな興趣を生んだのだ。対してこの「怪物」には、土台になる“事実”が無い。一応、学校で子供同士のケンカがあったらしいというモチーフは出てくるが、それが本当のことなのかは分からない。

 結果として、関係者たちの手前勝手な言い分が並ぶばかりで、そこから何か大きなテーマに収斂されていくという趣向は存在しない。これは私が嫌いなファンタジー物と一緒で、つまりは“何でもあり”の世界なのだ。この“何でもあり”というのは“何もない”のと一緒であり、ドラマの核が無ければ自己満足の絵空事の積み上げにしかならない。

 それにしても、いくらファンタジーとはいえ各エピソードのレベルの低さには閉口する。保護者を前にしての教師たちの不遜な態度や、校長にまつわるワザとらしい“疑惑”、当事者生徒の一人の“図式的な家庭環境”など、よくもまあ斯様な恣意的かつ表面的なネタばかり繰り出してくるものだと、観ていて失笑するばかり。

 極めつけは終盤の処理で、いったいこれは何の冗談なのかと絶句した。そういえばカンヌではコンペティション部門の各賞発表に先んじて、本作はクィア・パルムという独立賞を獲得しているが、このアワードの趣旨を勘案すれば当然この映画の主眼は何か気が付いたはずだ(我ながら迂闊だった)。とにかく、このような冴えないシャシンに付き合わされ、「羅生門」がいかに革新的な映画であったかを再確認した次第だ。

 安藤サクラに永山瑛太、高畑充希、中村獅童、田中裕子らキャストは皆熱演だが、映画の内容がこの通りなので“ご苦労さん”としか言えない。なお、坂本龍一の最後の映画音楽ということで話題にもなっているが、過去の彼の実績に比べると、取り立てて優れているとは思えなかった。
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「ホテル・ニューハンプシャー」

2023-07-03 06:18:28 | 映画の感想(は行)
 (原題:The Hotel New Hampshire )84年イギリス・カナダ・アメリカの合作。戦前から始まる一家族の物語を大河ドラマ風に描く映画なのだが、内容は変化球を利かせた異色作だ。雰囲気としてはジョージ・ロイ・ヒル監督の「ガープの世界」(82年)に似ていると思ったら、原作は同じジョン・アーヴィングの小説だった。とはいえ元ネタは(私は未読だが)かなりの長編。それを1時間49分にまとめるというのは当然ダイジェスト版にしかならないが、それを逆手に取ったようなスムーズな作劇が印象的である。

 1939年、メイン州アーバスノットのホテルでアルバイトをしていた男子学生ウィン・ベリーは、そこで同郷のメアリーと知り合い、仲良くなる。やがて結婚した2人は、5人の子供をもうける。そしてウィンはメアリーの母校の女学校を買い取って改装し“ホテル・ニューハンプシャー”を開業。しかし当初は好調だった業績もいつしか左前になる。そんな時、かつてのアーバスノットのホテルのオーナーで戦後はオーストリアに移住していたフロイトから、仕事を手伝って欲しいとの依頼がウィンに届く。こうして一家はウィーンに赴く。



 ウィンとメアリーをはじめ5人の子供たちもクセ者揃いで、彼らが遭遇する出来事もレイプや飛行機事故、同性愛、近親相姦、自殺、テロなどイレギュラーなものばかり。それぞれのエピソードで一本映画が作れそうなほどだが、あくまで本作はサッと流すのみだ。ならば物足りないのかというと、全然そうではない。モチーフを次々と繰り出して手際よくパッパッと切り上げることで、ダイジェストゆえの速さと描写の鋭さが上手く活かされていると思う。

 さらに、劇中で何度か出てくる“人生はお伽話だ”というセリフがその手法をバックアップする。少なからぬ数の登場人物が途中で退場してしまうのだが、しょせんは“お伽話”のように歴史は各人の空想的なフィクションの積み上げで全体が粛々と進んでゆくという達観が強調される。脚色も担当したトニー・リチャードソンの演出は闊達な“映像派”ぶりと、過去にいくつかの英国文学の映画化をモノにしたようにソリッドな気品というべきテイストが横溢している。

 ボー・ブリッジスやリサ・ベインズ、ロブ・ロウ、一人二役のマシュー・モディーンと、キャストは賑やかだ。そして何より、ジョディ・フォスターとナスターシャ・キンスキーの“夢の共演”には本当に嬉しくなる。デイヴィッド・ワトキンのカメラによる煌めく映像美と、オッフェンバックの音楽もかなりの効果を上げている。
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「苦い涙」

2023-07-02 06:05:22 | 映画の感想(な行)
 (原題:PETER VON KANT)正直言って、面白いのか面白くないのかよく分からない映画だ。舞台劇のような意匠とキャラクターの濃さは確かに楽しめる。だが、ストーリー自体は大したことはない。作品の“外観”だけに着目すれば面白いのだが、それ以外はアピールしない。まあ、どれを重視するかによって評価は変わってくるが、個人的には曖昧なスタンスを取らざるを得ない。

 ドイツの有名映画監督ピーター・フォン・カントは、恋人と別れたばかりで生きる気力を失っていた。ある日彼の住むアパルトマンに、親交のある大女優シドニーがアミールという役者志望の青年を連れて訪ねてくる。ピーターはアミールのエキゾティックな美しさに心を奪われてしまい、彼を自分のアパルトマンに住まわせ懇ろな間柄になる。同時に、アミールを映画界で活躍できるように各方面に口を利いてやるのだった。ドイツのライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督が72年に手がけた「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」(私は未見)の、フランソワ・オゾン監督によるリメイクだ。



 同性愛をネタにしたシャシンだが、聞けばファスビンダー版は女性同士の色恋沙汰を描いたのに対し、本作は男性同士のそれに切り替えているとか。だからというわけでもないだろうが、作劇はけっこうコミカルで笑える場面もある。しかし、話自体は予定調和で面白味に欠ける。オゾン監督としても肩の力を抜いたライトな仕事と割り切っているようで、いつもの辛辣さは控えめだ。対して、舞台装置は実に凝っている。

 カメラは主人公のアパルトマンからほとんど出ないが、その映像の練り上げは注目されよう。家具や調度品の数々には神経が行き届いているし、部屋全体の空気感も見事だ。そしてキャストが濃い。ピーター役のドゥニ・メノーシェは年下の男に振り回されるダメおやじぶりを見せつけ、対するアミールに扮するハリル・ガルビアも若さに似合わぬ海千山千な役柄を快演。そしてシドニー役のイザベル・アジャーニの、年齢不詳な妖艶さは圧巻だ。

 ピーターの片腕のカールに扮したステファン・クレポンも、一言もセリフを発しない怪人物を絶妙に表現。さらにはファスビンダー作品の常連だったハンナ・シグラも顔を見せるのだから嬉しくなる。ただし、舞台がドイツなのに全員がフランス語でしゃべっているのは違和感がある。ここはフランスに舞台を移し替えるべきだったと思う。
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「渇水」

2023-07-01 06:48:01 | 映画の感想(か行)
 ピンと来ない映画だ。題材自体は面白いと思う。だが、それが映画的興趣に結び付いていない。キャラクター設定は深みが無く、筋書きは絵空事。何かあると思わせて、実は何も提示出来ないというもどかしさが漂う。聞けば白石和彌が初プロデュースを手掛けた作品とのことだが、この隔靴掻痒感は調子の悪いときの白石監督作にも通じるものがある。

 首都圏の市役所の水道局に勤めている岩切俊作は、後輩の木田拓次と共に水道料金を滞納している世帯を回り、支払いに応じない利用者の水道を停止する業務に就いていた。折しも夏場の雨不足による給水制限が発令され、この仕事はハードさを増すばかり。ある日、岩切たちは訪ねた家で母親から育児放棄された幼い姉妹と出会う。不憫に思った岩切は、何かと彼女たちの様子を見に来るようになる。



 一滴の雨も降らない炎天下の街で停水執行の仕事におこなう主人公と、心の中の潤いも枯渇したような利用者たちとの関係を通じて容赦なく人間性のリアルに迫る話かと思ったら、まったく違った。とにかく、すべてが表面的で生温いのだ。たとえば劇中、くだんの姉妹を見かねた近所の主婦が“児相に連絡しようか”と彼女たちに持ち掛けるが、母親が帰ってくると信じている姉妹は頑なに拒否するという場面がある。これは明らかにおかしい。虐待を通報するのに、当事者たちの承諾など不要である。

 岩切たちも同様で、この姉妹を助ける具体策は持ち合わせずに何となく仲良くしているという案配だ。しかも、岩切は別居している妻子に対する後ろめたさから自らの行為を正当化しているフシもあり、観ていて愉快になれない。終盤近くには岩切は唐突に“思い切った行動”に出てしまうのだが、これは必然性が希薄で、実際に何の解決にもなっていない。

 高橋正弥の演出は平板で、作劇に山も谷も無い。主演の生田斗真をはじめ、門脇麦に磯村勇斗、篠原篤、柴田理恵、田中要次、大鶴義丹、そして尾野真千子と悪くない面子を集めている割にはキャストの実力を発揮させていない。困ったのは子役2人の演技の拙さで、これは本人たちの資質というよりは作り手の演技指導の不徹底が原因だろう。なお、河林満の原作は文學界新人賞を獲得して芥川賞候補にもなっているが(私は未読)、たぶんこの映画化よりもマシな内容なのだろう。機会があれば読んでみたい。
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