池上優游涵泳

「料理と散歩と仕事で海外」「ベトナム生活あらかると」改め、「池上優游涵泳」として日々を綴っています。

多摩川台公園の古墳と展示室

2019-08-14 17:44:35 | 見学・観賞

昨日の朝、呑川沿いを歩いていて突然の雨に降られて、ずぶ濡れになりました。

台風10号は全く関係なく、直後、いつもの夏空になりました。

今朝もまた、多摩川台公園に行き、古墳を眺めている時と、展示室の見学を終えて、呑川沿いを歩いて帰ってくる時の2度、突然の土砂降りにやられました。

ただ、今日も(その2度とも)、10分程度で止んだ直後、カンカンに暑くなりました。

夕立ちは降らないで、朝立ち?それとも、これもゲリラ豪雨?

 

その多摩川台公園ですが、

古墳、遺跡のたくさんある大田区で最古(4世紀)の古墳を囲うように作られ、資料展示室もあるようなので、

夏休み自由研究の第四弾として行ってきました(で、雨にやられました)

 

散歩であれば、多摩川を上ってきて丸子橋に到達したら、中原街道を通って、雪が谷大塚から呑川に向かい、呑川沿いを歩いて帰るのですが、

今朝は、多摩川の土手歩きは要らなかったので、呑川から雪が谷大塚、中原街道から丸子橋と、逆に歩いて行きました。(帰りはいつもの散歩と一緒)

(すでに降りそうな天気ではありましたね)

丸子橋の大田区側の袂から、多摩川浅間神社(多摩川浅間神社からの富士山(2019.1.26))の方に曲がって、東急多摩川駅の左脇に進むと、

多摩川台公園の下流側の入口があります。

現在、地図上、左下のあたり。公園内を上流の方へ進んで、一周します。

まず、あじさい園があるのですが、生憎、咲いていたのはサルスベリ。

いかにも「後円」な感じのところへ登ると、

広場になっていまして(以前は、多摩川から汲み上げた水を浄水する、浄水場があったと)

欧風な花壇が整備されていました。

野草園というようです。

晴れたら(暑いけど)もっと綺麗に見えたでしょうね。

その奥は、水生植物園ですが、季節柄かな、なんとなく寂しい感じ。

突き当たりが、亀甲山古墳(4世紀後半)です。

看板のある辺りが、”くびれ”部分ですね。左が”前方”、右(水生植物園とか野草園)が”後円”。

後ろを振り向くと、多摩川が綺麗に見えます。案内によると”絶景ポイント”らしい。

今朝は、生憎、富士山は見えず。雨ぱらついてきたし。

川沿いの道からも公園に登ってこれます。

緑道としての雰囲気はいいのですが、自然の林道で、急勾配なので、注意して歩くようにと注意書きがありました。

園内はちゃんと舗装されています。ランナーも少なからずいるので、ちょっと怖い。

橋の向こうに、宝來山古墳があります。

ざっくり言うと、公園の下流の方が亀甲山古墳で、上流の方が宝來山古墳(4世紀、亀甲山古墳より前)で、向き合うように作られていますが、

そのつなぎ目にもたくさん古墳があって、多摩川台古墳群(78世紀)と総称されています。

広場があります。

遊具も色々。

その奥が、宝來山古墳です。”前方”を横から。

一番の上流側の公園入口のところが、”後円”です。

ここから、公園の中程にある管理事務所の古墳展示室に向かいます。

 

武蔵野の路の看板がありました。呑川の河口にもありましたし、たまに見かけるんですよね。

歩きたい気持ちはあるのですが、いまいち全容がはっきりしないんですよね。

歩き始めたら、全部歩いてみたいし。

 

公園の外側にも広場と遊具がありました。

なんとなく、前方後円墳っぽいですが、どうかな。

亀甲山古墳の”前方”は、撥型であると説明板にあったので、それっぽくはあります。

管理事務所の建物です。

展示室の大半を占める古墳のレプリカ。

私の好物、模型です。

この展示室も模した、古墳の断面と、

墓前祭の人々。「マツリ」と呼ぶ葬儀と権力者交代の儀式。

マツリの参加者の模型です。

埴輪を基に、こう言う格好だったのだろうと想像して作ったようですが、基になった埴輪は、ここの古墳のものではないようです。

 

古墳レプリカの中が、資料の展示室になっています。

古い方(4世紀)から、宝來山古墳、亀甲山古墳がありますね。

大刀ってことは、争い事が多かったのでしょうか。まあ、戦闘だけでなく、祭事、祈祷にも使ったはずですが。

こう言うのも既に日本で作られていたんですね。

東日本でも作っていたのかな?朝廷の方から赴任者が持ってきたのかな?

 

ここは、お膝元、田園調布界隈の古墳から出土したものの展示ですが、

この辺りは、水資源が豊富な、平地だったので、早い時代から盛えたんでしょうね。

多摩川浅間神社のところも古墳でしたか。

まあ、神社、寺、城が古墳だったりするのはよくあることです。

表の説明パネルにもありましたが、古墳を設計するとき、エジプトやマヤのピラミッド同様に、陽の当たり方も計算したようなので、後年、神社を建てる時、知らずに古墳が、場所として選ばれることは否めませんね。

それと、知ってか知らずかパワースポットのような感じも受けたかも。

 

馬の埴輪です。装身具が付いているけど、権力者の乗り物、加えて、戦用だったのかね。

日本書紀によると、国造の地位を巡って、豪族同士の権力争いがあったようで、朝廷の介入で収拾したと。

 

これらの古墳からは、

馬具も随分出土したようで、

馬も家畜化されて、結構な数いたのかな。

 

ここはあまりジオラマがないのですが、「埴輪製作所」がありました。埴輪を作っているようには見えないのですが(苦)

 

多摩川台古墳群は、多摩川台公園の、宝來山古墳と亀甲山古墳の間に、こんな風に並んでいたのですね。

 

古墳レプリカから出ると、首長が木棺に入れられ、埋葬されていました。

郷土博物館の展示でもみましたが、副葬品が結構多いですよね。

権力があったんだな〜と。

ただ、なんか帽子に違和感を感じるのですが(他の博物館でも、同様のものを見ていて)、

韓流ドラマで役人がこんなの被っていたりしますが、当時の日本の権力者(朝廷の役人とか)は、やはり渡来人だったのかな。

それとも、大陸の影響を受けて、こういう衣装にしていたのかな。

 

田園調布周辺の古墳分布図ですが、まあ、たくさんあります。

正式な呼び名は「荏原(台)古墳群」で、「田園調布古墳群」と「野毛古墳群」に分けて考えられることもあると。

年代毎の、外国の遺跡との大きさ比較がありました。面白い観点です。

高さ抜きで、面積だけで比較すると、

「仁徳天皇陵(大山)古墳」>新始皇帝驪山陵アヴェベリー・ストーンサークル>登呂遺跡>クフ王ピラミッド

になります。

列石で囲ったストーンサークル、水田跡も含む登呂遺跡は、大きさを誇るにはちょっとズルいですけどね。

 

さて、改めて思いましたが、大田区って、遺跡、古墳が多いな〜

それだけ古代から、多摩川から河口にかけて人が住んでいたと言うことですし、古墳や出土品を見ると文化的にも経済的にも発展していたのではないかと思わされます。

ところで、住居とか、土器とかは再現できていますが、大きな風景って再現できませんかね。

自然のままの当時の多摩川が流れて、田園が広がって、人が暮らしていて、古墳を建設していたり、「マツリ」を催していたり、、、そんな風景を再現するような科学の発達ないかな。

う〜ん、想像するには、自分にまだ知識が足りないなあ。

 

さて、明日、歴史・時代小説+ビールで、めっちゃ気が合った義父の新盆で、奥さんの実家の和歌山に行くのですが、台風10号、どうか、すれ違ってください。

行きがけの駄賃で、なんばグランド花月のチケット買ってあるんです。。。

JR東海よ、頑張ってくれ。。。ではでは


現在までの変遷

「料理と散歩と仕事で海外」として、タイトルの通り、趣味の料理と散歩、そして出張する海外の情報を掲載していましたが、ハノイ赴任となり「ベトナム生活あらかると」でベトナム生活、近隣の国への旅行模様などを掲載するようになり、一時、仕事が忙しく更新が滞りましたが、2017年末に帰任し、2019年から改めて「池上優游涵泳」として、知識探求、スローライフを紹介しています。

ランキング

ブログランキング・にほんブログ村へ