厳島の横で、ホクレアと並走する日本オリジナルの打瀬船。
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ホクレアの広島寄港に関しては、本当にご苦労様でした。おかげでホクレアのクルーも、カマヘレのクルーも、いろんな日本人関係者の人たちも、広島への寄港を意義深いものにする事ができたと思います。
ハワイ州観光局の金子さんと広島関係者との2回目の打ち合わせにぼくが出席させてもらったのは、昨年の3月22日だったと、日記を見ながら思い出しました。もうずいぶん前のことになるんですね。
会議の席上、海上保安庁の担当者の方から厳しいお言葉を受けて、滅入っている様子の村上さんが思い出されます。でも、あそこで村上さんが一度折れておいてくれたからこそ、5月の本番で、各関係省庁がとても素晴らしい協力体制でホクレアを迎え入れてくれたのでしょうね。
改めて日記をめくってみると、一昨年2006年の12月にはハワイにナイノアに会いに行き、2007年の2月に再びナイノアの自宅で打ち合わせをし、3月に入ると曳航船のお願いに大阪のヤンマー本社に行ったり、各寄港地の下見や打ち合わせに行っています。
2007年に入ると、日本へのホクレア受け入れの準備が佳境に入り、広島に伺った3月22日も、関東から日帰りという慌しさでした。あの週には沖縄、熊本、福岡、北九州、宇和島にも行ってます。その翌週は、パラオまで行き、ナイノアとの最終打ち合わせを行ないました。
こういう準備ができたのも、ハワイ州観光局のおかげです。ハワイ州観光局は、ホクレアの日本受け入れのために最大の努力をし、私を水先案内人と決めてからは、私が望んだとおりの準備ができるよう、最大限のサポートをしてくれました。
でも、なんと私は、広島に伺って村上さんはじめ地元の関係者と打ち合わせをする時期になっても、まだ実はホクレアの日本での水先案内を最後まで遂行する決心ができていませんでした。
それにはいくつか理由がありますが、最大の理由は、ホクレアの日本航海を支援することを選択すれば、2007年のシーズンに本来の自分の仕事ができない、という理由でした。
ヨットのレーシングセーラーのプロとして仕事を続ける上で、特に引退間近の年齢になっているぼくにとって、大事な1シーズンの仕事を断ることは、1シーズンのブランクを作ってしまうことは、その後の失職にも繋がりかねない、一大事でした。
不謹慎なことですが、広島での会議の最中にも、頭の片隅では、誰か他にバトンタッチできる人材はいないだろうか、なんてことも考えていました。
しかし、結局ぼくは、ぼくの意志でホクレアを選び、その自分の選択は間違っていなかった、と今でも確信しています。
ヨット・レーシングの世界で1年間のブランクはできてしまいましたが、ホクレアに関わったことで得たことのほうが、今後の人生にどれだけプラスになるか分かりません。何よりも、家族がそんなぼくの決心を理解し支援してくれたこと、が幸せなことでした。また、家族以外にも、ホワイ州観光局はじめ、たくさんの人がぼくのホクレアでの仕事をサポートしてくれ、それがあったからこそ、ぼくは自分の仕事を最後まで責任を持って遂行することができたと思います。
打瀬舟(wordで「うたせぶね」、と入力しても正しく変換されませんね。ここでも価値ある日本の海洋文化が途絶えようとしています。焦りますね)、ぼくはずっと前からファンなんですよ。
ぼくの母方の家系は福山の出です。福山城にある資料の中に家老として名前があります。おじいちゃんおばあちゃんが入っているお墓は、福山城の裏の妙正寺にあります。
ですから、打瀬舟が福山の鞆に係留されていることは、秘かな個人的な誇りでした。ヨット・レーシングの世界でトップセーラーであるNZ人のラッセル・クーツを瀬戸内海に案内したときは、鞆で打瀬舟の話も聞かせました。
厳島(宮島)を左に見ながら、ヤンマーがチャーターしてくれた広島の漁船でホクレアを曳航しているとき、右手前方に打瀬舟が見えてきたときは、鳥肌が立ちました。日本の文化とポリネシアの文化が相見まえる場面に立ち会うことができたことの感動でしょうか。
しかしあのときの裏方の状況は、ちょっと複雑でした。
まず、あの日の朝、周防大島出港前に厳島待機チームに厳島の桟橋到着予定時刻を伝えました。ハワイ州観光局のスタッフの方々を中心とする厳島待機チームは、その時刻に合わせて桟橋の停泊場所の確保をし、また報道関係者にその予定時刻を伝えます。報道関係者はその時間に合わせて写真撮影用のヘリコプターを押さえたりするわけです。
その報告後、まず出港時間が予定よりも遅れました。これは別に大きな問題ではないし、特にナイノアにとっては、さらに重要なことではありません。予定時間よりももっと優先すべき重要なことがナイノアにはあります。
ただし、厳島で準備している待機チームにはこのことを伝えなければなりません。
周防大島を出港するとナイノアは、ホクレアでセーリングしたい旨をぼくが乗る曳航船に通信してきました。
これも、ナイノアとホクレアのクルーにとって重要なことです。
あの日、あの水域は船舶の通行量が少なく、南からの風も吹いていて、ホクレアが瀬戸内海でセーリングできる数少ないチャンスだったからです。
しかし、ホクレアの曳航索を離し、ホクレアがセーリングし始めるとすぐ、風がほとんど凪いでしまい、ホクレアの船足はかなりのスローペースになってしまいました。
ぼくはそれを見て、厳島待機チームに、厳島到着予想時間が予定よりも遅れそうな旨を報告しました。
それを受けて待機チームは各マスコミ関係先にその修正した時間を伝えます。
ところがナイノアは思った以上に潔くセーリングを続けることを諦め、我々は再びホクレアの曳航を始めました。
海はほとんどフラットで、しかも追い潮に乗り、ホクレアを曳航している状態での我々の船団のなかで一番船足の遅いカマヘレが、今までにないくらい快調に走り、それに合わせる船団全体のペースも上がり、出港の遅れやセーリングでのペースダウンを取り戻す勢いになってきました。
航程の3分の2を過ぎた時点で、厳島待機チームに、再び到着予定時間が変更しそうなことを伝えましたが、すでにマスコミには予定時間が遅れることを伝えたので、なるべくペースを落として欲しいとのこと。それでそのことをカマヘレとホクレアに伝え、曳航船はエンジンに負担のかからない範囲で最もスローのスピードに落としました。それでも7ノットは越えてしまいます。
そのスピードでの到着予定時間は、ホクレアとカマヘレが使用させていただくことになっている桟橋に修学旅行のチャーター・フェリーが着く時間の少し前で、その時間よりも遅れると、ホクレアの係船作業とチャーター・フェリーの到着とがカチ合ってしまい、それも望ましくないことです。
つまり、ホクレアが厳島の桟橋に到着しなければいけない時刻は、マスコミ関係者が集まる時間とフェリー到着との間の、ピンポイントを狙うような状況になったのです。
もちろんホクレアの安全航海がすべてに優先されるわけですから、最悪の場合はそのほかの要素のどれか(この場合は、申し訳ないけどマスコミの方々)を犠牲にするしかないのですが、厳島待機チームのマスコミ対応の頑張りにも報いたいし、マスコミ関係者にもがっかりさせたくありません。
また、ホクレアを厳島の桟橋に係留させる前に、一度桟橋の沖を通り過ぎて、ホクレアとカマヘレを厳島神社の前まで連れて行き、日本が誇る世界遺産であるこの神社を海から見せてあげたい、という個人的な望みもありました。したがって、到着予想時刻には、この行動のための時間も組み込んでいました。
ただし、これを行なうには、村上さんご存知の通り、本州側と厳島の間をひっきりなしに往来している2本の定期フェリーの通行の隙間を狙う必要があり、しかも、3月の事前会議で、海上保安庁の担当の方からフェリーの航路を横切ることは自粛して欲しい旨、やんわりと釘を刺されていることもあり、この計画に固執して無理をすることは、あまりクレバーではない、と自分を戒めていました。もし、予定より遅れてチャーター・フェリーの桟橋到着時間とダブってしまいそうになったら、この計画をあきらめて、直接桟橋に向かえばいい、と自分に言い聞かせていました。
打瀬舟がホクレア船団の針路の右前方に見えたのは、こういう状況のときでした。
打瀬舟がホクレアに接近して、素晴らしい舵さばきで方向転換し、ホクレアに追随してきたとき、当然のことですが、打瀬舟のスピードに合わせて曳航の速力を減速するよう、ナイノアから要請が来ました。大型のエンジンを搭載している漁船は、エンジンの回転数を最小限に絞っても現状以上にスピードを緩めることはできません。
船長にお願いして、ギアをニュートラルに抜いたり、前進に入れたりすることでスピードを調整してもらいました。これはもちろん船のエンジンやギアボックスにとっては、よろしくないことなのですが、船長は快くこの要請に応えてくれました。
この時点で、厳島神社とホクレアとのツーショットは諦めるべきかな、と思っていました。厳島神社の代わりに打瀬舟が、日本の海洋文化の代表としてホクレアを迎えてくれたのだから、それで充分かも、と思っていました。
ところがその後、打瀬舟が機帆走でのエンジン出力を上げたのかスピードが上がり、ホクレアを曳航するわれわれもそれに合わせて再びスピードを上げて厳島の東側を回りこみ、桟橋と厳島神社(とフェリー航路がある)島の北岸へ、思ったよりも早く到達しました。
接岸予定の桟橋の沖に来ましたが、本州側と厳島との間をひっきりなしに行き来している定期フェリーを注意深く見ていると、少し待てばフェリーとフェリーの間隙を縫って航路を横断し、厳島神社の前までホクレアを連れて行くチャンスがありそうでした。
ナイノアに、一度桟橋を通り過ぎて厳島神社の前まで行く旨を報告し、カマヘレに、2隻から離れないように指示し、タイミングを計って、フェリー航路横断を開始しました。
海上保安庁の巡視艇が近くにいました。我々の意図を理解して、それに対して何か指示が出されたらすぐに従うつもりで注意深く見ていましたが、その巡視艇は我々の進路の前方海上に漂流していた大きな流木を引き上げる作業を始めました。我々に対して何かネガティブな指示を出す様子はありません。
定期フェリーの船長たちに迷惑を掛けないタイミングを選んで航路を横断したつもりでしたが、ホクレアの姿を見たフェリーの船長たちがそれぞれに大きくコースを変え、余裕を持って3隻の艇団を避けてくれています(いや、予定外でしたが、打瀬舟も一緒に着いて来たので、正確には4隻の艇団です)。汽笛を鳴らさないということは、ホクレアのことを承知した上、という行動のようにも見えます。
くだんの海上保安庁の巡視艇が、我々に「そういう危険な行動はやめるように」という命令をしないばかりか、フェリーと無線連絡を取って我々を避けるよう、指示をしてくれているような気配さえあります。
おかげでホクレアとカマヘレのクルーは、海から荘厳な厳島神社を見ることができたし、ぼくもその様子を曳航船から見ることができたし、また、ホクレアとカマヘレの2隻とも、再び定期フェリーの航路を横断して、チャーター・フェリーが到着する前に桟橋に係留することができました。
あの日、広島で、打瀬舟の乗組員の方々ばかりでなく、曳航船の船長、海上保安本部の担当者の人たち、フェリーの船長たち、そして村上さんを代表とするシーカヤック関係者たちといった、あの海で働いている日本の海関係者たち全員が力を合わせて、日本の海で働く人間の心意気を見せて、ホクレアとカマヘレを迎えてくれたのだと思っています。
それにしても、打瀬舟とその操船技術、なんとか保存する方法はないのでしょうか?
福山ゆかりの方だったとは、驚きました。我が家の菩提寺は賢忠寺といって福山藩主「水野勝成」の菩提寺にあります。とはいえ、もとは因島ですが。
もうひとつ驚いたことがありました。
ラッセルクーツが、福山を通ったとき「あぶと観音」という福山の鞆の浦南にある観音堂に、ラッセルクーツのヨットが立ち寄ったとき、カヤックで一人接近しておりました。ヨットは撮影しながらだったのでおよそ10分程度のランデブーというか、田島で写真を撮ってくれていた村上さんというヨットマンの方が電話でタッキングのタイミングを教えてくれて僕は言われるままヨットに近づいていったんですよ。
じゃあ、ヨットの中にいた一人だったんですね。
その節も、失礼しました。
ホクレアの宮島入りの話、伝わってきて、ホクレア側の心境、僕たちの状況がすり合わさって、なんか頭に生々しく記憶が戻ってきました。
僕のわかることで言うと、フェリーは廿日市市から
「ハワイの船が来るからよろしく!」ことを言っていて快い方向での返事をもらってくれてたそうです。
僕は、それに加えて観光協会の方に「ホクレアがきたら汽笛を鳴らすとか、フェリーの艦内放送でホクレアの紹介をしてみんなに手を振ってもらうようしたら
ホクレアはみんなは喜びますよ~。なんてたきつけたのを覚えています。僕からすると保安庁さんもホクレアの神々しさにすべてを理解されたんじゃないでしょうか。打瀬船のほうは「どうかねえ、僕らも通してくれるかねえ?いっちゃれ~。」てな感じで恐る恐る瀬戸に入ったんですよ。ちょっとおもしろかったです。
そういえば、ほくれあ丸の旗を作ってくれた福山の武者のぼり職人さんは、ホクレアの写真のいっぱい出ていたカヌーライフを4冊も買ってくれて「孫にくばるんじゃあ。」といって喜んでいました。打瀬のクルーの皆さんも普通の生活にもどってしまいました。
打瀬技術保存のほうはほんとうに難しい問題です。
福山には鞆の架橋問題もあって「温故知新」ということばがの大切さが、伝わりにくい状況に歯がゆさを感じています。祝島では7月に官公庁も関係する環瀬戸内海会議が祝島で開催されることになったそうです。もちろんテーマは原発でしょう。これはすごいことだと思います。僕も少しづつでも今の気持ちを持ち続けること、まずはこれしかないかと思っているところです。
ナイノア自宅のこと今日知りました。Tシャツのことも今日知ったので予約できなかったし…。
ブログチェックこまめにしなくっちゃっていまさら後悔しております。
あぶと観音のシーカヤック、覚えてますよー。あれが村上さんだったんですねー。
宮島のフェリーは、やっぱりそういうことだったんですか・・・。いや実は、1隻本州側から来ていたフェリーの進路を邪魔しないタイミングで航路を横切ったのですが、そのフェリーが大きくコースを変えてホクレアとカマヘレを避けてくれたので、驚いたんです。
村上さんが説明をしてくれていたからなんでしょうけども、やはり海で生きる人間同士、分かる人たちは分かってくれていたんですね。
打瀬舟。提案なんですが、打瀬舟を保存することと合わせて、精密な模型と「操船術マニュアル」を作る活動みたいなのをしてはどうでしょうか?
実艇を建造・管理するよりはお金がかからないでしょうし、将来打瀬舟を復元することが可能になったときの資料にもなりそうです。
そのひとつをナイノアにプレゼントしたら、喜んでくれるのではないでしょうか。
ナイノアの自宅にはサバニの精巧な模型が大切に飾られていました。それもおそらく焼失したことでしょうから、サバニ(今週乗りに行ってきます)の船主に、もう1隻プレゼントしてはどうかと提案してくるつもりです。
でも改めて模型を作ってもらう行動も、意味を持ちそうですね。
そういえば打瀬船を復元するとき、どうしてもわからないことがあって、愛知資料館にある打瀬船を見に行ったという話がありました。当時の島の大工さんたちの勢いみたいなものを感じました。
それと、昭和の広重といわれた版画家「川瀬巴水」さんの版画の中に1930年代から1950年ころの瀬戸内海の風景があってその中にたくさん打瀬船が登場しています。そのクレジットには高松・明石・備後・あぶと岬etc.と入っていていかに瀬戸内海の海にたくさんの打瀬船が浮かんでいたか、よくわかるものでした。
一枚、東京の版画商で7万5千円で売りに出ていました。
http://godairikisen.jugem.jp/
2010年6月6日に宮島沖、6月7日に鞆の浦入港で舟釘の積み込みをする予定です。
内海丸とツーショットすることは可能でしょうか??