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ネット言論の試練1

2005年05月01日 17時54分23秒 | 俺のそれ
―私的ブログ考、妄信という動機

私は昨年の10/22日にブログデビューして以来、半年が過ぎました。当初は何となく始めてみたのですが、こんなに続けられるとは思ってもいませんでした。今度デザインもちょこっと変更したりしてみようかな、と思ったりします(たいした問題でもないのですが)。初めの頃に書いた記事を見ると、何と言うか、恥ずかしいですね(爆)。どこか大衆に媚びるような口調があります。どういう人々が読んでくれるか分らなかったことと、出来るだけ沢山の人達に読んでもらいたいと思い、何となく媚びてしまった感があります。だって、誰も読んでくれないなら、つまらないし。書く時に、読み手を意識するということが出てきたのは、暫く書いてからです。今も出来れば百万人の方に読んで欲しいとは思いますが(笑)、それは無理な話ですから、読んで欲しいと思う、特定の方々へ向けて書いているように思います。時々そうでもなくて、普通に素直な気持ちというか、感情を露わにして書いてしまうのですが(笑)。そうした無礼も承知しておりますが、どうぞお許し下さい。


今までの感想は、ブログって色んなことがあるんだな、ということ。論争とか炎上とかコメントスクラムとか閉鎖とかを含めて。人間の感情が、自分の外部へ向けてこれほどまでに表現されるというのは、ネットの特性なのでしょうか。掲示板とか昔のこととか、私は全然知りませんでしたが、ネット上のコミュニケーションは、現実世界におけるものと違いが見られるようです。理由が何なのかは判りませんが。

私の単なる個人的意見から少し先に進んで、いくらか考えを共有して下さる方々がおられたり、純粋に有意義な示唆とかご意見を下さる方々がおられたりして、自分の考えや意見というものを書いてきて良かったと思えます。自分の意見表明が世の中に対してどれ程の影響力があるのか、また何かの役に立っているのか、といったことの評価は出来ないですし、よく分りません。これっぽっちも役に立っていないかもしれないし、逆に悪影響なのかもしれないし、無駄なことなのかもしれない。指摘があるように、自己満足を作り上げる、無益な作業を行っているのかもしれない。だが、唯一の支えというか、書く動機というものは、「顔は見えないが、ネットの向こう側にいる誰か」が読んでくれて、何かのキッカケとなったり、考えの足しにしてもらえたりするんじゃないかという、ある種の幻想というか、妄信とでも言うべきものかもしれない。他の人達が何故書くのかは、正確には知らない。

残念なことは、人気が出ないことだ。一週間のpvはgooのデータしか判らんが、8千~9千、多いときで1万ちょいだ。「風○嬢の・・・なんちゃら~」とかにも全くかなわん。きっと私の記事がつまらないからだと思う。そう思って、時々変な色気を出して(笑)、柔らかい記事も書こうと思うのだが、かえってpvが落ちちゃったりする(ガックリ・・・)。gooだけでもうすぐ20万にもなるというのに・・・他のブログに鞍替えしてみるか・・・そういうことは関係ない、あっそうですよね、やっぱり。書き手の能力によると。シクシク・・・

私は当然のことながら、専門家としての立場で書いている記事は無い。評論家でもなければ、難しいことが判る学者でもない。本当に一介のオッサンに過ぎない。もしも私が、本当は何処かの偉い教授とか立派な役人とか財をなした資産家とか(笑)だとしたら(私の文章をお読みになれば、いずれも明らかに違うことが直ぐにお分かり頂けるでしょう)、多くの人が信じたり支持者が増えたりするのだろうか?私の立場が変わることで、私の書いた内容の信頼性に変わりはあるだろうか?私が仮に政治評論家と名乗っていたならば、多くの人はゲンナリするだろう。単なる一個人に過ぎないことが、「何も求められない」ということに繋がるようにも思う。何の期待も持たれることがない、というのは非常に有り難い。自己都合で勝手に書けてしまいます。そういう意味では、私は卑怯なのかもしれません。


私は難しい本を読んだり、色々な資料とか文献を調べたりして書くことは殆どありません。自分の単なる感覚で書いてしまっています。これは読めば明らかですから直ぐに判ると思いますが、いいと思うか悪いと思うかは読み手にお任せしています。また、「本当にそうなの?」ということも、読み手の方に判断してもらえたら、と思っています。だって、普通はちょっと読めば書き手のレベルは直ぐにわかるでしょ?そういう部分は、ネットの評価というのは概ね当たっていると思います。信頼性が高く、いいこと言ってるなとか、なるほどと思うような言説については、多くの支持を集めていることが多いと思います。ですから、ネット上で有名な人達(現実世界では別として)が書いておられるブログには、沢山の読者がついています。


今まで書こうかどうしようか迷っていたことがあります。それは、小倉先生がIT frontのブログを終了することです。って、違います。これはこれで残念に思いますが、他でブログを始めるそうですので(という噂が何処かに書かれていました)、そちらにお邪魔しようと思っています。このことではなくて、切込隊長氏のことです。先月終わりごろから、経歴についての疑惑があったらしく、記事の更新も少なくなって、非常に残念です。私には、切込隊長氏がどういった人物で、どのような経歴の持ち主であったのかは、あまり興味がありません。たとえ聞いたとしても、「へぇ~、そうなんだ」くらいにしか思いません。今までそんなに有名な投資家であったことも、資産家であったことも知りませんでしたし、何の仕事をしていたとかも知りません。著作を買ったことも、読んだこともありませんし。ですが、記事を読みに行き、「ほーぉ」「何言ってるかわからんな」「随分小難しいことを言うねえ」「もっと易しく書いてくれ」「こんな発言は止めてくれ」などということを感じたり、それを自分の記事にも書いて来ました。切込隊長氏に裏切られた訳でもなく、騙されたとかもありませんから、経歴の何が問題なのかと思います。金を100億持っていようが、いまいが、私には何の影響もありません。くれるというなら話は別ですが。真実はどうなのか知りませんが、以前から書いているように、ブログの記事を信じたくなければそこに行って記事を読まなければ済むことです。現実世界にしても、切込隊長氏に影響があるだけで、読者はとやかく言ってみても仕方がないことですね。仮に私が今、100億円の資産家であったとしても、これまでの記事には何の変化もないはずです。何かの先入観をもって物事を見ようとした人達にも責任があるように思います。ただ、仮に「切込隊長氏の言説に虚偽が多い」という世間の評価が大勢になるとしたら、今後のブログ全体の信頼性に影響するでしょう。私ごときの感覚記事とはわけが違いますから。それでも、記事を書き続け、再び信頼を作り上げられれば、それはそれでいいと思っています。切込隊長氏という書き手をみすみす失うことは、あくまで損失としか思えません。



今までも言ってきましたが、私は高名な学者さんが書いた難しい本や哲学書、論説本といったものを読めるほどの水準にはありません。難しい言葉も全然知らないし、専門知識も何にもありません。その代わりと言っては変ですが、田舎モノの私は自分の感性というか感覚を重視します。根拠は特にありません。著名人がこう言っていたから、とか、誰々がこう書いていたから、とか、そういう理由で賛成したりはしません。自分が考えた時、賛成できるかどうか、共感できるかどうか、感服するかどうかでしかありません。その判断の良し悪しは、正しいかどうかも判りません。真実ではないのに、信じ込んでいることも多くあります。でも、自分の感覚的な判断や基準をある程度信じています。恐らく、それで今まで生きてこれたからだと思います。ですから、いつも突拍子もないことを書いたり、大間違いなことを書いたりしてしまいます。賢い人が読めば、「あー、まるで間違ってる」「トンデモナイ」と直ぐに判るでしょう(笑)。単なる私の感覚に過ぎないのですから。おバカということですね。それでもいいじゃありませんか、と開き直ってみる(笑)。


私は「恐らく富士山はすごく高い山だと思う。ひょっとして、日本で一番かも」と記事に書く。調べた訳でもないけれど、多分そうなんじゃないかな、と。でも、資料をきちんと調査して書けよ、という立派な人も沢山いて、そういう人達は、「富士山は3776m」「日本の山の10傑は・・・」「世界の山と比べると・・・」とか、きちんと記事に書いてくれる。そういう記事を読むと、私は「そうだったのか」と感心して、この人は信頼性の高い記事を書く人だな、と判るわけですね。あと、私は「富士山はアジアで一番だったような気がします」とか間違えて書くのですが、これは知っている人が読めば直ぐに判る。そりゃ違うだろ、と。賢い人は、そのように読んでくれるはずです(調べないことを推奨してる訳ではありません。調査能力が低い、おバカなもので、ゴメンナサイ)。別な意味で考えると、空想とか想像だけで書いてしまうこともままあり、はっきり言ってこれはよくないな。勝手な空想野郎とでもいいましょうか、無知なる生き物ですね。


文系の人達は普段どういう研究の仕方をするのでしょう?私はよく知らないのですが、考古学とかなら遺跡発掘とか、インディ・ジョーンズとか(笑)のような研究もあると思うのですが、例えば法学部教授は、毎日講義無い時にどのような研究をするんでしょう?想像ですが、誰かが書いた本とか論文とかを百とか二百とか読み漁り、「ふーん、そういう見方、意見、解釈もあるんだー」と知った後で、じゃあ自分は「こう考える、解釈する」というような方法なんじゃないか、と思うのです。それとも裁判所に足しげく通って、一つひとつの裁判例を調べ上げたりすることもあるのかもしれませんが、大体本とか何かを読んだ結果、何か書く、という頭の中だけの作業をするのではないでしょうか?A説、B説、C説があり、私はこれらを考え合わせてD説です、のような。それとか、A説よりもB+C説の方が妥当なのではないか、とか。要するに、実験とか科学的データを取ることよりも、頭の中で「考える」という作業によって完結することも可能なのではないか、ということです。哲学や宗教学なども似たような感じなのでしょうか?私の空想・想像(もしくは妄想?)の作業と、レベルや意味は全く違いますが、やることは似てるんじゃないかと、勝手に思ったりします(笑)。

A説を説明する時に、誰かの文献を元にするでしょうが、A説にも初出の時が必ずあるはずで、これは単なる考え方の一つに過ぎず、その厳格な証拠などないと思う。でも他の研究者達が、「なーるほど」と思ったり、多くの専門家が「賛成ー!」と言えば、きっと認められてA説になるのでは?勿論、考える道筋には妥当性とか基礎的知識は必要でしょうが、極論すれば、きっと頭の中の「想像」で書いているんじゃないのかな、と思う。論理的思考の結果導き出される結論と思しき推論は、あくまで想像(という言葉が適切なのか判りませんが、他に思い浮かばないので・・・)に過ぎない。言うなれば、推理小説に登場する探偵の、最後の謎解きシーンは限りなく想像であって、実験データのような、目の前に再現できる事実ではない。その推論に大多数の人達が納得するのであるけれども(これが定説として捉えられるという意味?)。


ということで、ある分野の研究者達は、単に自分の頭の仲に浮かぶ言葉(想像)を文章化したものが、論文などの研究成果ということになるんじゃないだろうか?ならば、私の単なる想像・空想による文章も許容されてもいいんじゃないでしょうか?(って、全然違いますから、残念!)暴論というか極限的こじつけだな(爆)。


学者さんは難しい本を読み文献考察の結果から、自分の脳内で理論を構成して書く。
私は、漫画本を読み身近な生活の経験から、自分の脳内で屁理屈を構成して書く。

ほら、作業パターンは似てませんか?苦しい~