いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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篤志家の心

2005年05月16日 18時29分49秒 | 社会全般
昔の人々が偉かったと思うことは、投資するべき対象に人物を選んでいたことである。学校を創設した人々は、「儲ける」ことを目論んで設立した訳ではない。優れた学問や教育を子供達に受けさせようという思いで、学校を作ったのである。私財を投じて、或いは寄附を集めて、学校の設立に尽力した人々が多数いたのだ。明治時代の、大金持ちでもなかった人々がお金を出して、国や民衆の為に役立てる人間として育成したというその心意気に驚くのである。


有名な野口英世が上京する時に頼ったのは、血脇守之助という(後の東京歯科大学の創設者)、まだ26歳の勤務歯科医であったのだ。その給料から野口英世(当時はまだ清作)に金を工面したり、仕事の世話をしたりしていたことを考えると、人間の大きさというものを感じるのである。また、野口ばかりではなく、明治時代には縁故とか、同じ県の出身ということを頼りにして上京した(県人会は、そうした流れを汲むのかな?)人達がたくさんいて、地元の後援者(篤志家)などから学費の援助をしてもらうことも珍しくなかった。貧乏だが優れた能力があるということで、全くの他人が学費を無償でくれるという、厚情の時代だったのだ。広田弘毅も裕福ではない石屋の倅だったが、学費を他人が出してくれたはずだ。そう考えると、明治人って本当に立派だったのだな、と思う。こういうことって誰が教えたのだろう?「金持ちは優秀な他人の子供に学費を出す」っていうことを、誰かが教えて出来たことなんだろうか?それとも急速に西欧化が進んで、キリスト教系の寄進・寄附行為が一般化したのだろうか?


いずれにせよ、人間を成長させることには金を出す、という明確な意図があるのだ。今の有名私立大学などの多くも、そうした人材育成・教育への理想を持った人達が開校したのだろう、と思う。列強に負けない、国際社会に通用する優れた人材をどんどん育てようという時代の機運が溢れていたのかもしれない。そういう流れの中で、個人的援助にお金を出す人達も多く存在したのだろうと思う。勿論、自己利益のみの執着が強い人達もいただろうと思うが。今の時代に、これほどまでに他人に何かしている人はかなり少ないと思う。税制とか社会環境は違うと思うが、今の高額所得者が昔ほど人の為に拠出しているかどうかは分らない。現代の援助と言えば、悪い意味でしかなくて、「援助交際」という犯罪行為くらいしか出てこないというのも、誠に恥ずかしい限りである。本当に同じ日本人なのだろうか、と思ってしまう。


現代の日本人は、自己利益に囚われ過ぎて、志を失ったかのようである。空ろな態度や言動、空しさが充満した心、そういうものに覆い尽くされて、社会全体の活性が低下したように見える。志を取り戻して欲しい、そう願う。


個人の出来ることを精一杯やることで、社会に役立ち、自己の存在意義が見出せるかもしれないし、充実した気持ちを得られるかもしれない。今は、そういう心意気が感じ取れないような社会だからこそ、ギスギスした、単なる足の引っ張り合い、蹴落としあいみたいな感じがするんじゃなかろうか。明治時代から試験による競争などは同じようにあったし、グローバル化の進度は今の比ではなかっただろう。近代国家ですらなかったのだから。それが僅か30年足らずで、驚異的な努力と適応力で乗り越え、国家の形をなし、日清戦争と日露戦争で大国を退けたのだから、そういう潜在的エネルギーは今の日本人にあっても不思議ではないと思う。当時の日本は国際社会の表舞台に登場するのが遅かったが、非常に大きなインパクトを与えたはずだ(私は日清戦争や日露戦争を美化するつもりではありませんが、両国とも当時の日本に比べれば大国と目されており、国力で劣っていた日本が両者に勝つような力を短期間でつけられたのは、日本人の特性によると思うのです)。


明治時代には、競争相手は常に諸外国であり、隣人との競争というような視野の狭さが、今ほどなかったのかもしれない。現代は情報とか交通機関の発達で、世界は時間的にも空間的にも、明治時代よりはるかに狭まったはずだ。だが、それとともに人間の視野が狭まり、遂には隣の人とか、ごく狭い範囲の日本人同士の競争にばかり目を向けるようになってしまった。会社でも隣の机に座っている奴とか、同期の奴とか、そういう偏狭な視野しか持てない人間が増えてしまったんじゃないだろうか。そして、遂には他人の誰にも目を向けられなくなる、自己中心の、というか自分しか存在しないような、異常に狭い範囲しか見えない人間までが登場するようになったかのようだ。そういう、退行現象のようなことが起こっているのかもしれない。


今年で最後となる納税者番付を見て羨んだり憧れる前に、思い致すべき「篤志家の心」―そういう志のある行いや仕事というものについて多くの日本人に考えて欲しいと思う。勿論私自身もそうなのであるが。どんなことでも、実行は難しいですからね、やっぱり。反省。



電子マネーは紙幣を殺すのか?(笑)

2005年05月16日 13時24分44秒 | 経済関連
パクリ風なタイトルで申し訳ありません。先頃テレビを見ていたら(テレビ東京系、WBSの仲間みたいな番組)、電子マネーやカード決済先進国のお話がありました。なんと意外にもアイスランド(だったと思うよ、アイルランドではなかったはず・・・労働生産性向上が著しいけど・・・)でした。ちっぽけな屋台でさえカードが使える。全支払いの約7割くらいが電子決済だそうです。カード普及率も非常に高く、子供も当然持っていて(家族カードみたいなの)使っています。驚きました。ここまできたんだな、と。多くの人は、リアルなお金を持っていなくて、それでも困らないんだそうです。うむむむ・・・。日本のe-japan、u-japan計画はどうなんでしょうか。順調に進んでいるのかな?かなり前に米国に沸き起こった、「スーパー情報ハイウェイ計画」みたいなもんなんでしょうかね。


ネットワーク社会の未来像の一端が見えるような気がします。日本でもsuicaとかEdyとかの電子マネーが増えてきており、カードも利用できるし、デビット(「デビッド」だったか?)も利用できるとか、色々進化してきています。いずれは、クレジットカード決済と電子マネー(これもいずれ規格統一が行われるんじゃないだろうか)に整理されていくだろうと思われますね。今私が住んでいる所は、電子マネーもお財布携帯もsuicaも何も関係ないので必要性を感じませんが(使える場所も施設もないでーす)、将来の見通しとしてはそういう時代になっていくでしょう。商品には全てICタグになり、万引きは絶対不可能にできるだろうし、商品管理も自動でできるし、レジに金がなくなるので強盗は意味がなくなるだろう。ということは、高度なネットワーク社会は、リアルマネーが消えて、強盗とか万引きが大幅に減少させられるんじゃなかろうか。凄いぞ、電子マネー。だが、ハイテク犯罪とかネットワーク犯罪などが増えるかもしれないな。となると、セキュリティ技術とか生体認証技術などの高度化で対抗ということになるでしょうね。むむう・・・よくわからんけど。強盗殺人がなくなるなら、その方がいいよね。でもお財布携帯を落とすと、勝手にバシバシ遣われちゃうと困るから、そういう携帯とか電子マネーカードみたいなものにも、生体認証技術が必要だね、きっと。こういう時代になっていくんですから、「個人情報がどうの」「納税者番号は無理」「住基ネットは危険」とか、毛嫌いで済まないと思うよ。他のサービスの基準と考えあわせれば、どうしたってそういうネットワーク社会にならざるを得ないと思うけどね。そういうサービスを一切使わず、自分だけ情報をがっちりガードして、尚且つネットワークに全く参画しないで一生涯過せる人なんていやしないよ。だからね、前から言うように社会保障番号を導入した方がいいよ。本当に。払ってない人を確実に追跡できるよ。そういうネットワーク社会が目前に来ているんだってば。


粗暴犯罪としては、強盗がなくなって恐喝・ユスリが増えるのかな?「おい、にいちゃん、ちょいと待ちな。お財布携帯の金を吐き出せ!」とか言われちゃって、「俺の携帯に(たまごっちの通信機能みたいなので)残高データよこせ」とか「おれのエディちゃんに入金しろ、早く」とか、路地裏に連れ込まれて、金を巻き上げられることになってしまったり・・・ああ、これはひょっとして強盗なのかな?何だか、間抜けというか、迫力がないかもしれんがのう。映画のような、難攻不落の巨大金庫に眠る大金をどうやって持ち出して逃げられるか、みたいなのもなくなるってことだよね。銀行ネットワークの厳しいセキュリティを破って、残高データを書き換えたり、架空口座への入金指示などで数字だけを盗むようになるのかな。これなら、1人で実行可能だし、特別な計画とか何も要らないしね。銀行さんは、頑丈金庫への設備投資は避けるべきってことかな。


現在の日銀の銀行券発行とかの処理はどうするんだろうか?リアル紙幣がなくても、数字上の「発行額」というのは作らなければならないのかな?会計上の数字だけ変えるんだったら、楽そうだし、幾らでも変更したりできそうだけどね。それとも電子マネーが主流になったら、銀行券の発行残高が大きく減少して、保有資産の減少(国債保有高など)とかになるのだろうか?よくわかりませんね。


世界的な流れで考えると、ドル紙幣もいずれはなくなっていくのでしょうか。資産の9割分くらいが銀行券のアメリカでは、大幅に電子マネーに切り替えたりはしないのかな。全世界に散らばっているし、ニセ札も混ざって流通しているだろうし。どうするんだろう?ところで、FRBのグリーンスパンさんはかねてからの噂通り、勇退ということになったようです。市場の信任の厚かった彼に代わって次の議長になる人は大変だろうね。今日の読売新聞には、グリーンスパンとクルーグマンを並べて、スタグフレーションの見解と共に、楽観派代表と悲観派代表という扱いで、主張を書いていた。グリーンスパンは長く在任したし高齢なので、もう仕事しなくとも十分だと思うのだが、シャレで「職探し」と言ったらしい。なかなかいいじゃないか。気の利いたコメントって、出来そうで難しいよね。

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - FRB議長が退任表明、06年1月末の任期限り


追記:
お金が全て電子マネー化したら、高いとか安いという感覚は、数字列を見て感じるので、何と言うか、金額の数字列は「図柄化」「絵・模様化」するんじゃないだろうか。「この絵の時には、高い」って感覚と一緒だよね、多分。「1万円」という数字列と「ハートのエース」というのには、本質的な違いがなさそうな気がするんですね・・・「ハートのエース」を「1万円と等価」と決めたら、そういうことになるでしょ?(違うかな?)そんなことを思うと、電子マネーの感じ方は、リアルなお金を使ったことがある世代と、全然使ったことがない世代で、違うような気がする。リアル紙幣とかを使った時の感覚が数字列に置換されるのと、数字列しか見たことない人の感覚の違いは、想像つかないな。多分、今の私が1億円の小切手をもらう時の「実感のなさ」と似ているのかな?よく分らんな・・・でも、模様化した金銭感覚は、非常にヤバイですね。単なる数字列が価値判断に置き換わることになるなんて、どこか不自然ですね・・・