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「中国反日デモ」から見える日本政治~その3

2005年05月23日 18時00分17秒 | 社会全般
②サイバー・デモクラシー

近年この「サイバー・~」という造語やテクニカル・タームは増加の一方であるが、佐々木氏は「サイバー・デモクラシーの問題として学界でも話題になっている」と述べており、どうやらこの「サイバー・デモクラシー」が学界では既に認知されているということのようである。これに少し関わりのある記事を以前に書いたので、参考までにお読み頂ければ幸いである。


言葉の創造と理解
続・言葉の創造と理解
日中関係の報道は?
電脳炎上と現実炎上
右翼化する時代


佐々木氏はこうしたサイバースペースの政治活動については、「政治的近代化の観点からすれば、インターネットの世界に大きな政治的エネルギーが滞留するのは決して好ましい事態ではない」としている。これは、ネットでは「政治的意思の疎通においてはしばしば過激な議論や言辞、「現実」から乖離した議論が流通しやすい傾向があり、人間同士が向かい合って議論することを通して醸成される「現実」との接点が貧困になる可能性を含んでいる」ことをその理由として挙げている。今までの傾向から見れば、そのように考えることは自然である。そして、この「サイバー・デモクラシー」への否定として、「「現実」からの遊離を促進し、政治の疑似体験にいたずらに自己満足を見出す可能性が高い」とした上で、この対策としてはリアルな世界での「政治的意思の表出余地を広げ」、「「現実」にそくした実物教育に誘導していく方策が望まれる」と述べている。


佐々木氏の主張は、「サイバー・デモクラシー」への期待やエネルギー蓄積は避けるべきである、というものであると解釈した。また、私が最もショックを受けたのは、そのものズバリと言われてしまった、「いたずらに自己満足を見出す」ということであった。まさにそうだ。これは以前の私の記事にもそのようなことを書いたのだが、真にその通りだとすればまことに残念である。私の今まで費やしてきた、下らないエネルギー蓄積は一体何だったのか、という無念さがこみ上げてくるが、多分“学界”ではこうしたサイバースペースにおける言辞には「耳を貸すべきではない」ということが未だ主流なのであろうと推測する。やはり現実社会で特定階層に属さない人間の言説というものは、何の説得力も持たないのであるし、ネットでの意見というものはそれ自体が「仮想」なのであって、現実遊離の産物であるということだ。


これを「はいそうですか」とは素直に認めたくはないが、実際には多分当たっているのだろうと思う。だが、佐々木氏が言うように、一般大衆が「「現実」に自ら対面し政治権力と向かい合って、自己の政治的意思の表出」を実際に行うことなど可能なのだろうか。ならば、聞こう。現実に小泉首相や竹中大臣が私に向き合ってくれたり、岡田代表が私と対面してくれたりするだろうか?そうして、私にはそうした政治的意思の表出機会が実際に与えられることなどあるだろうか?答えは勿論決まっているだろう。「それなりの「現実」感覚」とはそういうものなのではないか?政治的近代化は一般大衆の政治的意思の自由な表出機会・環境が必要なのであり、この機会・環境において現実世界とサイバースペースとの違いを求めることなどないように思うのであるが、佐々木氏は「現実世界で申し述べよ」ということなのだろう。この感覚は一般大衆のものと全く異なったものであり、それは氏がおよそ多くの政治関係者と直接会えるとか、意見表出する機会があった為に、「現実世界で申し述べよ」という発想になるのだろうと思う。それは氏が単に特定階層に属する人間だったからである。これが果たして政治的近代化なのか?


これに対する叛旗として、「サイバー・デモクラシー」の影響力を高められるように私は活動を続けるし、「現実遊離」や「自己閉塞」に陥ったりしないように出来るだけ注意をしながらやって行こうと思う。だが「自己満足」を防げる自信はない。政治的影響力の評価が正確には出来ないので、活動の動機付けとしては「自己満足」という面が必要になることもあるからである。


③政治の「幼稚化」

佐々木氏はこれに関しては、「これまでの政治権力の基盤が動揺し、それに代わる政治的体験のストックがないという状況は安易なナショナリズムに格好の舞台を提供している。しかもこうしたナショナリズムが互いに連鎖反応を起こしている」、「メディアは互いの国民がどのような好悪感情を持っているのかを大々的に報道し、政治の動向が互いの「好き」「嫌い」関係によって決められるというような「幼稚化」現象が一部に浮上しつつある」と述べている。つまり、第一にメディアの反応・報道が余りに「幼稚」であり、第二に国民の好悪感情は大衆迎合化しつつある政治の現場で政策決定に影響を与えるということで、これら一連の現象が、政治の「幼稚化」ということであろう。

恐らく、この現象は中国だけに向けられたものではなくて、韓国や日本も含めることを意図しているだろうと思う。それが氏の言う「東アジア地域における政治的体験のストックの乏しさと政治の「幼稚化」の問題」で、むしろ日本の大きな問題にありつつあると感じているのかもしれない。そこで、日本への警鐘としては「まずは自ら「幼稚化」現象に陥らないこと、その上で世界世論を背景にこの地域の政治的・社会的近代化の旗印を掲げ続けること」と述べている。ただ、この「旗印を掲げ続けること」というのも、分ったようで分らないアドバイスである。だって、本当に旗を立てるわけにはいかないので、国民の好悪感情に流されることなく政治的決定を行う、というくらいのものであろうが、それが諸外国から見た時に成熟した国家としての姿勢として理解されるかどうかは不明だからである。外交の実力・政策や国際的政治力という点では、日本は旧大陸国家群と比肩するにはまだまだ遠いと言わざるを得ないと感じている。

政治的体験のストックで言えば、ヨーロッパのように近代国家群がしのぎを削り続けたりしない限り、実力をつけるのは容易ではないだろうと思うし。


まあ、小泉さんは今までよりも「程よく感情の抑え」がきいている方が望ましいのですが、発言には「好悪感情」がにじみ出てしまうのですから、日本が成熟した大人の国家としては評価されないこともあるかもしれませんが。今後閣僚全員に、ポーカーとかブリッジなどのカードゲームで鍛えてもらおうか(笑)。


シリーズの記事:
「中国反日デモ」から見える日本政治
「中国反日デモ」から見える日本政治~その2


「中国反日デモ」から見える日本政治~その2

2005年05月23日 13時59分15秒 | 社会全般
前の記事の続きです。昨日は用事があって、途中になってしまいました。スミマセンでした。
「中国反日デモ」から見える日本政治


また佐々木氏は政治的近代化とは、「大多数の人間が「現実」に自ら対面し、それなりの「現実」感覚を培い、その上で政治権力と向かい合うということ」を前提とし、「「現実」を認識するための多様な情報の流通がそのインフラとして存在した上での話」と述べている。日本においても確かに政治権力にいつも対面してきただろうが、大多数の人間が本当に現実認識のベースとなる多様な情報に接し、それを基にして政治の現実感を本当に持ち得たのか定かではないように思う。


明治以前に存在した政治体制としては、何と表現するのか分らないが、”商業ベース”の統治制度が好ましいようで、しかも村とか県(藩)レベルに小さな範囲の方がより効果的に統治が出来てきたような気がするのである(ごく一部の商業都市統治や一向宗などによる統治などの例外があるが、おおよそ自由度で見ればこうした限局化された統治の方が政治的には近代化されていたように感じるので)。”商業ベース”というのは、単純に経済活動が活発に行えればそれでよく、そういう経済活動の結果によって一般民衆の活力があり、統治者に対する反発が少ないのではないのかな。米が豊作であったり、郷土品がよく売れたりして、民衆がある程度潤ってさえいれば、特別な思想的活動を活発化して幕府転覆を図るなどということはないのではないか、と思うのである。そこには政治体制に対する特別な思いというものが存在しないんじゃないのかな、と。まさに黒澤映画の「七人の侍」に出てくる農民達と同じようなものなのではないかと感じるのである。


そういう背景があって、明治以後に一般大衆が急速に政治的経験を多く積み、その事が政治的近代化に大きな貢献をしたのだ、とは言えないように思う。日本の一般大衆の暴動は、前世紀末頃のロス暴動とあまり違いがなく、発端となる理由には様々なことがあるだろうが、行為内容としては困窮者が暴徒化して略奪などを働くというレベルであり、政治思想への強烈な変革要求というものは存在してこなかったのではなかろうか。暴動が起こったとしても、江戸幕府の征夷大将軍の「お命頂戴」とか「退任要求」とか「死刑実行」などということが起こらなかったろうし、明治天皇への要求というほどの事態には発展しなかったのだろう。一般大衆の要求レベルが、国民の権利とか自由とか統治体制の大変革というものではなかったということだ。


明治以後に幾度も暴動が起こったが、一般大衆の政治的意思が統治者を退場させる程の力を持っていたことなどあるのだろうか。現憲法に変わってからの戦後政治になっても、一般大衆のデモや暴動などの混乱は見られたが、それは中国の反日デモと似たような程度の社会的ストレスが発散されたに過ぎないのではないか。すなわち、ロス暴動や反日デモも安保闘争と似たレベルであり、政治的近代化のエポックとは異なったものと私は受け止めている。日本において、一般大衆は政治思想が成熟して暴動を止めたりするのではなく、明治以前の民衆と似たような「経済活動」が保全され安定した「経済状況」である限り、社会的ストレスの蓄積・膨化が単に少ないだけなのであり、それが見かけ上の政治的安定性となっているのであろうと思う。


結局のところ日本の政治的近代化は、一般大衆が牽引したというよりも、特定層の人達のせめぎ合いが行われ、それを傍から見ていて「誰に乗るか、どちらについていくか」のような行動が行われてきたことによるのではないだろうか。まるで会社組織の中で「どこの派閥に加わるか」「誰に付き従っていくか」というような、生き残り戦術みたいな面があって、それが大規模に行われた結果がその時代の政治に繋がってきたのだと思う。特定層のせめぎ合いは大衆支持に必ずしも比例しておらず、会社の派閥で言えば上司同士が勝手に争って結果が決まり、それぞれ支持する部下達の意向とは直結しないのである。そのことがいい場合もあるだろうし、悪い場合もあるだろう。正しい「誰か」が常に存在するとも言えないし、選択するべき「誰か」がいなければ戦前の日本のような方向へと進んでいってしまう。また、近年のように政治的無関心が起こることや、特定部分だけ見れば大衆迎合の結果として悪い方向へと進んでいってしまうこともある。特定層の人達の争いの結果は、とても重要ということになる。近年ポピュリズム的側面が強調されているような感がなくもないが、こうした傾向も特定層の政治思想の脆弱化によるのかもしれない、とも思う。


佐々木氏は一般大衆が自由な「政治的・社会的意思表示」が可能な環境を政治的近代化の条件と考えておられるのであろうと読んだのであるが、これはまことにその通りであろうと思う。中国の今後の政治的近代化において最も考慮されなければならないポイントであることは佐々木氏の指摘は正しいと思う。情報の統制や意思表示への政治的権力の制限が大きいことは、(今回のデモの抑制・防止にも繋がったのであるけれども)政治的近代化への大きな障害であることは間違いなく、日本でも戦後に大きく改善された点であろうと思う。また、日本ではネット環境の浸透によっても、そうした「政治的・社会的意思表示」機会は増加し、特定層の動向なども以前に比べれば見えやすくなってきていると思う。それ故に、大衆の求める政治には、手が届く程度の小範囲のものや、非常に個別・具体化したものが出てきたのだろうと思う。細分化された問題と従来からある大きな問題のその両者について政治的解決を提示できる、大衆が共通して選べる政治思想を持つ特定層というのは、なかなか存在しなくなってきているのかもしれない。