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サイバー・デモクラシーは醸成できるか~2

2005年05月30日 15時46分06秒 | 社会全般
ネット上の参加者の傾向について考えてみようと思う。ブログに関係する人達は、先日の総務省発表の推計によれば実数で約165万人、月1回以上の更新をするアクティブな人が約95万人、2年後にはブログ開設者数は782万人と予測されていますが、このうち実数は概ね半分として約390万人程度がブログ参加者ということになるでしょう。また、ブログを開設していない方も存在しており、その正確な動向は掴めませんが、主に主要な掲示板や各ブログ、HP、書き込めるサイトなどを巡回(若しくは漂流?)したりして、何かのご意見を書き込んでいくようです。その数がどの程度なのかは不明ですが、恐らくネット利用者総数から見ると、ブログ開設者の実数よりも多いのかもしれません。


そういう人達の求めるものというのは、政治には関係ないことが多いと思うし、関心の薄い層が大半で、政治的意思表出が数多く行われているとも思えませんね。アクティブなブログ開設者で考えたとしても、1割にも満たない程度であるかもしれません。多く見積もって10万人規模であれば、いい方かもしれませんね。ですが、そうした数の人達がそれぞれに政治的意思をブログに書くことで、そういう事柄に興味のなかった人達が偶然に読んだり目にしたりする機会は増加すると思います。また、情報源となっている元の新聞記事や省庁の公式発表・公開情報などに接する機会も増える可能性があります。これは、「現実」世界での、街頭演説・集会、政治的ビラ配り、街宣活動、政治家の講演会・パーティーなどに比べれば、ネット上での情報取得の方がはるかに一般人が政治的情報に接するチャンスが多く、そういう活動自体がより多くの人の分業体制で行われていることを意味しています。


それは、政治に携わっている人達にも理解されつつあり、ブログの威力を試そうとしているのかどうか判りませんが、少なくとも私のブログにでさえ、国会議員さんや選挙で次点で落選したが活動を続けている人からのTBが実際にあったくらいですから。そういう活動は、街頭演説よりも多くの人に届く可能性がありますが、自分の選挙区民ではないところが悲しいかもしれませんけれども。まあ、それはいいのですが、サイバースペースの方が現実の政治的活動よりも不特定多数を動員し、そこに意見の集積を行うことは容易であると思われます。少なくとも、現実に政治ビラを投函しにいって逮捕されたりするよりは、はるかに効率的で安全に政治的意見表出が可能であると思います。


「サイバー・デモクラシー」は醸成できるか~1

前回も書きましたが、現実乖離となるような議論を避けつつ、また過激な議論・言辞を防ぐ方策ということが必要になってきますが、「有効な場」を設定する必要があるかもしれません。


まず、時々目にするのは、何かのテーマについて色々な情報を収集・整理して、読者に提示してあるブログです。その情報源は新聞記事、公式記者会見、公式HP、行政府のHP、著書の論評、著名人・知識人のHPやブログ、等々さまざまですが、ある程度の信頼性の高い情報源が示されていることが重要で、そういう作業をやってくれる人が存在することが必要です(NHKvs朝日の時がそういう感じでした。特に時系列に従って整理する人が多く見られたように思う。熱心な人たちのお陰です)。しかし、これは全ての分野で行われている訳ではなくて、関心の高いテーマ(例えば、人権擁護法案関連)であれば多くの人達が作業するし、そういうブログもいくつか出来てきます。しかし、関心の高くないテーマであれば、作業を行っている人が非常に少ないので、そこに辿り着く人が少なく、その有効情報を目にする機会が乏しくなってしまいます。このようなテーマや関心の偏在をどうするか、ということも問題ではあります。


世論調査などでも示されるように、郵政民営化問題についての世間の関心は低く(悲しいけどね)、優先順位の上位にはなかなか入って来ません。しかし、ネット上で政治ネタを書いている人達の中では、そんなに関心が低いとは思えないし、議論の対象ともなっていますが、世間の動向を反映している訳ではないように思います。これがネットのコワイところで、何かの問題意識を持って見ていると、そういうブログにばかり出会うようになってしまうこともあるのです。これが、賛成・反対の分布についての錯覚(統計的な調査をした訳でもないのに、自分と同じ意見が多いと錯覚)をもたらす可能性が出てきてしまう訳ですね。


テーマ・関心の偏在を防ぐには、出来るだけ多くの人の目につくような問題提起をしたり、有力なブログが同じテーマを取り上げてくれる偶然を待つ、とか?でしょうか。まあ、これも難しい面があるのですが。後は各個人が頑張って、広める運動をし続けるとか。まさに、現実の政治活動と一緒ですね。駅の近くとかの街頭に立って皆さんに広く訴えるのと同じことを、ネット上でもしていく、ということになります。ですが、1人では限界がありますので、やはり「弱いリンク」によるネットワーク構造によって、より多くの人達に問題提起・情報提供を行うことが有効だと思われます。自分の持つネット上の関係の中に、いかに「弱いリンク」をたくさん築けるかによって、情報の広がり方が変わってくるのだろうと思います。その為には、できるだけ質の高い記事や言説を表現するよりなく、これも個人的資質に依存しています。


今何故か多くのブログで取り上げられているのは、「匿名か非匿名(ようは実名?)か論議」があって、どうしてこれほどまでにそういった議論が長々と続くのか不明な点が多い。良い面も多少あるが、どちらかと言えば非生産的な面が多いと感じています。ネット上の議論というのは、これに似たものが多いのかもしれませんね。このような非生産的議論は、「有効な場」というのがないからだと思われます。既に議論されたり、一定の評価を受けている既知・周知の事実などを整理して、論点を切り分けたり、それまで出た結論をまとめたり、次の論点を提示したりする人(又はそういう場=ブログとか)が明確に存在していないことが延々と同じような議論が続く原因ではないかと思います。「有効な場」があれば、ネット上で時々表現されている、「~~を嫁(読めということらしいです)」とその場を指定すれば、本来すぐに解決してしまいますね。それがないので、堂々巡りな非生産的議論が、壊れたビデオみたいに繰り返されるのでしょう。


「有効な場」には、①信頼性の高い情報源からなる、整理された基礎情報(若しくは、それがどこに明示されているかの情報)、②議論の途中経過で、そこまでの合意点・対立点などの論点整理、論点のズレ修正などを行う人、③議論の最低ルールを適用できる管理能力のある人、というような条件が必要と思われます。これらが揃えば、議論の質は一定以上に確保され、過激な言辞も排除可能となるかもしれません。今までのところ、①の条件を持つブログはたくさんあるように思われ、「現実」世界以上に情報の質・量は優れていると思いますが、②の能力となると、かなり条件が厳しくなるかもしれませんし、特に専門家の意見をある一定以上に評価したり判断できる客観性を持つ人の存在が重要となってきます。例えて言えば、A大学教授とB大学教授の意見が対立している場合に、その他の参加者が理解できるような論点整理・切り口を提示できるような人ということになります。憲法改正議論の場合には、NHKの番組中もそうであったし、その後の憲法記念日にいくつかのブログ記事に書かれたように、論者はそれなりに信頼性の高い人達(法学者、政治学者、・・・)が違った意見を出す訳で、これに双方の合意点はなかなか見出せないでしょうから(専門家同士であってもそうなのだから、一般人たちはなおのこと困難であると思います)、そういう議論の過程を見て自分がどのように考えるか、というのが多くの普通の人達にとっての議論の目的・意義となるでしょう。そのようなテーマである場合に、A大学教授の意見を自分の論拠としていかに相手に説得的に提示しても、その反論としてB大学教授の意見を根拠とする意見をぶつけられれば、これはもう、いつまでたっても終わりがないわけですね。これを整理し、次の論点に移せるような人が望まれますね。


そして、「炎上」などでも問題となる③の管理能力ですが、これは非常に難しいですね。参加者がいつも倫理的に望ましい行動をとるとも言えないですし、無駄な行為をしつこく繰り返す輩は何処にでも出没しますし、かと言って、コメント欄がないと今ひとつ関心が盛り上がらないという残念な傾向もあります。hot.wired.japanの提供している御三方のブログには、以前あったコメント欄をなくして、TBだけになっていますが、以前に比べると反応はかなり少ないように見えます。ということは、大抵の参加者が求めるのは、その場での「言葉のやり取り」がメインであり、本とか雑誌の記事みたいな文章を読むことへの期待がない、ということなのでしょうか。短文形式の方が望まれて、長文が嫌だということがあるのでしょうか?でも、長いコメントへの書き込みは珍しくなく(字数制限があれば別ですが)、傾向としては、「コメント欄が好きだ」ということなのでしょうか。よく分りませんけれども。コメント欄でしか議論が成熟しない、というのも変な話ですし、むしろTBの方が、自分の主張をたくさん書けるからいいような気がしますけれども。TBの方が冷静さもある程度保てそうです(私はそうでもなくて、時にお叱りを頂戴することになってしまいますが・・・)。そういう形が今後は望ましいかもしれませんね。例えば、なじみの常連さんには、ちょこっとしたコメント欄(字数制限かコメント数制限付きが可能)と、議論のためのTBというような形のブログが多くなるかもしれません。



「となり町戦争」のこと

2005年05月30日 01時34分59秒 | 俺のそれ
イラクで人質となっていた斉藤さんは死亡していたと報道されていた。まことに残念である。ご冥福をお祈りするしかないのであるが、斉藤さんの死ということが、私の中に「現実の死」というリアリティがなく、そのことに何かの罪の意識みたいなものを感じてしまう。今のイラクで起こっていることや、派遣されている自衛隊員達のことも、同じように私の知らない遠い場所で起こっている非現実的な出来事なのである。


『となり町戦争』(三崎亜記著)を読んだ。子供と妻が読みたいということで、図書館から借りてきていたのだが、もう読み終えたと言うので、私も読んでみたくなった。書店で何度も見かけていたのだが、忘れていた。一度に3人も読んでしまうと、著者に申し訳ない気もしますが、図書館の本ですからいいですよね。買わなくてごめんなさい。


読後の感想は、一言で言えば、「私が気になっていた心の中の一部を、作者がうまく表現し、代弁してくれたかのような作品」という感じだ。今のイラクの出来事や斉藤さんのことが、自然に心の中に浮かび上がってきた。ものすごくインパクトのある作品だった。


となり町との戦争という事業、戦争を遂行する行政、それに係わる住民達、リアルな戦争に参加する人達、監督官庁としての省庁(総務省)、戦争を請け負う民間業者達、そういったことが、今の日本の姿をあまりにうまく描き出しており、著者の卓越した視点とリアルを実感できないことの恐怖というか虚脱を感じた。そして、戦争という象徴化された出来事を通して感じる日常と、逆にそこにある戦争への認識を、冷徹な事実として書いている。戦争とは何なのか、という問いかけは、私の心にあった霧を消し飛ばした。恐らく自分がそこにいた時に、同じ考えに陥るだろうという人物が描かれていた。まるで心の中を見透かされたようだ。同時に「人の死」についての深い考察がそこにある。


そして、登場人物に語らせる言葉の中に、恐怖が含まれている。

「私たち行政の仕事は、事前に組まれた予算の範囲内で、事業を成り立たせていかなければなりません。それは、戦争という予測が非常に困難な事業を行う場合も同様です。そんな中で、私が考えなければならないのは、効率的な予算の運用であり、弾力的な予算の流用であり、一般会計から繰り入れを得るための効果的な資料の作成なのです」

「しかしそうした選択肢の中から、比較検討し、最も効率的かつ将来性のある事業としてわれわれ行政の立場で、このとなり町との戦争事業を選択しました。資料はすべて、情報公開制度にのっとって、皆さんに開示されています。ですから、戦争にいたる過程に不透明性があったという指摘はあたらないかと思われます。それより何より」
「そうした状況を踏まえて、最終的にとなり町との戦争を決定したのは議会です。この戦争は、皆さんの代表である議会の承認を受けて進めている事業です」


私のうわべだけの浅い考えは、リアルではない、現実の感触のないものとして、打ち砕かれた思いである。次の言葉に、私の生きている現実が表現されているように感じた。

『僕たちは、自覚のないままに、まわりまわって誰かの血の上に安住し、誰かの死の上に地歩を築いているのだ。』