今のご時世、博士は増えましたが定職に就けない方々も多く存在するのだそうです。文部科学省の政策によって、多くの国立大学(今は独立行政法人)は大学院重点化が進められ、大学院へと進学する人が多くなったのですが、卒業後に研究者としてのポストが少なく、給料も満足に貰えない人もいるということのようです。ニートやフリーターばかりではなく、博士にまで厳しい雇用の現実が待っているようです。
大学院ばかりではなく、ロースクールについても同じような将来が待っているかもしれません。大学院の問題は、米国に比べて在学者数が少ないということが言われたりするのですが、就業環境が異なるために一概に比較は出来ないのかもしれません。給与体系にも明らかな違いがありますし。
研究活動は必ずしも大学等の研究機関に所属していなくとも可能な場合もあります。天体研究家、郷土史研究家、古美術研究家や姓名研究家などは、何処にも所属しておらず全くの個人の方もおられます(権威の重さ?に違いがあるとか、学会内の評価などは知りませんが個人でも可能だということです)。ところが、理系の研究ということになれば、純粋な数学理論などは別として(自分の頭さえあれば研究できそうだからです、思い込みかもしれませんが、笑)、殆どの場合に複雑な実験器機とか実験動物、試薬類、その他もろもろ・・・という具合に、到底個人では出来ないことの方が多いと思います。企業や大学とか公的機関などの研究機関に所属していなければ、まず研究は無理なんじゃないかということです。理系の研究ということだけで、たくさんの予算を使う(器械類とか、ありとあらゆるものに金がかかる)ので、人件費にまで回せるお金というのが相対的に減少してしまうのかもしれないな。文系は元来お金がかかる器具・機械類とかを購入する必要性があんまりないもんね。
それと、経済学、経営学、金融関係などの学問ならば、即お金に直結する部分があるから、コンサルタントや研究機関なども民間レベルでたくさんあるかもしれない。ということは、ポストがそれなりにある、ということになるのかな。テレビのコメンテーターにしても、「~~経済研究所の主席研究員の何とかさん」とか、「何だか総研の上席研究員の何とかさん」という風に、殆ど経済系の人達が多い。稀に理系(と言うのが適切かどうか判りませんが)の「精神科医の○○リカさん」だとかやっぱり「精神科医の和○○○さん」とかくらいかな(ところで、どうして精神科医ばっかりなんだろう?)。他には・・・そうだな江崎玲於奈さんはごく稀に出てるな。
文系の民間ポストは、大きな設備投資が要らない(机とイスくらいあればOKなのかな?あとはPCと自分の脳みそでこれは共通だよね)ので、結構作りやすそうな気がする。実験系の理系研究所となると、大きな製薬会社や企業研究所などが主なポストだと思うけれど、施設自体にかなりお金がかかりそうだよね。実質的には文系よりもはるかに巨額の研究投資が理系分野に行われていると思うが、それが人的需要を大きく生み出す程にもなっていないのかな?博士の行き場がない、というのが、実態がどうなのかよく見えていないんだけれど、こういう研究所関係にも空きができないから、定職に就けないのだろうか?大学にもポストなし、民間もなし、ということになれば、後は別な道しかない、ということなのだろうか。例えば、教職課程の大学を出ても、先生になれない人達がたくさんいるのと同じような感じもするけれど。
博士の行き場がないのは、行政的政策の失敗のツケが院生卒後の人生に回っているということなのかな?それとも、人員とポストの数のバランスが悪いので(人的需要がないのに理系博士の供給が過剰になっている)、博士が余るということかな?余る人達に、何か安定的な就職先を提供できるような環境があればいいですが、今の時代にそれ程の余裕もなさそうですし、他にも同じように大学を卒業しても働けない人達もいるのが現状ですから、大学院卒だけを優遇するような制度を作るということもなかなか難しいでしょう。
先頃政府の(というか経済財政諮問会議の)発表した21世紀の未来像では社会人大学院を拡充して、余った人生の時間を院生として過してくれ、という壮大なる計画ですから、今後も博士貧乏は増えるでしょう(多額の学費を先行投資しても、卒後に仕事なし、笑)。嬉しがるのは、少子化で学生集めが大変な大学(通算の在学年数延長で数の減少を補おうということかな)と、文科省くらいなものでしょうか(多くの大学を救済できれば影響力が行使できるし、官僚の退官後ポストとしての教授ポストもあるしね)。勿論、どういう目的で何を学び、将来どうするのか、ということをよく考えた上で院生を選択するならば、自分の将来に大いに役立つこともあるとは思いますが。でも、全員そうなれるのか、というとこれは難しい。他の業種でも、競争があり、需給関係があれば、余る人が出てしまうのは、防げないようにも思うのです。
時間がないので、後でまた直したり、書き足しますね。
こちらのブログでかなり議論されています。非常に興味深いです。
Y日記
本来的には、受け入れ先があって、それに見合う人材育成という形で博士を送り出せることができればいいのだろうと思いますが、果たしてそういったうまい政策があるのか、というと難しい問題だと思います。しかも、求人需要と本人が求める待遇とのギャップが大きければ、大学院卒であるが故に難しい面も出てくるのかもしれませんね。これは、格差社会シリーズで書きましたが、本人がこのギャップを埋める努力をする以外には、いい解決策は思い浮かびません。
明治時代には、博士が非常に少なかったので、非常に価値のあるものだったのでしょうが、今という時代に生きるには、博士という肩書きだけでは何の約束もないということなのでしょう。
大学院ばかりではなく、ロースクールについても同じような将来が待っているかもしれません。大学院の問題は、米国に比べて在学者数が少ないということが言われたりするのですが、就業環境が異なるために一概に比較は出来ないのかもしれません。給与体系にも明らかな違いがありますし。
研究活動は必ずしも大学等の研究機関に所属していなくとも可能な場合もあります。天体研究家、郷土史研究家、古美術研究家や姓名研究家などは、何処にも所属しておらず全くの個人の方もおられます(権威の重さ?に違いがあるとか、学会内の評価などは知りませんが個人でも可能だということです)。ところが、理系の研究ということになれば、純粋な数学理論などは別として(自分の頭さえあれば研究できそうだからです、思い込みかもしれませんが、笑)、殆どの場合に複雑な実験器機とか実験動物、試薬類、その他もろもろ・・・という具合に、到底個人では出来ないことの方が多いと思います。企業や大学とか公的機関などの研究機関に所属していなければ、まず研究は無理なんじゃないかということです。理系の研究ということだけで、たくさんの予算を使う(器械類とか、ありとあらゆるものに金がかかる)ので、人件費にまで回せるお金というのが相対的に減少してしまうのかもしれないな。文系は元来お金がかかる器具・機械類とかを購入する必要性があんまりないもんね。
それと、経済学、経営学、金融関係などの学問ならば、即お金に直結する部分があるから、コンサルタントや研究機関なども民間レベルでたくさんあるかもしれない。ということは、ポストがそれなりにある、ということになるのかな。テレビのコメンテーターにしても、「~~経済研究所の主席研究員の何とかさん」とか、「何だか総研の上席研究員の何とかさん」という風に、殆ど経済系の人達が多い。稀に理系(と言うのが適切かどうか判りませんが)の「精神科医の○○リカさん」だとかやっぱり「精神科医の和○○○さん」とかくらいかな(ところで、どうして精神科医ばっかりなんだろう?)。他には・・・そうだな江崎玲於奈さんはごく稀に出てるな。
文系の民間ポストは、大きな設備投資が要らない(机とイスくらいあればOKなのかな?あとはPCと自分の脳みそでこれは共通だよね)ので、結構作りやすそうな気がする。実験系の理系研究所となると、大きな製薬会社や企業研究所などが主なポストだと思うけれど、施設自体にかなりお金がかかりそうだよね。実質的には文系よりもはるかに巨額の研究投資が理系分野に行われていると思うが、それが人的需要を大きく生み出す程にもなっていないのかな?博士の行き場がない、というのが、実態がどうなのかよく見えていないんだけれど、こういう研究所関係にも空きができないから、定職に就けないのだろうか?大学にもポストなし、民間もなし、ということになれば、後は別な道しかない、ということなのだろうか。例えば、教職課程の大学を出ても、先生になれない人達がたくさんいるのと同じような感じもするけれど。
博士の行き場がないのは、行政的政策の失敗のツケが院生卒後の人生に回っているということなのかな?それとも、人員とポストの数のバランスが悪いので(人的需要がないのに理系博士の供給が過剰になっている)、博士が余るということかな?余る人達に、何か安定的な就職先を提供できるような環境があればいいですが、今の時代にそれ程の余裕もなさそうですし、他にも同じように大学を卒業しても働けない人達もいるのが現状ですから、大学院卒だけを優遇するような制度を作るということもなかなか難しいでしょう。
先頃政府の(というか経済財政諮問会議の)発表した21世紀の未来像では社会人大学院を拡充して、余った人生の時間を院生として過してくれ、という壮大なる計画ですから、今後も博士貧乏は増えるでしょう(多額の学費を先行投資しても、卒後に仕事なし、笑)。嬉しがるのは、少子化で学生集めが大変な大学(通算の在学年数延長で数の減少を補おうということかな)と、文科省くらいなものでしょうか(多くの大学を救済できれば影響力が行使できるし、官僚の退官後ポストとしての教授ポストもあるしね)。勿論、どういう目的で何を学び、将来どうするのか、ということをよく考えた上で院生を選択するならば、自分の将来に大いに役立つこともあるとは思いますが。でも、全員そうなれるのか、というとこれは難しい。他の業種でも、競争があり、需給関係があれば、余る人が出てしまうのは、防げないようにも思うのです。
時間がないので、後でまた直したり、書き足しますね。
こちらのブログでかなり議論されています。非常に興味深いです。
Y日記
本来的には、受け入れ先があって、それに見合う人材育成という形で博士を送り出せることができればいいのだろうと思いますが、果たしてそういったうまい政策があるのか、というと難しい問題だと思います。しかも、求人需要と本人が求める待遇とのギャップが大きければ、大学院卒であるが故に難しい面も出てくるのかもしれませんね。これは、格差社会シリーズで書きましたが、本人がこのギャップを埋める努力をする以外には、いい解決策は思い浮かびません。
明治時代には、博士が非常に少なかったので、非常に価値のあるものだったのでしょうが、今という時代に生きるには、博士という肩書きだけでは何の約束もないということなのでしょう。