いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

生物学的社会性

2005年05月27日 20時47分07秒 | 社会全般
昨日の日経新聞の「春秋」欄は興味深かった。サルの社会性についてのお話が殆どで、オチがよく判らなかった。
nikkei.netより、以下に転載します。



春秋(5/26)
 仕事のご褒美にもらうエサの質が、仲間より低いことを知ったオマキザルは、もらったエサを投げ出して、不公平に抗議する。利益の最大化をはかるなら、くれるというものは何でも、とりあえずはもらっておく手だが、まず情が働く。

▼チンパンジーで同じ実験をすると、つき合いの長い仲間との報酬格差は許容するのに、あまり親交のない個体との不公平には敏感に反応する。取引の原点では、合理性より情動がものをいうのか……。日経サイエンス7月号で米国・エモリー大学のドゥ・ヴァール教授が説く「動物たちの行動経済学」は暗示的だ。

▼野生のチンパンジーは集団で狩りをする。最後に獲物を手にするのは1頭のみ。しかし、ウイナー・テイクス・オールではない。勝者は自律的に仲間におすそ分けをする。それも狩りに参加した協力者のみに。協力への報酬である。毛づくろいなどの恩恵を受けたら、ちゃんと覚えていて「恩返し」で食物を配る。

▼不公平への怒り、親しきものへの寛容、協力への感謝、恩返し。彼らの経済行動からみえてくるのは、分配のルールというより、倫理の原型かもしれない。それにしても、不公平への反発か優遇への羨望(せんぼう)か、きのうまで喜んで受け取っていたエサを、無価値なもののごとく拒絶する激しさ。嫉妬(しっと)の源泉は大きく深い。




これを読んで結論に見えるのは、最後の「嫉妬の源泉は大きく深い」だけであり、これは人間の嫉妬心を想定していると思うのですが、それは生物学的に決まっており、その為に変えようがない、とか、嫉妬を防げないというような意味合いなのかな?ちょっとよく判らなかったのです。

数日前に人間の持つ社会性についての記事を書いた(人間の社会性と言葉)のですが、サルにもかなり複雑な社会性があるということなので、遺伝的にプログラミングされたものなのかどうかは判りませんね。後天的に獲得するということになれば、そういう集団性のある同種族と生活を共にすることで学習するということなのかな?不明なことが多いですね。


でも、この「春秋」は余りに暗示的で、未だに何が言いたいのか謎。嫉妬するな、ではなくて、嫉妬されないように、「恩返し」しなさい、ってこと?うーん、非常に哲学的な感じになってきましたね。でも、とっても勉強になりました。

いつもネットで読んでいますが、昨日のは是非紹介しておきたいと思った次第です。



「サイバー・デモクラシー」は醸成できるか~1

2005年05月27日 17時42分34秒 | 社会全般
今まで、ブログを中心とする政治的意思の表示機会・環境について、いくつか書いてきました。私の場合には、その動機として、「妄信というか、自己満足に過ぎないのかもしれないが、無意味ではないと信じたい」というスタンスです。その作用としては、「個人から個人」という本来のネットワークの性質に加えて、より社会的な影響力を持つという面では「個人からマスメディアへのカスケード」を期待する、とも書きました。

しかしながら、佐々木毅氏はサイバースペースへの政治的エネルギー滞留はマイナスであり、「サイバー・デモクラシー」は現実遊離であっていたずらに自己満足を見出すことになってしまう、という立場でした。こうした不利な面を克服しなければ、「サイバー・デモクラシー」の影響力を現実世界で求めることは難しい、ということでしょう。これについて、もう少し考えてみたいと思います。

参考記事:
ネット言論の試練1
ネット言論の試練2
「中国反日デモ」から見える日本政治~その3


「現実」に比べて、政治的意思の表出機会・環境で見ると、ブログというツールはそれなりのメリットがあると言える。各個人が表明するのは簡便かつ他者との意見交換も可能であり、ある程度の議論に耐えうるものである。ただし、これには勿論マイナス面もあるのであるが。政治的近代化という観点からすると、町内会の人々が会館に集合して討論会を開いたりせずとも、ネット上に議論の場があるので、代替となるように思う。勿論 face to faceということの良さはあると思います。ですが、現実には時間的・空間的制約も多いですし、サイバースペースを利用する方が即時的で、意思表出が行われ易いと思います。


厳しい指摘を受けた、「現実」からの乖離や遊離促進というものに対して、どのような対策があるのか、ということになります。これには、ある事項の専門家の意見というのが、重要になってきます。例えば、ある公共事業が行われる計画があるとして、その事業に反対するのか賛成するのかで議論が行われるとしましょう。仮に新幹線の延長工事であるとしましょう。その沿線住民とか駅予定地の住民とかで考え方は異なりますし、生活実態が掴めないこともありますね。地元自治体や議員さん達が陳情を繰り返したり、地元商工会のおじさん達が同じく誘致運動を繰り広げたりしている一方で、財政的な問題から反対するべきとか自然環境への影響で反対をする人達がいるかもしれません。騒音被害を考慮して、地元だけど線路近くの住民が反対するかもしれない。こうした意見をある程度積み上げないと、結論的には見えてこない、ということになるでしょうか。また、建設コストと効果の問題や将来の乗車数の確保とか地域振興にどの位の効果があり、その一方で通過駅になってしまう地域の損失がどうなのか、などの財政的検討についても議論される必要があるということになります。賛成派の方々は、反対派を説得するだけの論拠を用意することが必要で、その逆も同じですね。


こういう作業をやる時に、少ない人数で取り組むよりも多人数の方が進め易いし、分業体制となっている方がいいですね。従来の政策としては、こうした情報というのは公開情報となっていなかったりしましたが、近年の総務省の指導もあって情報公開を各省庁に求めるようになっておりますから、ネット上の調査能力の高い人達は効率的に重要情報を探し出して多くの人に提示できるようになってきています。この能力は、過去の旧タイプ人間には出来ないものであって、何処かの機関や調査組織が用意してくれないとならなかったのに、今では各個人が探し出せるようになって来ています。また、昔は町内会館に集められた周辺住民へは、「行政側」などの人間が自分達に一方的に都合のいい材料・資料・調査報告などを提示して、それを盾に議論を進めることも出来ましたが、今はそういう情報の「穴」とか「ウソ」(そこまで酷くはないでしょうが、例えば将来収益予想とか利用者数などの「色よい数字」などが用意されたことも少なくなかったのではないのかな、と)とかそういうことに目が向けられる個人というのが増えてきています。


これは、単なる例ですので、現実的にはもっと情報のレベルとか質に違いはあると思いますが、昔みたいに組織的に集められた参加者の集会で気勢を上げたり、演説中に大袈裟に拍手・掛け声をかけたり、鉢巻を巻いて「エイ、エイ、オー!!」とかやっていのに比べれば、「現実」がいつも優れた政治的議論や政治的意思表出が出来るとは限らず、サイバースペースであっても「現実」以上の政治的議論は出来うると思うのです。こちらの方が、政治的近代化は進んでいるようにも思えます。


そういった環境で、議論する時に更に重要なのは専門家の知識・意見表出です。従来の議論の際には、所属する集団・組織依存的に賛成・反対の意見表出となりがちであったと思うのですが、現在そういう単純さはネット上では減っていると思います。まあ、絶対的に専門家でなければならないということでもないですが、例えば新幹線とか鉄道事業の概要を掴めないと、事業計画が妥当なものかどうかの判断はつきにくいということになりますから、そういうことに詳しい人が客観的な意見を述べてくれると他の人の判断材料が増やせます。そういう情報は、身近な「現実」の政治集会などでは滅多に出てこないでしょう。ですから、そういう「現実」よりも判断の基になる「情報の量と質」と言う点では、サイバースペースに軍配であると思います(が、いかかでしょうか?皆様は)。だが、そういう専門的な意見が集積できないと、「現実」と乖離した議論を延々と続けてしまったりする可能性もあり得ます(新幹線の例で言えば、「沿線住民の騒音被害を考慮すれば、計画線をずらして迂回させるべき」のような、現実的な被害が想定されていないとか地元住民からの反対意見も全くないのに非現実的な解決策(迂回するには土地取得とか線路設計・停車駅などの多くの問題が出てくるかも)について議論してしまう、とか?)。情報の判断が難しければなおのこと、そういう枝葉末節とか現実遊離の議題が解決できず、延々と無益な議論を繰り返すようなものですね。それを防ぐ意味でも、やはり一定レベルにある人の判断・意見というものがどうしても必要となってきますね。


続きは、また。


低金利で得する人って?

2005年05月27日 13時36分50秒 | 経済関連
一般庶民にとっては経済原理などどうでもよいが、日々の暮らしぶりが悪化しないようにしてくれればよいのです。難しい原理や理論に基づいて政策・運営をやって貰えるならそれでかまいませんから。自らの経済理論の主張の正しさを結果と照らし合わせて、証明してくれれば何だっていいんですよ。


普通の給与所得者がバブルちょっと前に家を購入したとしよう(夫30歳、妻27歳、子供3歳と1歳にしようか。架空の家族が念願のマイホームゲット!ですから)。仮に2千万円の30年住宅ローンを組んだとします(昔は全額借入が出来ないはずで、自己資金は2割以上だったと思う。ですから総額ベースで言えば2500万円でその他に諸経費ですね)。そうだな、87年からということにしましょうね。当時の借入金利がどれくらいなのか知らないんですが、4%くらいはあったでしょうか?(住宅金融公庫の最高金利がバブル期頃の一時期5.5%だったような気がしますが詳しく知りません。まあそれよりも安いんではないのかなと。)ローン返済は2017年まで続きます。元利均等返済(ゆとり返済ならもっと悲惨だと思うけど)なら毎月の返済額が大体95500円です。これが30年続くわけですね。当時の借入は変動金利などではなく、固定金利であったでしょうから、未だにその金利のまま返済が続いていることになります(借り換えはしていないとしましょうね)。


バブル崩壊後に、預金金利は下がり利息収入は大幅に減少していき、現在は1年の大口定期ですら0.03%程度ですから、預金する意味は全くありませんね(繰上げ返済に全額回した方がいいに決まっていますね)。まあ、これは置いておくとして、97年頃の金融不安があって、借入から僅か10年くらいですが、利息は大幅に低下しています(半分程度まで落ちたでしょうね)。その後の金利下げによってさらに低下を続けました。民間銀行の良い住宅ローンが出始めたのは(借り換えを目論んで)2000年ころでしょうから、その時点で借り換えを検討したとしても、不動産価格は約3割ほど低下とすると(個別物件にもよりますが、土地下落がだいたいそれくらいかな?)、評価額が少なくとも3割減少し、建物の減価償却分も当然減るので、一般庶民は借り換えの際に残債と借り入れ上限の差額分の現金を支払う必要があります。土地・建物がそれぞれ1千万円(元の価値)として評価額は700万円と500万円(築13年の建物部分の評価額はきっともっと少ないはずですが、一応半分程度と仮定します)です。合計1200万円に対する銀行の貸付上限は7割くらいでしょうから、最大でも840万円しか貸し出されません。住宅ローンの今までの返済状況は、この時点までで返済元金は約6割以上残っており、借り換えすべき残債が1300万円とすると、先の840万円との差額460万円をキャッシュで銀行に払わなければなりません。この他に借り換えの事務手数料とか印紙代金、不動産登記手数料などがかかります。これもざっと25~30万円くらいになるかもしれません。となれば、結局500万円近くのキャッシュを用意しなければ借り換えられないことになりますね。


毎月95500円の住宅ローンを払いながら、500万円の現金となれば13年間毎月38500円くらい貯金を続けなければなりません。もしも預貯金を続けていたとしても、この間(87年~00年)に受け取るべき利息は昔なら3%とか4%とか貰えたのだが、その何分の一かしか手に入らなかったのです。この家のバランスシートは、不動産価格の下落によって相対的に借入比率が上昇した上に、金利負担分だけが重く残ってしまいました。給与が順調に上がってくればよいですが、多くの中小企業で見られたようにボーナス大幅減額とかカットなどで収入水準は大きく上昇していません。


「実質金利がどう」とか「経済原理がどう」、などということは分らないが、こうしたごくごく普通の庶民はたくさんいるし、彼らが払い続けた利息は、「マクロ経済」というどこかの闇に消え去ってしまった、ということです。この一家は、デフレや低金利で何か得をしたでしょうか?ユニクロの登場で、衣服が安く買えるようになったことかな(笑)。まあ、この一家は2017年まで払い続けねばならないでしょうから、可哀想だと思うけれど、消え去る運命の住宅金融公庫を儲けさせてやってくれ。


企業は確かに資金調達が楽になったが、特に儲けまくったのは金貸し屋とかだろ?低金利だからといって、企業の設備投資がもの凄く多くなって、雇用や民間需要を大幅に押し上げたりはしなかった。銀行もあこぎに、個人向け無担保ローンの旨みに飛びつき、高金利で昔の高利貸しと同じような商売をやり、愚かな弱小個人から稼いだのさ(消費者金融の広告)。


また、05年まで見ると、保険料負担は大幅に増加して(厚生年金、健康保険、雇用保険は何度もアップした)増税されたのと同じだし、介護保険料も増えたし、社会保険本人の自己負担額は1割(もしかしたら0円だったかもしれない)から3割に増えたし(年間医療費の実質的大幅増額と同じですね、病気にもなれないし、虫歯も許されないんだよ)、配偶者特別控除などがなくなったりして、実質大幅増税となってしまいました。金利負担だけが残る以上に、実質的な可処分所得は低下しました。これが、庶民の感覚だっての。頑張って生きてきて、真面目に働き、微妙に給与は上がったかもしれないが、その増加分を上回る勢いで、色んな分野でとられちまったのさ。こういう生き方をしているのが愚かなのだ、と言われればそれまでですが。


経済原理や理論は、普通の庶民を救済したりはしない。単に現象の記述がうまくなるだけだ。それが、日常生活というものです。冒頭の架空の家族は、今年、夫48歳、妻45歳、子供21歳と19歳で、住宅ローンとその重い金利負担は今も残っていますね。子供達は大学生になれたかな?無職の子供が残るのも、もっと辛いな・・・来年あたりが心配だな・・・。

お父さんがクビになったりせずに生き延びてこれたのかな・・・?リストラされたりしたら、更に厳しいですね。何だか切実ですね、こう考えると。