いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

ネット言論の試練3

2005年05月24日 18時18分16秒 | 俺のそれ
―私的ブログ考、マスメディアとブログの政治的影響力

「極東ブログ」さんの記事に反応して書いてみたいと思った。その記事に紹介されていた「fujisankei business-i」の記事(そう言えば、時々木村剛氏も書いているんですよね?)を乱暴にまとめるとすれば、「ブログは影響力を持つが、(質的に)マスメディアと違う」ということのようです(元の記事は「極東ブログ」さんのリンクから読んで下さいね)。


調査結果を見れば、今さら、と言う感じがしなくもないですが、いつも言うように私の記事は単なる感覚に過ぎないので、こういうきちんとした調査をすることで確度の高い信頼性の置ける情報があることが大切ですね。少なくとも私の記事に書いてあるよりもはるかに説得力がありますね。このことで、自らの主張が強化された事を殊更に強調する訳ではありませんが(本当は強調したいんです!笑)、自分の感性を多少なりとも確認できますね。

過去の参考記事:

マスコミの存在意義
ネット言論の試練1
ネット言論の試練2


感覚記事は、多くが不明(不確か)のまま書いてしまうことが大きな問題なのでありますが、その検証ができることはとても重要なのです。でも、信頼性の高い記事が登場する前に、自分の思いを書いておかねば、私が真似したんだろうと思われるでしょ?感性のみで対抗!これしかないんだもん。でもね、今度は少し私への信頼性がちょっぴり高くなったような気がしませんか~?(笑)


マスメディアの存在と個人ブログの存在は機能的代替の必要性がないし、それを目指すよりも促進的共存を目指すことの方が効率的で、双方にとってメリットがあると思っています。今後は「サイバー・デモクラシー」について書いてみようと思っています。


余談:
今日、遂に「finalventの日記」のコメントに書いてしまいました。やっと、finalventianの仲間入り(?、になれるでしょうか)かな・・・


唐突な帰国の意味するもの

2005年05月24日 13時57分52秒 | 外交問題
中国の呉副首相が帰国は、報道にある通りである。これについて、小泉さんはまたしても頑固さを発揮して、「そんなことはやっても無駄なのに。審議拒否がうつったみたいだな」などと暢気なことを言っていた。もう少し、事の重要性について思い巡らせるべきだろう。鈍感幹事長の「干渉発言」が決定的なパンチとなった。小泉・武部の日中関係悪化のダブルパンチ。何をやってんだか、もうー!重要な舞台で、武部幹事長の外交センスではダメに決まっているでしょ。外務省の方々は「台本」をきちんと書いて渡さなかったの?それとも、付いて行ってなかったの?それとも「台詞」書いて渡したのに、勝手に変なアドリブ発言したのか、台詞をきちんと覚えられなかったのか、よく分らんけど。本当に、センス悪すぎですから!

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 中国副首相、異例の会談中止 「外交ルール無視」 対中姿勢強める構え


中国で武部君が「靖国問題について(要求・発言すること)は、内政干渉である(との見方も出ている)」(言外には、「なので、あまり発言しないで欲しい」)というようなことを言ったらしく、これに中国側は激怒。「度重なるシグナルを送っていたのに、無視かよ」的な反応であった。そりゃさ、間違いなく怒るだろうね。どのように靖国問題に言及しなくて済むのか提案したのに、それを中国で蒸し返されて、武部君のバカ外交で「内政干渉だ」という発言をぶつけられては、本国からすぐさま副首相に連絡が行ったことだろう。
「会談中止だ!」
所謂意趣返しみたいなものだろうな。


その結果、小泉さんは「おあずけ」を食らった形で、サッサと踵を返され帰国されてしまったということだ。小泉さんの「参拝”時期”については、適切に判断します」という不快感露わの答弁も、武部君の「内政干渉」発言も、いずれも中国側の感情を逆なでしたのである。だから言ったでしょう?福田節が何の意味もなくなっちゃったじゃないか。

王毅大使の紳士協定
福田節とガンコな小泉首相


今後は、「喧嘩別れ」路線を選択するならば、いっそアジア単独行動主義でもとることにするのかい?ならば、相手が何と言おうとも、「何バカなことをほざいているんだよ」と突っぱねられるし、ご近所との仲が悪くても気にせず参拝出来るし、中国国内での経済活動も大幅に停止して、「国力勝負」で挑んでみるとかもできるよ(笑)。どう?そのくらいの本気の覚悟で臨むのかどうかであるし、そういう外交で国内支持が得られると思っているなら、やれば?それとも、協力関係を残して、多国間主義でいくならば、多少の我慢も必要でしょう?煙が酷いから、「お庭でバーベキューしないでね」というご近所の苦情があるならさ、普通は家の庭でやらないだろう?「そんなのウチの勝手だろう」とか言えば、近所の人も嫌な感じになるでしょう?そういう配慮に欠けている、っていうんだよ。閣僚や与党幹部が国内向けのアナウンスとして「まったくもって失礼だな」とか言うのと、相手に面と向かって言うのでは訳が違うでしょ?


潜水艦とか暴動などのような、主張するべき権利があるときに、相手に言うのは当然である。相手がツッコミを入れてきたら、ねじこまれないように答える術も必要である。しかし、わざわざ「火に油」を演出するのは、外交戦略としては上手いとは言えないだろう。これは敢えて挑戦状を叩きつけたと思われても仕方がないだろう。相手をへこまそうという意図を持っているならば、「いま何と言った?」と凄まれてあっさり前言撤回などせずに、きちんと「個人的な宗教心の問題であり、政教分離の原則を規定するわが国の憲法の精神を尊重しそれに則って対応している」とか言い切れよ。それも出来ないのなら、初めから挑戦などするべきではないだろう。

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 武部氏「内政干渉」発言撤回 靖国批判、中国抗議受け


言葉の繊細さとか、感情のヒダとか、相手の目の中の色(目の表情?っていうか)が分るような人じゃないと、直接会見での重要な発言は無理なんだって。武部君にはそういうセンスの欠片もない。猪突猛進型の突進タイプでは、荷が重過ぎ。大体ね、この半年間での東アジア外交は、「1歩進んで2歩下がる」だ。小泉さんの個人的頑迷さが問題なのだが、周囲の人間ももっと配慮しろよ。本当に皆さんね、よく考えて行動してくださいよ。



橋梁談合事件と「けじめの時代」

2005年05月24日 11時57分14秒 | 社会全般
「けじめの時代」、この流れはどこからやってきたのだろうか。そうだな、21世紀という時代の流れ、日本人の「これからの生き方探し」的な漂泊感、そういったものが、連綿と続けられてきた古きシステムを壊すことを求めているのかもしれぬ。小泉首相の登場と、時代の要請にマッチした「構造改革」という名の、守旧勢力を打破するべき政治的手段を手に入れたことは、飼いならされてきた国民にとっては大きな意味があった。「欺瞞の構造改革主義信奉」という、批判的立場の「学究の徒」もいるだろうが、それは多分今知られている経済原理の中にある幾つかの指標しか見ていないからである。人間には心がある。心の客観的数値化など、今のちっぽけな人間の科学レベルでは不可能である(もしそれが出来るならば、こっそり私にだけ教えて欲しい。投資とか恋愛とかにフル活用なんだけどな・・・笑)。政治に最も重要なのは「民心の安寧」であり、これを数値化して経済学的原理の中に組み込むことができるならば、今まで以上に正確な経済学的法則を一般化して適用出来るようになるだろう(と思う、かな)。


自然界の凄いと思えることは、およそ人間の考えられるような一般的法則・原理がだいたい含まれているところであり、何万年かに渡って積み上げられてきた人間という種の生き抜く知恵が自然界から見出され、後世に伝承されたかのようである。それが、宗教とか、何かの経験則とか、そういうものが何かの教えとなって今まで残されたような気がする。人間の浅はかさや欲望など、2千年以上前から何も変わってなどいない。中国の宦官たちやお役人達の賄賂も、時代劇に登場するような「ぐえっへっへっへ、そちも悪よのう」的お代官様や「越後屋さん」(本当はワルではないそうです、笑)も、現代の繰り返し起こる談合も、どれも同じようなもので、人間の行動原理など大きな違いがなく、進歩のない人間というのが必ず存在するということなのであろう。単なるバカだな。


そんな訳で、毎度まいどのこうした談合事件とか贈収賄事件とか、その犯罪構造は似たりよったりです。お役人達や政治家の関与は、今までに何人も挙げられてきたので昔に比べればはるかに薄まっているでしょうけれど。ですが、談合で活躍する人達というのは、お役所、お役所仕事、役人の人なり、公共事業システムなどを熟知している人達なのではないのかな、とも思います(それは天下った方々が主なのでしょうか?よく判りませんが)。


今回のような大型の事件は、恐らく明るみに出る前から噂とかで知られていたのでしょうけれども、公取が動いて告発しておりますから、捜査当局の本気が見てとれます(これからも頑張れ、公取!)。今後もこうした大型の事件は出てくる可能性はあるかもしれません。行政システムにはびこる抵抗勢力に対する見せしめ的な意味があると思うからです。また、これも言うなれば「国策捜査」という一面があるのではなかろうかと思います。「けじめの時代」がこうした不祥事追及を要求するのでしょう。政官業スクラムの切り崩しは、小泉内閣の「構造改革路線」がなければ行われなかったかもしれない、と思えば、大きな意味があったと言えるでしょう。


しかしながら、菅直人氏曰く「官僚主権国家」の本体であるところの、「霞ヶ関の深淵なる闇」への切り込みは、まだまだ遠いと言わざるを得ません。今回の談合事件の背景にある、国家予算の配分システム・遣われ方というものについて正しい評価を行うことがあらゆる分野での不正を減らすことに繋がるわけですから、霞ヶ関本体の闇を取り除くことこそ、国民の、そして時代の要請であると思います。今後の内閣及び経済財政諮問会議の、「官僚主権」からの脱却を進める政策・指導力が試されるでしょう。