いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

マクロ経済指標管理は万能か

2005年10月01日 15時48分59秒 | 政治って?
先日の経済財政諮問会議において、民間議員から非常に大胆なご提案が出されました。政策目標の設定に際しては、勿論目的に向かっての(小泉さん風に言えば)「大きな議論」というものも必要でしょうし、大胆さが要求される面もありますが、少なくともその正当性については裏付けあっての話でありましょうし、元になる論拠と他の意見への優位性が客観的に認識される必要があります。そのようなご提案なのであれば、経済学的評価に基づいてマクロ経済指標による総額管理が有効に機能するということを論理的に説明しなければなりません。客観性に欠けるのであれば、多くの反対が出たり賛同を得られないということになり、政策決定に結びつかない訳ですから、そこを超えられる情報なり説明なりが必要で、誰しも判る論拠の提示が求められることは当然です。

本間・吉川両先生のような、ご立派な大学教授の方々ですので、このようなことは指摘されるまでもないはずで、経済財政諮問会議という行政最高の諮問機関における議論は、たった4名にしか過ぎない民間議員の「強い要望」というだけで済まされる問題ではないことは明らかでありましょう。度々申し上げてきましたが、少なくとも経済学者を擁する民間議員達は、十分説得的な客観的論拠を明示しなければなりません。


諮問会議中で議論されたものとしては、国家公務員人件費を10年以内に名目GDP比半減という大胆な構想(例示に過ぎないのかもしれません)がありました。これも、先日の予算委員会での前原民主党代表による質問と通じるものがありますが、「小さな政府」とはどのような定義に基づくのか、ということが取り上げられております。今更、という感が否めませんけれども。度々政府会見や与党公約の中で述べられてきましたし。本間・吉川先生は、非常に大胆な目標を掲げることで「改革のエネルギーを弱めることなく取り組む」ということを重視しておられるのだろうと思いますが、改革のエネルギーと改革案の妥当性は正相関ではないことは当然で、経済学者は理論よりも「やる気」の方が正解率が高いのだ、というようなご意見なのでしょうか。


特に論拠として別に示してあったのは、以下のような松下幸之助氏とジャック・ウェルチ氏(GE会長)の例でした。
松下氏:「5%のコストダウンを図るより、30%下げる方が容易な場合がある。5%のときは、今までの延長線上で考えがちだが、30%ともなれば、もはや発想を転換せざるを得ず、そこから全く新しい発想が生まれてくることがあるからである。」
ウェルチ氏:無駄な仕事を追い出すため「ワークアウト」という手法によって業務を徹底的に見直し、企業風土を変革した。


何だか、街の書店でよく見かけるビジネス書みたいな感じですけれども、こうした過去の「偉人伝」風な論拠を取り上げても、これが一般化・普遍化できるものであるかどうかは、不明なのではないかと思います。何故なら、もしもこれらが常に真実であり、誤謬のない法則・原則として政治・行政にも適用できるのである、ということであれば、あらゆる民間企業は全てこの方法と同様の手法によって既に「オール勝ち組」しか存在しないでしょうね。全企業が同様の成功を収められるはずです。それが出来ないということは、こうした一部の成功例と同じ手法をとったとしても全ての組織改革が同じように可能な訳ではない、ということだろうと思います。あくまで一つの例示に過ぎない、ということを民間議員達は留意するべきでしょう。ある意味、経験則の一つのようなものでしょう。これが、経済財政諮問会議の目指すEBPMなのでしょうか?吉川先生、いかがですか?


「各論の積み上げでは、改革が達成できない」という理屈も、ある意味変ですね。総論だけで全ての正解が導き出されるというのは、全くの錯覚に過ぎません。大枠での政治的改革デザインと、各論での精緻な検討によるevidenceに基づく改革プランは、最終的に整合性を持つことが必要です。それぞれ重要性がある訳で、その結論が大きく異なる場合には正しい政治的判断が求められることになるでしょう。しかし、各論の精査も不十分でありながら、過去の偉人語録を引いただけで総論の結論を導き出すのは、正当性が担保されてはいないし、その結論が各論以上に正しいとは誰も言えないのではありませんか?


仮に政府系金融機関を民営化するべき、という総論があるとしましょう。これは政治的デザインとして目指すべき方向性であり、それを実行しようとする時にはリーダーシップや大胆な政治的決断を求められる、というものです。各論的には、例えば全部民営化ではなくて、一つだけは業務の性質上存続させる方が望ましい(これは全くの仮定の話ですので、今後のことを言っている訳ではありません)という各論が得られたとしましょう。この時に、総論が「民営化だ」となっていたとしても、一つだけ民営化しないという判断は必ずしも間違っているとは証明できないのなら、最終的には各論による結論に基づいて、大方は民営化したけれども一つだけは存続させる、ということは悪い改革でも何でもないでしょう。むしろ総論だけに基づいて、全て民営化しなければそれ以外の選択肢は間違いだ、という判断の方が普通はオカシイと考えるはずです。今の諮問会議の民間議員の方々が述べていることというのは、かつて松下やGEがうまくいった方法をとれば全てがうまくいくはずで、それ以外は認められない、ということを言っているようなものです。それで解決がつくなら、政治家は1人もいらないでしょう。会社経営者達と一部学者達が国の運営全てをうまく出来るはずですね。


また例えで申し訳ありませんが、民間議員達は総論的に「ガンは取り除かなければならない」という主張をしていて、特に「少しだけ切り取っても良くならない。もっと大胆な外科手術が必要だ」ということを言う訳です。ところが、ガンといっても色々ある訳で、各論的にはガン細胞の性質によって外科的手術ではなくとも治る場合もありますね。そのようなガンであれば、他の保存的治療法(薬物療法、放射線治療、漢方等の東洋医学的アプローチ)も選択可能な場合もあるのです。政治的改革デザインとは、何処の部分を優先的に治療するか、手術を選択するか、という方向性を示すということです。肝臓の手術をまずやりましょう、次に肺の治療をしましょう、という見通しや治療目標を明確にしていくことです。そこではじめて、精査した結果「肝臓のガンは手術しなければ治らない」という各論的結論があり、他の治療法よりも外科手術という選択が論理的に(evidenceに基づいて)優位であることが明らかになっている訳ですね。これは一般に客観性があるものです。では、肺の方はどうかというと、手術という選択も有り得るけれども、薬物と放射線の組み合わせでやった方がメリットが大きい、という時に、「ガンは切り取れ」という総論的結論に基づいて手術以外の選択肢は認めない、以前に肺のガンを手術して治った人がいたからだ、という意見を強硬に主張されても困る訳です。民間議員の方々の主張とは、おおよそこのようなものなのですよ。よくよく調べてみると、肺の手術を選択してしまったが為に、呼吸器合併症で死亡してしまうことだって有り得るのに、一方的に「ガンは切り取れ」という主張を繰り返されても、客観性もなければ正当性も証明されないのです。ここではやはり各論的議論が求められ、反対意見に対しては外科手術が保存的治療法を上回るメリットを論理的に示されなければならないはずです。ところが、それをおやりにならないし、手術を選択しないとガンと闘う気力が失せる、というような、治療法選択の適否とは離れた論点を提示されているわけです。これは政策決定プロセス(=ガン治療方法の決定プロセス)としては、いかがなものか、と誰しも思うわけです。というか、経済学という点で見ても、はっきりと「落第」という評価にしかなり得ないと思いますが。


ある大学の学生にレポート課題を与えたとします。「国家公務員人件費が財政再建にどのような影響を与えるか、経済学的視点で記述せよ」とでもしましょう。すると、売上高に連動した人件費率を導入して社員を大量リストラし、給与総額も全くの連動制にした会社の再建策を引き合いに出して、同じように公務員人件費も抑制すれば国の財政再建が出来ると結論付けた学生がいたとしたら、「そりゃ本当か?」と思うのではありませんか?しかも、リストラはちまちま5%くらいやるより、30%くらい思い切って一気に削減した方が良い策が出てくるもんだ、ということで、組織改革には指標管理が最も優れた効果を持つ、という結論を出していたら、それは学問的に正しいと言えるのですか?このような学生のレポートが、「優」の評価を得るとでも?(笑、今はABCなのかな?タイゾウ議員がそう答えていたような気がします。私の時代は優良可、不可だった)

ベンチマークはあくまでベンチマークに過ぎません。評価としては一応役立ちますが、それが正当性の裏付けとはなり得ません。


麻生大臣、谷垣大臣、福井日銀総裁、佐藤人事院総裁などが疑問を呈しておられるのは、至極まっとうな意見だと思いますよ。民間議員提案があまりに突飛なものであり、しかもそれに対する反論・各論的検討も認めたがらず、専ら「国家公務員人件費の名目GDP比半減」という数値目標にだけ拘るのは問題だと思いますね。それに固執するならば、その論の客観的優位性を示すことが先決でしょう。