靖国参拝自体は、日本人が騒がなければ、外部からもいくら言ってみたところで何の意味もないことの気付くだろう。小泉首相は「私的参拝なのです」という明確な意図を持って参拝したのであり、これを日本国内が誰も騒がなければ国際的問題ともなり得ないと思うのだが。小泉さんの配慮というものは、評価してもいいのではないかな。先日ちょっと触れたが、司法判断を尊重したことにこそ、大きな意味があったと思うけどもね。
宗教的行事などの多くのことは、長い間続けられれば歴史的慣習として定着する。例えば、クリスマスに何故七面鳥を焼いて食べるか、ということにはどんな意味があるか知らない。でも長く続けば、慣習として行われる。ユダヤ教徒が行う宗教的行事で羊や山羊をして家に血をかけたりするのは、異教徒達にとってみれば異常な行動の類だろうが、当事者達にとっては普通だ。大挙して「野蛮であり、羊を殺すな」などと攻撃したりはしないのではないか。
私は宗教学者でもないので全く知らないのだが、全世界の宗教的行為というのは、それこそ山のようにあるだろう。特にキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒などでは、宗教と政治が結びついているものが多々あるだろう。恐らく、日本以上に多いと思う。たとえ紛争当事国同士であったとしても、相手国への「宗教的行事への非難」とか「行為停止要求」などということはまず聞いたことがない。民族的対立の根底には、言語や宗教の違いなどとという文化的な対立も勿論含まれていることもあるだろうが、それでも相手国に「七面鳥を焼くな」的な事柄を要求することなどないだろう。そこまで干渉したりはしないものなんじゃないかな、と思う。
それに韓国は、秀吉や加藤清正、小早川隆景、宇喜多秀家などの墓に行ってはいけない、とか言うのか?日本は「元寇」についてあれこれ言ってないけどね。モンゴル人に過去の罪を非難するどころか、差別なく「横綱」として最上級の敬意を払っている。それが普通であろうと思うぞ。トルコだって、かつてはキリスト教徒のヨーロッパ人を殺戮しまくり、無理やりイスラム教徒に改宗させたり、ハーレムにロシア美女を奴隷として連れてきたって、EUの仲間として迎えられるかもしれないじゃないか(かなり昔、日本では「ソープランド」のことを「トルコ」と呼んでいたな。どうしてか知らないが。これはさすがに抗議を受けて呼び方を変更することになったな。それでも中韓に比べれば、誠に穏やかなものであった。「トルコ」と呼ばれる方が、「靖国参拝」よりも怒ることだろうと思うけどね。トルコ人は優しかったんだろう)。
国家として相手国に要求するべきことが、中韓は何だか他とは違うかも。
中韓は日本人が相手にして国内的に騒げば騒ぐ程、「靖国参拝非難は効果がある」ということに味をしめるんじゃないか、とも思う。だからしつこく言うんだろうと思う。なので、対応は出来るだけ淡々と行った方がいいのだ。国家としても、国民レベルであるとしても(個人間ということ)。
日本人の国民感情として、現在はまだ「靖国参拝」に抵抗がある人々もいるかもしれないが、これがあと百年後くらいになれば状況はかなり変わるだろうと思う。中韓も「靖国参拝」とはどのようなものであったか、忘れてくれるといいけどね。
日本人やベトナム人が、アメリカの「パールハーバー」とか「ランボー」(これはアフガンだったか?「怒りのアフガン」ではそうだけど基本はベトナムだよね?)とか「地獄の黙示録」という映画に強烈な非難もしないし、キリスト教行事にも非難しないし、ネオコンの支持母体的宗教団体への抗議運動もしない。ごく一部には存在するかもしれないが、お互いの安穏を保てる程度なのだろう。ならばその方が望ましいと思う。
長い年月にわたって継続されれば、それは行事として定着したものとなるんだろうな、と。外国人から見て、それがどれ程奇異であるとしても、それに応じることって必要なんだろうか?
宗教的行事などの多くのことは、長い間続けられれば歴史的慣習として定着する。例えば、クリスマスに何故七面鳥を焼いて食べるか、ということにはどんな意味があるか知らない。でも長く続けば、慣習として行われる。ユダヤ教徒が行う宗教的行事で羊や山羊をして家に血をかけたりするのは、異教徒達にとってみれば異常な行動の類だろうが、当事者達にとっては普通だ。大挙して「野蛮であり、羊を殺すな」などと攻撃したりはしないのではないか。
私は宗教学者でもないので全く知らないのだが、全世界の宗教的行為というのは、それこそ山のようにあるだろう。特にキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒などでは、宗教と政治が結びついているものが多々あるだろう。恐らく、日本以上に多いと思う。たとえ紛争当事国同士であったとしても、相手国への「宗教的行事への非難」とか「行為停止要求」などということはまず聞いたことがない。民族的対立の根底には、言語や宗教の違いなどとという文化的な対立も勿論含まれていることもあるだろうが、それでも相手国に「七面鳥を焼くな」的な事柄を要求することなどないだろう。そこまで干渉したりはしないものなんじゃないかな、と思う。
それに韓国は、秀吉や加藤清正、小早川隆景、宇喜多秀家などの墓に行ってはいけない、とか言うのか?日本は「元寇」についてあれこれ言ってないけどね。モンゴル人に過去の罪を非難するどころか、差別なく「横綱」として最上級の敬意を払っている。それが普通であろうと思うぞ。トルコだって、かつてはキリスト教徒のヨーロッパ人を殺戮しまくり、無理やりイスラム教徒に改宗させたり、ハーレムにロシア美女を奴隷として連れてきたって、EUの仲間として迎えられるかもしれないじゃないか(かなり昔、日本では「ソープランド」のことを「トルコ」と呼んでいたな。どうしてか知らないが。これはさすがに抗議を受けて呼び方を変更することになったな。それでも中韓に比べれば、誠に穏やかなものであった。「トルコ」と呼ばれる方が、「靖国参拝」よりも怒ることだろうと思うけどね。トルコ人は優しかったんだろう)。
国家として相手国に要求するべきことが、中韓は何だか他とは違うかも。
中韓は日本人が相手にして国内的に騒げば騒ぐ程、「靖国参拝非難は効果がある」ということに味をしめるんじゃないか、とも思う。だからしつこく言うんだろうと思う。なので、対応は出来るだけ淡々と行った方がいいのだ。国家としても、国民レベルであるとしても(個人間ということ)。
日本人の国民感情として、現在はまだ「靖国参拝」に抵抗がある人々もいるかもしれないが、これがあと百年後くらいになれば状況はかなり変わるだろうと思う。中韓も「靖国参拝」とはどのようなものであったか、忘れてくれるといいけどね。
日本人やベトナム人が、アメリカの「パールハーバー」とか「ランボー」(これはアフガンだったか?「怒りのアフガン」ではそうだけど基本はベトナムだよね?)とか「地獄の黙示録」という映画に強烈な非難もしないし、キリスト教行事にも非難しないし、ネオコンの支持母体的宗教団体への抗議運動もしない。ごく一部には存在するかもしれないが、お互いの安穏を保てる程度なのだろう。ならばその方が望ましいと思う。
長い年月にわたって継続されれば、それは行事として定着したものとなるんだろうな、と。外国人から見て、それがどれ程奇異であるとしても、それに応じることって必要なんだろうか?