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国家公務員共済への補助金

2005年10月15日 19時22分32秒 | おかしいぞ
かなり古い話題ですが、国家公務員共済組合連合会は病院経営をしています。財務省主計局 給与共済課によれば、病院を経営すると、国家公務員達がみんな「公務の能率的運営ができる」ようになるんだと。何でだよ?片山さつき議員は、主計局出身だろ?こういうのも、きちんと説明できるはずだろ?


国家公務員共済の謎15


国家公務員共済が「病院経営」をすると、国家公務員の「生活の安定と福祉向上」に繋がるのはどうしてなのだ?「病院経営」じゃなくて、ソバ屋とかラーメン屋経営だって同じだろう?利益さえ出れば(笑)

それは、共済に利益が出ると公務員みんなが喜び、将来の自分達の年金受給額が増加するんじゃないか、という希望や期待を生じせしめ、その結果、公務の能率が上がるのか?(爆)

主計局は、本当に公務能率が病院経営によって向上するという根拠があると思っているのか?こういうのが、「勝手な解釈、都合の良い解釈」だ、って言ってるんだよ。権限さえあれば、どんなにオカシナ決定でも出来るのだ。これを国民からは、止めさせることが出来ないのだ。


病院経営=公務員の生活安定と福祉向上
これは、財務省主計局給与共済課による解釈では、同じものだそうだ。こいつらはバカか?
単なるタカリだろ。病院に国庫から金をねじ込むことで、法人への利益供与を行っているのと同じだ。
病院経営の名の下に、タカリ同然のことが主計局給与共済課主導で行われ続けてきたのだ。補助金事業の持つ意義なんてのは、はじめから大して存在しないのだ。要するに、自分達の懐具合のみ心配しているだけ。財務省主計局にとっては、自分達で如何ようにも予算貼り付けが出来るから、絶対に止めようとしないのさ。


病院経営と称して、補助金を大量に安定的に供給することにより、あちこちに病院建設させ、たとえ赤字であっても全て補助金で穴埋め出来るような仕組みにしているのが、財務省のやり口なのさ。病院の建設費用は国庫補助金で賄われるから、しばらくすると次の病院を建設し、これも国庫から出て、次の病院も・・・・って無限に膨張を続けられる補助事業だろ、っての。主計局のくせに、何でこんな簡単なことが判らないんだ?自分達の取り分が減るからか?


一般会計から、国家公務員共済組合連合会に毎年70億円以上の補助金が流されてきた。法人としては、60億円もの利益を上げていたにも関わらず、補助金適正化法第7条第2項規定(補助金を受けた事業者が相当の利益を生じた場合には、国庫に返納させる条件を付けられる)を適用することも考慮せず、しかも、「補助金交付要綱」には元本償還費への充当という項目がなかったのに、それに充当を続けたことは、補助金目的からは逸脱しているだろ?「補助事業に利益を生じないから」とかぬかしていたが、条文は「補助事業者」への適用なんだし。そんなことも判らん連中なのに、「適正だ、問題ない」と絶対に主張を曲げないんだぞ?相手が私のような、タダの国民だからだ。常に突っぱねれば済むと思っていて、決して自らの誤りを認めようとしない、そういう人種なのだそうだ、主計局とは。


谷垣くん、こういうのは放置ですか?医療費削減という目標を厚生労働省に突きつけておきながら、一方では国家公務員共済への特定の利益供与をなす為の、病院補助金は温存ですか?細川次官もこれでいいと思っているのか?まず、自分達の共済への補助金を切って、運営させるのが筋だろ。何で、共済の施設整備費を国が面倒をみなけりゃならないんだ?特殊法人の利権を温存しようとすることと何ら変わらないだろ?谷垣くん、病院経営がそれほど「オイシイ商売」ならば、こういう補助金をまず全部切るべきだろ。特定団体の利益を生み出させる為に、何故国が施設整備費を補助せねばならんのだ?


まず、自分達の病院を変えてから言えよ、主計局も。医療費削減の手本をまず見せてみろ。国家公務員共済組合連合会医療施設費等補助金の全額カットだ。少ないけれど、仕方ないだろ?たった80億円弱だからね。医療費削減目標3500億円に比べれば、僅か2%ちょっとくらいにしかならないけれども、「病院にも痛みを」だろ?これくらい簡単なはずだろ?出来ないとは言わせないぞ。



若者文化って今は何だろう?

2005年10月15日 13時20分20秒 | 俺のそれ
昨日WBSを観ていたら、何とネット上でしか知らなかった吉崎達彦氏が出演されていた。今までこの番組については何度か記事でも取り上げてきましたが、ナマの小谷さんの隣に座れるなんて羨ましい・・・です。吉崎氏は有名人だったのですね、密かに。


氏の著作である『1985年』も紹介されていて、映像を見ながら懐かしく思った。こういう「懐かしいな」という感覚を持つということは、きっと自分が歳をとったということなのだろうな、と思う。そういえば、「おニャン子クラブ」って、あの頃だったんですね。存在を知ったのは、半年以上経ってからだったけど(笑)。

ある意味バカな時代だったが、まだ若者にエネルギーがあった時代だった。新人類とか何とか言われたように思うけれど、新たな流行とか進取気質は若者達にあった。ところが最近は、新しいものを作っていくのは若者ではなくて、団塊ジュニア的な30歳半ば世代か、もうちょっと上の「金を使ってくれる世代」である40代とかじゃないかな、と思う。そういう人々に、世間の流行や消費傾向がフォーカスされているように思う。なので、「懐かしい」という音楽CDの復刻版とか、流行ったアイテムの復刻版とか、常に「レトロ調」(そこまで古くはないか)が意識させられるような気がするのである。大体昔に流行ったものが多いのだ。若者のエネルギーが弱くなったのかな?若者によって、色々なものがもっと生み出されてもいいと思う。


それとも、単に人数の問題なのかな?数が多い世代に合わせて色々なことが進められるから?好みとか価値観が細分化され、より一層多様化したから?理由はよく判らない。だが、若い人々のある種滅茶苦茶的な、無駄とも思える行動エネルギーとか、そういう部分に未知の可能性とか意外な成果があったりするんじゃないかな、という期待感もある。全てを悟った風で、「どうせ、やっても無駄さ」とか「どうせ、できっこないさ」というような、年寄的な発想が多くなったのかもしれない。合理的に先を見切って進むことも必要だろうが、がむしゃらな、ひた向きな取り組みの中でしか発見出来ないこともあるのではないかとも思う。特に自分のことに関しては。


いまどきには、「モーレツ」とか「がむしゃら」ということに対しては、「カッコわり~」「無駄、無駄」「精神論では解決できんのよ」という意見は多いのかもしれない。確かに「精神論だけでいくら頑張ったって、ダメなものはダメ」というのは、正しい。私も自分の記事にそのように書いたし。己の限界を知れ、というのは、場合によっては合理的判断だろうと思う。塚原ト伝のような剣豪を目の前にして、いくら「がむしゃらに頑張ればきっと勝てる」と言ったところで、対決すればバッサリ切られるだろう。その時に、己の無謀さとか浅はかさを知っても、時既に遅し、だ。「精神論だけではダメなのだ」というのは、己の限界にチャレンジしてみた者には本当の意味で判るだろう。だが、やる前から「どーせ、ダメに決まってるジャン」という何でも判ったような結論を掲げて、何も行動しないことについては少し違和感がある。


個人レベルで見れば強い若者達も存在するから(スポーツ選手、歌手や作家などの有名人等)、きっと頑張っている若者も結構いるんじゃないかな、と思うけれど、世代全体的にはもっと元気があってもよいと思う。何たって、若いんですから。自分が学生の時には、本当にバカみたいだったよ(笑、「みたい」じゃなく事実バカだったな)。元気だけが取柄だったような気がする・・・。今の若い人達は、私からすれば結構エライと思えるけどね。なので、元気出して、年寄りには負けない積もりで、新たなものをドンドン産み出していって欲しい。