『社会的立場のある人がネットで批判されると、うまく対応できないのは、尊厳リソースがその人の社会的立場に多く割り振られているため、尊厳リソースを多く奪われたと感じ、その尊厳リソースを無理矢理ネットで取り戻そうとするためなのだろうと考えてます。』
ARTIFACTハテナ系 - 尊厳ポートフォリオ
kanose氏が取り上げていたので、便乗。ちょっと気になってたのもありますし。本田先生がちょっと怒り風なのも。
私には、よく分らない。
「尊厳リソース」というのは、どういった意味合いなんだろうか、と思った。
コメント欄に書かれてた文脈では、「(ネットで何かの)書き込みをすること」がその人物の「尊厳のリソース」になっている、というようなことであったので、どちらかと言えば「存在意義」「存在価値」に近いようにも思える。これが、ある人の「尊厳」の「みなもと」になっている「もの(こと)」は何か、ということになれば、非常に曖昧な、感覚的なものなのではないかと思えたりする。しかも、自己評価などではなくて、他人が勝手にそう感じたり受け止めたりするものなんじゃないだろうか、とも思う。うーむむ、よく判らなくなってきた。言葉を思考するのは、ニガテだし。哲学とかって、こういうことばかり考えてるんですかね。
「私にとって、組合活動が私の存在意義の一つです」とか言う時には、何となく理解できる。「私」の構成要素(?、活動というか、やってること)がいくつかあって、その内の一つに自己の「リソース」を投入し、その活動が自分にとって最も重要なので、自分の存在価値があると判断できる、というような感じですね。他にも、「子育てこそが、私の存在意義」とか。
「ポートフォリオ」という考え方が出てくるので、自分の活動に、例えば「子育て」「仕事」「ボランティア」「ネットでの書き込み」とかいくつかあって、その内「最も多くの自己のリソースを投入」してたり、「自分の価値判断では最も重視」してたりすることがある、という意味なら判るような気もする。
でも、「誰かの尊厳は、他の誰かの尊厳を奪う(失わせる)ことで成り立つ」というのは、どうなんだろうか。「尊厳」というのは、取り合うものなんだろうか?
「尊厳」の元々の意味は、『とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。また、そのさま。「人間の―を守る」』(yahoo辞書・大辞泉)とあって、他人から見た時に受ける感覚というか様子のようなものです。言い換えれば、ある種の「不可侵性」のようなものではないかと思えます。「生命の尊厳」という時に、「生命」自体が何かの行為者であるということでもないように思います。「生命の尊厳」の根源としては、例えば「生命」自体の神秘性・不可逆性・代替不能性というようなものがあるので、「尊厳」というのが感じ取れるのであろうな、ということかと思います。それ故、「決して侵すべからざるもの」という得体の知れない「部分」が、「生命」にはきっとあるのであろうな、と。
人としての「尊厳」は、誰にでもあると思います。これは全員に共通する部分と、必ずしも共通しない個人差のあるような部分がひょっとしたらあるのかもしれません。感じ方の問題であるので、Aさんの尊厳を醸し出す「何か」と、Bさんの「何か」は異なるのかもしれませんね。仮に、神父のCさんの尊厳を犯そうと考える人(とりあえず「Dさん」とします)がいるとしましょう。神父のCさんの「尊厳の源」は何か判りませんが、神に対する態度がその一部であるとDさんが考えた時、DさんはCさんが信仰する神像に向かって唾を吐きかけたとします。すると、Cさんの尊厳が犯される(というか、尊厳の源を汚す?)ということになるのかもしれませんけれども、このことでDさんの「尊厳」が獲得されるということでもないように思えます。この行為を見て、他の人々が「気高く犯しがたい」とは感じないのではないか。
結局、誰かの尊厳は、他の誰かが奪ったり失わせたりできるものではない、ということなんじゃないでしょうか。たとえ他の誰かの尊厳を侵したとしても、その人自体は「尊厳」を獲得したりできないと思います(逆の評価はあると思えますが)。「尊厳」は他人が感じ取るものであって、曖昧で相対的なものであるはずなのに、どういうわけだかある種の「絶対的な判断」という取り扱いを受ける、ということであるように思えます。その「不可侵性」のわけを聞かれても、正確には答えられないのです。でも、その感覚は「絶対的」なのであって、何かと比べるとかで決まる感覚ではないのです。
初めの「尊厳リソース」に話を戻すと、このような表現をたまたまされたものというのは、やっぱり「自己の存在意義・価値」ということのように思えるのですね。他人との関係上から、誰かにとって自己の存在意義を高めるものがあるとしても、他人の中には逆にそれがマイナスの効果を持つものとなり得る、ということなんではないか、と。
適当に思いつく例を書いてみると、
・市民運動(例えば防衛予算削減とか米軍基地排除とか)―地方予算獲得運動(基地やミサイル関連施設誘致)
・利上げ推進派―ゼロ金利維持派
・嫌中派―媚中派
というような。
例がヘン過ぎるとは思いますけれど(ゴメンナサイ)。
自分の中に感じ取るということであるなら、「尊厳」というよりも、やっぱりプライド=「自尊心」「自負心」というようなものではないかな。「社会的立場のある人」は、その社会的立場に「プライド」の源泉が多くある、ということなら、何となく判る。例えば新聞記者の人がいて、自分の「自尊心」を生み出す何かがあって、それには「新聞記者」「キリスト教」「親が社長」「東大卒」・・・とか色々あったとしよう。すると、重要度というか、重視順でいうと、「新聞記者」が第一位の序列に来る、ということなんだろうな、と。
ちょっと退席します。
また後で。
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kanose氏が取り上げていたので、便乗。ちょっと気になってたのもありますし。本田先生がちょっと怒り風なのも。
私には、よく分らない。
「尊厳リソース」というのは、どういった意味合いなんだろうか、と思った。
コメント欄に書かれてた文脈では、「(ネットで何かの)書き込みをすること」がその人物の「尊厳のリソース」になっている、というようなことであったので、どちらかと言えば「存在意義」「存在価値」に近いようにも思える。これが、ある人の「尊厳」の「みなもと」になっている「もの(こと)」は何か、ということになれば、非常に曖昧な、感覚的なものなのではないかと思えたりする。しかも、自己評価などではなくて、他人が勝手にそう感じたり受け止めたりするものなんじゃないだろうか、とも思う。うーむむ、よく判らなくなってきた。言葉を思考するのは、ニガテだし。哲学とかって、こういうことばかり考えてるんですかね。
「私にとって、組合活動が私の存在意義の一つです」とか言う時には、何となく理解できる。「私」の構成要素(?、活動というか、やってること)がいくつかあって、その内の一つに自己の「リソース」を投入し、その活動が自分にとって最も重要なので、自分の存在価値があると判断できる、というような感じですね。他にも、「子育てこそが、私の存在意義」とか。
「ポートフォリオ」という考え方が出てくるので、自分の活動に、例えば「子育て」「仕事」「ボランティア」「ネットでの書き込み」とかいくつかあって、その内「最も多くの自己のリソースを投入」してたり、「自分の価値判断では最も重視」してたりすることがある、という意味なら判るような気もする。
でも、「誰かの尊厳は、他の誰かの尊厳を奪う(失わせる)ことで成り立つ」というのは、どうなんだろうか。「尊厳」というのは、取り合うものなんだろうか?
「尊厳」の元々の意味は、『とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。また、そのさま。「人間の―を守る」』(yahoo辞書・大辞泉)とあって、他人から見た時に受ける感覚というか様子のようなものです。言い換えれば、ある種の「不可侵性」のようなものではないかと思えます。「生命の尊厳」という時に、「生命」自体が何かの行為者であるということでもないように思います。「生命の尊厳」の根源としては、例えば「生命」自体の神秘性・不可逆性・代替不能性というようなものがあるので、「尊厳」というのが感じ取れるのであろうな、ということかと思います。それ故、「決して侵すべからざるもの」という得体の知れない「部分」が、「生命」にはきっとあるのであろうな、と。
人としての「尊厳」は、誰にでもあると思います。これは全員に共通する部分と、必ずしも共通しない個人差のあるような部分がひょっとしたらあるのかもしれません。感じ方の問題であるので、Aさんの尊厳を醸し出す「何か」と、Bさんの「何か」は異なるのかもしれませんね。仮に、神父のCさんの尊厳を犯そうと考える人(とりあえず「Dさん」とします)がいるとしましょう。神父のCさんの「尊厳の源」は何か判りませんが、神に対する態度がその一部であるとDさんが考えた時、DさんはCさんが信仰する神像に向かって唾を吐きかけたとします。すると、Cさんの尊厳が犯される(というか、尊厳の源を汚す?)ということになるのかもしれませんけれども、このことでDさんの「尊厳」が獲得されるということでもないように思えます。この行為を見て、他の人々が「気高く犯しがたい」とは感じないのではないか。
結局、誰かの尊厳は、他の誰かが奪ったり失わせたりできるものではない、ということなんじゃないでしょうか。たとえ他の誰かの尊厳を侵したとしても、その人自体は「尊厳」を獲得したりできないと思います(逆の評価はあると思えますが)。「尊厳」は他人が感じ取るものであって、曖昧で相対的なものであるはずなのに、どういうわけだかある種の「絶対的な判断」という取り扱いを受ける、ということであるように思えます。その「不可侵性」のわけを聞かれても、正確には答えられないのです。でも、その感覚は「絶対的」なのであって、何かと比べるとかで決まる感覚ではないのです。
初めの「尊厳リソース」に話を戻すと、このような表現をたまたまされたものというのは、やっぱり「自己の存在意義・価値」ということのように思えるのですね。他人との関係上から、誰かにとって自己の存在意義を高めるものがあるとしても、他人の中には逆にそれがマイナスの効果を持つものとなり得る、ということなんではないか、と。
適当に思いつく例を書いてみると、
・市民運動(例えば防衛予算削減とか米軍基地排除とか)―地方予算獲得運動(基地やミサイル関連施設誘致)
・利上げ推進派―ゼロ金利維持派
・嫌中派―媚中派
というような。
例がヘン過ぎるとは思いますけれど(ゴメンナサイ)。
自分の中に感じ取るということであるなら、「尊厳」というよりも、やっぱりプライド=「自尊心」「自負心」というようなものではないかな。「社会的立場のある人」は、その社会的立場に「プライド」の源泉が多くある、ということなら、何となく判る。例えば新聞記者の人がいて、自分の「自尊心」を生み出す何かがあって、それには「新聞記者」「キリスト教」「親が社長」「東大卒」・・・とか色々あったとしよう。すると、重要度というか、重視順でいうと、「新聞記者」が第一位の序列に来る、ということなんだろうな、と。
ちょっと退席します。
また後で。