いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

尊厳リソースの続きです

2006年07月16日 13時34分37秒 | 俺のそれ
昨日書こうと思ってたら、できませんでした。スミマセン。
で、本日続きを書きました。



尊厳リソースを「ネットで無理矢理取り戻そうとする」という指摘は何となく判るような気もするが、実際その立場の人々はどう感じているのか気になるところ。


ごく普通に思い浮かぶのは、著名人の方々。議員さんとか、学者さんとか、テレビに出てくるような人(何とか評論家や文化人風な人?)とか。ネット上で批判されると、「社会的立場を酷く傷つけられた」とより多く感じる人の場合には、「ネット上で無理矢理それを取り戻そうとする」ということか。初めから意見の多様性について、ある程度許容しておけばいいのではないかと思うが、どうなんでしょうか。「誤り」と「多様性」は違うけど、ちょっとくらい間違っても仕方がないじゃない、とも思うけどね。誰でも完璧じゃないんだし、いくつかの意見が交わされる過程で、次の到達地点が見えてくるというか、間違いは方向修正されて行けばいいんじゃなかろうか、と。


「あの山は高いんだよ」と誰かが言うと、「いや、あの山は木の数が多いんだよ」と言う。否定じゃないけど、違う意見だってある。それをある程度認めたっていいんじゃないのかな、と思う。もしも常に完璧な論述を求めるならば、研究者とかと同じくらいになってそれなりの時間とか金をかけてやるべきだね。だったら、専門に研究している人々は要らない、ってことになるか。反対意見として、「実は、木の数はそれ程多いとは言えないんだよ」とか言われたら、「ああ、そうでしたか。アリガトウ」でいいんではないかと。それを認めることは、尊厳とか自尊心に大きく関わるのでしょうか?それに、もっとありがちなのは、正解というのが判らないものとか、価値判断の分かれるものとかがあるのだから、それをいくら論争しても、終着地点はないと思うけど。例えば、ミサイル防衛の話とか。


「何をするか判らない、暴力や危害を加えることも厭わない」という凶悪犯人が相手の場合、

①人間なのだから、とりあえず説得し、暴力を回避する。自分が包丁で刺されても、やむを得ない。

②最低限、警察官は武装させる。犯人が死ぬ場合があってもやむを得ない。

この①に賛成する人というのは、いないわけではないと思います。


これと同じように、防衛力についても、たとえミサイルが着弾してもやむを得ない、だって戦後に着弾したことはなかったのだから防衛力はいらない、という人がいたりしても、この否定は難しいですよね。完全ノーガードで、無防備状態に国を置いてみたことがないですし。そもそも試せるようなことでもないんですけど。中身については今はとりあえず措いておいて、この問題の「正しい答え」を考えようと思っても、結局は判らないのですよね。良さそうな方ならば、導き出せるのだろうと思いますけど。論争そのものの意味は、相手の考え方や立場を知ることができる、ということであり、その上で自分の意見を再び考えたり確かめたりできることなんだろうな、と思います。


最近の事例を思い浮かべると、某「Y形―T中論争」後に、華麗に無視というかスルーする人々というのも、何だか大人気ないですね。いつまでもこだわってないで、従来通りの対応に戻ればいいのにね。たったひとつやふたつの意見の齟齬があったからといって、何で他の議論ができなくなるのか不思議だね。他の話題について普通に話せると思うけど。しかも、片方が微妙に「修復シグナル」を送っていても、それすら無視を続ける、というのは、よっぽど「尊厳リソース」を奪われたとか思ってるんかね(笑)。友達と喧嘩して、仮に「オレのフシギダネの方が強いんだよ」「いや、ボクのピカチュウの方が強いんだよ」とか対立したとしても、その後普通に修復されると思うけどね。単に「(オレのフシギダネの方がきっと強いと心の中では思ってるけど)オマエのピカチュウも中々強いかもしんないね」で別にいいじゃん、とは思うね。それに触れたくないんだったら、別な「やっぱ、ザクが一番好き」「いや、ガンタンクだよ~ん」とか、言っとけばいいじゃん。それとも「謝るまでゼッタイ許さないからね」とか、思ってるんかね。イイ年した大人にしては、笑える。まあ、ひとさまのことだから、どうでもいいけど。参考にはなる。「社会的立場」と「尊厳リソース」という部分では。