今回書く内容には、非常に問題のある部分が多く含まれると思います。ですので、読むのが躊躇われる場合には、読まない方がいいと思います。また、あくまで個人的妄想に過ぎませんので。
いまだに週刊誌、テレビ等のメディアを賑わせている秋田の事件ですけれども、こうした「子殺し」について少し考えてみることにしたい。昨日、新生児の死亡や嬰児殺しのことを記事に書いていて、ぼやっと頭に浮かんでいたので。イジメにも通じるものがあるような気がした、ということもあります。
迷信とか、古い「言伝え」みたいなのが昔はあったと思うが、これとイジメの関係について。
いきなりで申し訳ないですが、祟りだとか何とかで、昔は子どもを殺していたはずだ。それに、村八分のような絶縁状態というのは、必ずあったのではないかと思う。このような状態は何故起こるのか、ということについて書いてみる。
例えば、とある夫婦に子どもが生まれたとしよう。その子を取り上げた産婆が、子どもの容姿の異常さに気付いたとしたらどうだろう?その子は、何かの先天的疾患を有していたとか、奇形を有していたりしたとか、そういうことも多々あったのではなかろうか。多くの人は見たこともないような、異様な奇形というのは存在しただろう。そうなると、その噂は広まって、「あそこの家は祟られている」とか「因縁なんだ」とか、何かの理由を付けられて、イジメや差別に遭うことになってしまうだろう。しかし、これは人類の歴史の中での必然だったのではないか、と感じるのである。差別したり、村八分にしたりすることを肯定しているわけではない。でも、自然の中では、「強い遺伝子」を残していくことが必然なのであり、先天疾患や奇形を持つ個体が多く生き延びることは、後世にその遺伝子が残されてしまう可能性があって、それをできるだけ排除しようとすることは有り得るのではないかと思う。先天異常や奇形のある子は、すぐ殺されたのではないだろうか(たとえ殺されなくても、長生きは難しかったかもしれないが)。
他にも、村八分によって、伝染病の感染などが防がれていた可能性もあるのでは、と思う。どうして、できるだけ関わらないのか、日常の接触を避けるのか、ということを考えると、原因不明の伝染病であったりすれば、「祟りだ」という風にすれば、感染の広がりは免れるのではないかと。集団を守る為には、隔離しておくことが有利な状況というのが必ずあって、その結果が村八分とかイジメのような形態として残ったのかもしれない、と思う。
人間もそうだが、社会性を持ち集団で生活するような、例えばサルのような動物は、群れの掟を破るような個体はきっと排除されてきたに違いないと思う。そうでなければ、集団が維持できないし、逆に危険に晒されたり、生き延びることが難しくなるからなんだろう、と思う。なので、集団に背いたり、特に異質なものは、排除されると思う。そして、迷信や祟りだとか言伝えとして残されてきた慣習というのは、「特定の遺伝子を持つ個体を残さない」という掟の一部なのではないかと思うのだ。集団から半ば隔離された状態となって、その家に嫁にやる人も現れなければ、婿に迎えてくれる家もなくなるはずだ。すると、その家はいずれ断絶する。子孫を残せなくなるだろう。そうやって、遺伝子は淘汰されてしまう、ということになるのではないか。集団内での「異質性」が極めて高いことが、何かの「遺伝的問題」を反映している、と本能的にわかっているならば、そういうことも起こりえるのではないかと思える。それは、「イジメ」をする側には無意識に働く作用なのかもしれない、とも思う。勿論イジメられる側にも、特別な原因は思い当たらないのに、何故かイジメられてしまう、ということは起こりえるのではないか。
次に「子殺し」であるが、人間ばかりではなく動物にだってあるようです。サルも、ライオンも、ネズミも、親が「子を殺す」のですよ。ある種類のサルでは、ボスザルが複数のメスたちを支配していますが、別なオスザルがボスの座を賭けて挑んでくることがあります。その争いの結果、ボスが交代することになると、前のボスザルの子である子ザルたちをみんな殺すのだそうです。ライオンも同じ感じ。オスライオンは、数頭のメスと暮らしていますが、別なオスが戦いを挑んで勝つことになれば、前のオスの子は殺されることになるのだそうです。これらは、「強い遺伝子」を残すための選択システムの一種だろう。激しい闘争の結果「勝つ」ということが、「強いオス」の証なのであり、その遺伝子を残すことは「前のオスの子=ダメな弱い遺伝子」よりも優先されてしまう、ということだろう。弱い遺伝子は抹殺されろ、ということだ。それ故、子を殺すのだ。
ネズミの場合には一対のツガイになっているようだが、短命の為なのか、交尾すると必ず妊娠するらしい。で、動物学者が色々な実験を考えてやってみたんだそうだ。
いま、オスAとメスaが同じケージにいて、交尾したとする。普通はメスaが必ず妊娠することになる。ところが、交尾直後にオスAを取り除き、オスBにチェンジしたとすると、メスaは出産しないのだそうだ。オスAの子は産まず、何と自分で堕ろす(!)んだそうです(解剖して調べたんだと・・・うううっっ)。オスBはメスaがオスAと交尾してたことを知らないのに、何故かメスaはオスAの子を産まず、新たにオスBと交尾したらBの子を産むんだそうだ。不思議。
別な実験で、ツガイのオスCとメスcがいて、子どもを産ませたとする。そこで、メスcだけを取り除き、メスDを入れると、オスは自分の子どもを殺すのだ。本来自分の子であるのに、メスが変わると、間違えて「他のオスの子」と思い込んでしまい殺す。オスは基本的に、他のオスの子は殺すことになっているのだそうだ。今度は、オスEとメスeのツガイがいて、子どもを産ませたしばらく後で、子どもだけ他のオスの子に入れ替えると、子どもを殺さないんだと。メスeがそのままであれば、子どもが入れ替わっても判らんのだそうだ。
ウサギやイヌなどでも、母親が生まれて間もない子をかみ殺すことがあるようだ。他のメスの産んだ卵を破壊したり、子どもを殺そうとしたりすることもあるだろう。人間以外の生物においても、「子殺し」は普通に起こってしまう。それは過酷で、残忍な自然の選択システムに過ぎないのでしょうけど。人間だけがそうした本能を消し去れるかどうかは判らない。そのような激しい本能が、理性を上回ってしまうことを、どうやって完全に防げるか、というのは判らない。
ただ、人類が他の比較的大型の哺乳類に比べてこれほど繁殖してきたのは、宗教性とか哲学的な何かを獲得したからで、本能を克服するか乗り越える方法を身につけたからなのではないか、と感じるのである。それは、はるか昔、数千年前から始まった、「人殺し」の道徳的抑制ではないだろうか。それは次第に「子殺し」も減じていく結果となり、今のように個体数が膨大に増えることとなったのではないかと思う。強い遺伝子を残す為の冷徹なシステムよりも、はるかに多くの遺伝子を残すことに成功した、とも言えるであろう。例えば、釈迦が「殺すべからず」ということを、野蛮で無知な人々に教えてあげたり、十戒で示されたように殺生を禁じたりすることで、人間の作り上げた全く新たな人工的システム(=今の社会、世の中全般かな)が自然の厳しい選択システムを上回った、ということなのかもしれない。
これも一つの進化の過程なのかもしれないが、逆に繁栄を謳歌した恐竜の如く破滅に向かって進んでいるのかもしれない。それはもっと長い時間が経過しなければ、判らないことなのであるが。
いまだに週刊誌、テレビ等のメディアを賑わせている秋田の事件ですけれども、こうした「子殺し」について少し考えてみることにしたい。昨日、新生児の死亡や嬰児殺しのことを記事に書いていて、ぼやっと頭に浮かんでいたので。イジメにも通じるものがあるような気がした、ということもあります。
迷信とか、古い「言伝え」みたいなのが昔はあったと思うが、これとイジメの関係について。
いきなりで申し訳ないですが、祟りだとか何とかで、昔は子どもを殺していたはずだ。それに、村八分のような絶縁状態というのは、必ずあったのではないかと思う。このような状態は何故起こるのか、ということについて書いてみる。
例えば、とある夫婦に子どもが生まれたとしよう。その子を取り上げた産婆が、子どもの容姿の異常さに気付いたとしたらどうだろう?その子は、何かの先天的疾患を有していたとか、奇形を有していたりしたとか、そういうことも多々あったのではなかろうか。多くの人は見たこともないような、異様な奇形というのは存在しただろう。そうなると、その噂は広まって、「あそこの家は祟られている」とか「因縁なんだ」とか、何かの理由を付けられて、イジメや差別に遭うことになってしまうだろう。しかし、これは人類の歴史の中での必然だったのではないか、と感じるのである。差別したり、村八分にしたりすることを肯定しているわけではない。でも、自然の中では、「強い遺伝子」を残していくことが必然なのであり、先天疾患や奇形を持つ個体が多く生き延びることは、後世にその遺伝子が残されてしまう可能性があって、それをできるだけ排除しようとすることは有り得るのではないかと思う。先天異常や奇形のある子は、すぐ殺されたのではないだろうか(たとえ殺されなくても、長生きは難しかったかもしれないが)。
他にも、村八分によって、伝染病の感染などが防がれていた可能性もあるのでは、と思う。どうして、できるだけ関わらないのか、日常の接触を避けるのか、ということを考えると、原因不明の伝染病であったりすれば、「祟りだ」という風にすれば、感染の広がりは免れるのではないかと。集団を守る為には、隔離しておくことが有利な状況というのが必ずあって、その結果が村八分とかイジメのような形態として残ったのかもしれない、と思う。
人間もそうだが、社会性を持ち集団で生活するような、例えばサルのような動物は、群れの掟を破るような個体はきっと排除されてきたに違いないと思う。そうでなければ、集団が維持できないし、逆に危険に晒されたり、生き延びることが難しくなるからなんだろう、と思う。なので、集団に背いたり、特に異質なものは、排除されると思う。そして、迷信や祟りだとか言伝えとして残されてきた慣習というのは、「特定の遺伝子を持つ個体を残さない」という掟の一部なのではないかと思うのだ。集団から半ば隔離された状態となって、その家に嫁にやる人も現れなければ、婿に迎えてくれる家もなくなるはずだ。すると、その家はいずれ断絶する。子孫を残せなくなるだろう。そうやって、遺伝子は淘汰されてしまう、ということになるのではないか。集団内での「異質性」が極めて高いことが、何かの「遺伝的問題」を反映している、と本能的にわかっているならば、そういうことも起こりえるのではないかと思える。それは、「イジメ」をする側には無意識に働く作用なのかもしれない、とも思う。勿論イジメられる側にも、特別な原因は思い当たらないのに、何故かイジメられてしまう、ということは起こりえるのではないか。
次に「子殺し」であるが、人間ばかりではなく動物にだってあるようです。サルも、ライオンも、ネズミも、親が「子を殺す」のですよ。ある種類のサルでは、ボスザルが複数のメスたちを支配していますが、別なオスザルがボスの座を賭けて挑んでくることがあります。その争いの結果、ボスが交代することになると、前のボスザルの子である子ザルたちをみんな殺すのだそうです。ライオンも同じ感じ。オスライオンは、数頭のメスと暮らしていますが、別なオスが戦いを挑んで勝つことになれば、前のオスの子は殺されることになるのだそうです。これらは、「強い遺伝子」を残すための選択システムの一種だろう。激しい闘争の結果「勝つ」ということが、「強いオス」の証なのであり、その遺伝子を残すことは「前のオスの子=ダメな弱い遺伝子」よりも優先されてしまう、ということだろう。弱い遺伝子は抹殺されろ、ということだ。それ故、子を殺すのだ。
ネズミの場合には一対のツガイになっているようだが、短命の為なのか、交尾すると必ず妊娠するらしい。で、動物学者が色々な実験を考えてやってみたんだそうだ。
いま、オスAとメスaが同じケージにいて、交尾したとする。普通はメスaが必ず妊娠することになる。ところが、交尾直後にオスAを取り除き、オスBにチェンジしたとすると、メスaは出産しないのだそうだ。オスAの子は産まず、何と自分で堕ろす(!)んだそうです(解剖して調べたんだと・・・うううっっ)。オスBはメスaがオスAと交尾してたことを知らないのに、何故かメスaはオスAの子を産まず、新たにオスBと交尾したらBの子を産むんだそうだ。不思議。
別な実験で、ツガイのオスCとメスcがいて、子どもを産ませたとする。そこで、メスcだけを取り除き、メスDを入れると、オスは自分の子どもを殺すのだ。本来自分の子であるのに、メスが変わると、間違えて「他のオスの子」と思い込んでしまい殺す。オスは基本的に、他のオスの子は殺すことになっているのだそうだ。今度は、オスEとメスeのツガイがいて、子どもを産ませたしばらく後で、子どもだけ他のオスの子に入れ替えると、子どもを殺さないんだと。メスeがそのままであれば、子どもが入れ替わっても判らんのだそうだ。
ウサギやイヌなどでも、母親が生まれて間もない子をかみ殺すことがあるようだ。他のメスの産んだ卵を破壊したり、子どもを殺そうとしたりすることもあるだろう。人間以外の生物においても、「子殺し」は普通に起こってしまう。それは過酷で、残忍な自然の選択システムに過ぎないのでしょうけど。人間だけがそうした本能を消し去れるかどうかは判らない。そのような激しい本能が、理性を上回ってしまうことを、どうやって完全に防げるか、というのは判らない。
ただ、人類が他の比較的大型の哺乳類に比べてこれほど繁殖してきたのは、宗教性とか哲学的な何かを獲得したからで、本能を克服するか乗り越える方法を身につけたからなのではないか、と感じるのである。それは、はるか昔、数千年前から始まった、「人殺し」の道徳的抑制ではないだろうか。それは次第に「子殺し」も減じていく結果となり、今のように個体数が膨大に増えることとなったのではないかと思う。強い遺伝子を残す為の冷徹なシステムよりも、はるかに多くの遺伝子を残すことに成功した、とも言えるであろう。例えば、釈迦が「殺すべからず」ということを、野蛮で無知な人々に教えてあげたり、十戒で示されたように殺生を禁じたりすることで、人間の作り上げた全く新たな人工的システム(=今の社会、世の中全般かな)が自然の厳しい選択システムを上回った、ということなのかもしれない。
これも一つの進化の過程なのかもしれないが、逆に繁栄を謳歌した恐竜の如く破滅に向かって進んでいるのかもしれない。それはもっと長い時間が経過しなければ、判らないことなのであるが。