いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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大衆は何に対峙しているのか(追記後)

2006年07月02日 18時42分34秒 | 社会全般
今日の読売朝刊には、例の「地球を読む」欄があったのですが、筆者は岡崎久彦氏でした。ちょっとお怒りのご様子。なので、取り上げることにしました(笑)。


中身については、読売新聞を読んで頂ければと思いますが、非常に大雑把に言うと、岡崎氏にとっては「テレビは何をやっているんだ!」というようなことです。不愉快な番組が多いようです(笑)。特に、『一つの局だけに顕著な傾向』との指摘もありますし。


見出しとしては、タイトルが『戦後平等主義の悪弊』、サブが『空虚な「激論」番組』と、『「高視聴率のシナリオ」空回り』というもので、明確なテレビというメディア批判になっています。内容としては、やや無理な記述とも受け取れましたが、気持ちは判らないでもございませんでした。


酷い番組作りの裏側を嘆いて、『精神的頽廃である』と訴えた後に続けた、「アメリカの視聴者はいいよなあ」的記述は、ちょっと疑問でした。
『アメリカの視聴者が得る情報の質と量に比べて、日本の視聴者のそれは比較にならないほど貧弱』
『日本人の視聴者の教養の蓄積がアメリカ人に劣っているであろうことは明々白々』

こんなにアメリカ讃辞を連発しなくてもいいのではないかと思いました(笑)。確かにアメリカにおける一定以上の階層の人たちは、いい番組を観ることで教養蓄積に役立っているのかもしれませんが、アメリカ人の中では「国外事情には全くの無関心」とか「平均的な日本人以下の知識しかない人たち」は決して少なくないでしょう。典型的なのは、例えば「日本の場所が何処にあるか」とか、「イラク派遣に協力した国のうち、イギリス以外にどこがあるか」というような簡単な質問にさえ答えられない人々は結構いるでしょう。それに、日本が自衛隊を派遣していることを知っているアメリカ人を探す方が難しいのでは、と思います。なので、「番組のつくり」自体が、その国の知的水準を正確に反映するかどうかは不明ではないかと思います。


そうは言っても、やはり「酷い番組」というのはやっぱりありますし、ネット上でもよく非難されているのを見かけます。私も何度か批判したりしましたし。別にアメリカと比べてみなくてもいいし、劣っているとかの判断は別として、「いい番組」というのを提供するのは、テレビ番組製作側の責任であると思います。「ホリエモン」騒動の時に散々メディア自身が「メディアは社会の公器」とか言っていたのですから、その通りに実行するべきでしょう。ですが、岡崎氏の言いたいことは判りますが、実際にテレビ局を経営することというのは難しい面があると思います。


岡崎氏の言うように、高尚な、まるで政治学とか国際政治学とかの授業のような番組であるとすれば、勉強にもなりますし教養蓄積には役立つと思いますが、恐らく殆ど誰も観ないでしょう。観る人がいたとしても、極々少数でありましょう。大衆の多くはそういうものを求めてはいないのです。そもそもテレビを観ることで、そういう情報を得たいと思っている人は多分ほとんどいなくて、専門的な知識を得ようとか教養に役立てようと考えるような人は逆にテレビを利用しようとは考えないのではないかと。つまり、有益な情報を求める人はテレビよりも本などの別な媒体を利用するし、テレビを利用する人たちの多くは岡崎氏の言うような番組を求めたりしないのです。そうなると、いかに「もっと高尚ないい番組を」と思っていても、誰も観てくれないのなら「打ち切り」となってしまうのは、ある意味仕方がないことなのです。そういう面では、NHKはもっとガンバレ、ということになりますが、そのNHKを観たがらないので、いくら気張ってみても大衆には届かないのではないかと思います。


やはり、視聴者にうまく届くような方法で番組を作るしかなく、割と長く続いている報道番組とかにある程度頑張ってもらうしかないのでは、と思います。昔は報道番組と言っても、「ニュース原稿を読む」ということが専ら行われていたので、今とは随分違っていたと思いますね。現在の番組で問題なのは、岡崎氏の指摘する通り、「シナリオ」があたかも「事実」というような誤解を与えるように作られたりしている、ということでしょう。また、いい加減な話者が多数出演するので、もしも番組で討論機会があるのであれば、それを完全論破するしかないのではないかと思います。岡崎氏ご自身も、短い言葉の中に、決定的に否定する表現を入れる訓練が必要なのかもしれません(笑、具体的に言えば「ああ、○○さんの認識は完全な誤りですね」とか。面と向かって言った場合には、強烈!ですね。もうちょっとソフトに言うなら「○○さんの仰るのはよく判るんですけど、問題の核心とは言えないですね。~~という判断が妥当ですね」みたいな感じでしょうか)。他の出演者をあんまり厳しく否定したら、次からは呼んでくれなくなっちゃうかもしれません。


このようなテレビの状況を生み出した背景には、何が考えられるのか、ということについて、岡崎氏は次のように述べている。


『戦後の平等主義、アンチ・エリート主義が深く浸透して、識者の意見など聞かない、あるいは識者というものの存在自体を認めていない風潮があるのではないかと思うに至っている。』

『おそらく戦後日本の悪平等思想があるのであろう。私は戦後の平等思想の背後には、左翼の影響だけでなく戦時中の軍の思想の残滓があると思っている。「組織でやるんだよ。お前だけ特別な人間と思うなよ」。これは軍隊経験のある人たちの口癖であった。そのお陰で識見のある人一人でやれば良いところを、何人、何十人の組織でやろうとするから、カラ廻りするのである。』


このように、平等思想(それも、「悪い方」の)浸透が、「識者の意見を聞かない」とか「識者の存在を認めない」という事態を生んでいるのだ、と。アンチ・エリート主義は、多くの人々が「エリートに成りたがる」クセに(笑)、そこから漏れてしまい自分がエリートに成れなかった者たちの妬みというか反感として顕在化しているのかもしれない。平等思想の淵源を辿れば、戦時中に蔓延していたと思われる突出したエリートの存在を認めない傾向に発しているのではないか、という、平たく言えば「出る杭は打たれる」的なものと岡崎氏は推測している。


なるほど、アンチ・エリート主義は軍隊時代から育まれてきたのだ、と。こうした対立構図は、宮台氏が書いていた記事を思い起こすと、丸山眞男の提示した「インテリ・亜インテリ・大衆」という三元図式と重なるようにも思える。

アンチ・リベラル的バックラッシュ現象の背景【追加】 - MIYADAIcom Blog

テレビに登場する―少なくとも岡崎氏が思わず眉をひそめるような―亜インテリというのは、きっと多いのであろう。そのことが、何よりも我慢ならない、という意味なのではないかと思う。インテリにとってみれば、亜インテリは邪魔な存在というばかりか、害悪を撒き散らす分だけ一般大衆よりも手に負えないというか、もっと悪い存在である、ということなんだろう。時には(アンチ・エリート主義を掲げて?)インテリに敢然と挑戦してくることも、亜インテリの存在は、インテリにとっては知識人vs大衆の2元的対立構図より度し難しということだ(今ふうに言えば「ウザイ」)。


現在の対立構図は、3元図式において、インテリ、大衆というのが構成の一部なのであるが、実はもう一つの「亜インテリ」というのは、「メディアそのもの」かそこに棲息している「インテリもどき」ということなのではないか。ネットの世界の中では、メディアへの批判というのが普通に観察されるのであるが、まさにこのような3元図式を形作っているように思える。


ネット世界のありがちなものとしては、「ソース主義」的(そんな主義があるのかよ、とか突っ込まないでね)な部分がある。それは、別な言い方をすれば、「専門家」の意見には相当程度の信頼性というのが存在する、ということでもある。勿論、評価・解釈の分かれるものについては、無条件な受け入れというのは少ないかもしれないが、それでも一般人よりも「信頼性の高い専門家」の意見は、概ね採用されやすいように思える。それ故、学者や著名人のソースが持ち出されることが多いように感じている。


メディアというのは、テレビであったり、新聞・雑誌等であったりするのであるが、そこで提示される意見というものに対しては、批判というのが観察されやすい。それは製作側や、新聞記者などへの批判として、「大衆」側から提示されてくるのである。つまり、インテリと大衆との間には、実はメディアが介在しており、そこにはメディアと大衆との対立が含まれているのである。ネットに関心の低いような層の人々はかなり多いのであるが、その人々が必ずしもメディアに信頼を寄せているかというと、そうでもないと思える。それは、例えばテレビへの抗議の電話などをする人々というのが、ネットを利用していないことが多いのではないかと考えるからだ。通常、ネット利用者の多くは、テレビそのものをあまり見ないか、見ていても抗議は電話などしたりせずメールや掲示板などに書くことが多いと思われ、実際に電話する人というのが割りと「希少種」のように語られていると思う。メディアに動員されてしまう人々、というのは確かに存在していると思うが、そういう人ばかりではない、と思う。


要するに、メディアは大衆に働きかけ動員しようとする(高視聴率達成ということもその一部であるかもしれない)のだが、それは真のインテリ層への挑戦であり、専門家叩きという側面を合わせ持つような気がするのである。動員力の大きさをメディア側が感じ取ると、それが権力としての作用を示すのではないか(責任追及とか、何かのバッシングの時に顕著になりがち?)。一方で、メディアは大衆との対立を生んだりすることもあり、特にネット世界では大衆側の「的」として餌食となりやすい(笑)。「亜インテリ」であるが故に、メッキが剥がれてしまうことがあって、見破られやすいのであろうか。テレビや論壇誌などに登場する「亜インテリ」も、メディアの作戦に加担しているのであり、実質的にはメディアの一部のようなものであろう。インテリはこうしたメディアや大衆を相手にしなければならず、どちらからも叩かれる(笑)。多分、メディアに動員されてしまう人々は、インテリと「亜インテリ」の違いなどには気がつかないし、むしろ「有名な(テレビなどで顔や名前知られてる)亜インテリ」の方が偉いとか正しいという錯覚を抱くかもしれない。


特に日本では特徴的と思われることがあるようである。
宮台氏は次のように表現している。
『簡単に言えば、日本では欧州にあるような意味での知識人へのリスペクトが、ない。』

このことは、岡崎氏の指摘した『識者の存在を認めていない風潮』と一致しているように思える。こうして、インテリは「大衆」と「亜インテリ」との戦いを強いられ、その中で衰弱しつつあるかもしれない。岡崎氏の嘆きは理解できるが、残念ながら私には同情することくらいしかできないのである。インテリ層の人々が自らその打開策を見つけ出し、実行してもらう以外にないのである。