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司法の品質管理を問う~2の弐

2007年06月02日 17時25分24秒 | 法関係
前の続きです。


2)医療と司法の違い


医療において、患者側の不確実な要因とか、医療側の個性・判断の個人差などということがあるとしても、これを患者側に強要しているわけではないです。基本的に強制力は働かないので、別な医師とか治療法を選択したりできます。患者が自意で医療側の行為を拒否することも、実施も選べます。更には、一定の範囲において、結果について「期待権」を有しており、その結果責任を問うこともできます。

医療においては、

a)選択権:患者が医療者を自由に選べる
b)採否権:医療行為や内容について採用か拒否を決められる
c)期待権:一定水準以上の結果を求めることができる

というものが、患者側にあると思います。では、司法ではどうなのか考えてみます。


a)選択権:

刑事、民事事件を問わず、弁護士のみを選択することはできますが、検察官や裁判官を自由意思によって決定することはできません。弁護士は代理人ということでありますが、いなくても裁判を行うことさえ可能であります。喩えて言うと、患者=容疑者(被告)、付き添いの人(家族とか)=弁護士、医療者=司法の人(検察、裁判官)ということで、被告側からは検察官や裁判官の指名とか任免というような権限はありません。患者であるなら、「この医師がいい」という具合に指名(決定)することが許されます。

この選択権がない、ということはどういうことかといえば、基本的には「どの検察官、裁判官においても、均質に司法が提供される」ということを意味するものと思います。国民は国家に対して、権限の一部を与えるので、国家がその代理ともいうべき権力を保有していると思います。その権力には、検察に与えられた権力とか、裁判所に与えられた権力、といったものがあります。国民が選択できるのは、国会議員ですが、権力の預け先を見ると、次のようなものと思います。

国民→国会議員→内閣→大臣→行政職員

国民には、行政職員に対して選択権がありません。例えば、「A職員に住民票の移動届けを出したくない」とか「A職員に税務調査をしてもらいたくない」とか、選べません。勿論、任免権もありません。国民は、行政職員の任免する権限も含め、決定権限を行政府に委譲している、ということだと思います。国会議員に権利を移す→国会議員がその権利を用いて内閣や大臣を決める→それら大臣は下級職員の任免権や決定権限を有する、ということだろうと思います。行政職員に重大な問題があって、それを解決せよ、ということを強く求めるのであれば、国会議員に対する選挙権でしか権利行使ができません。
ですので、法律の条文では「内閣総理大臣は~できる」とか、「○○大臣は~できる」といった形になっており、下級職員は上司の命令に従って事務を遂行するのみ、ということです。形式上、末端の行政職員が権力行使の形を取っているのは、大臣など省庁の長の権限が末端の全職員に分けられており、これは「大臣本人がやったこと」と同一であることが前提になると思います。出生届を受理できない、とかも、大臣が全件決裁しているわけではないのではないかと。

<ちょっと寄り道:
何かの判決で、大臣決済がないとダメだ、とか何とかの判決があったように思うのですが、内容とか忘れた。でも、下級職員が末端レベルで決めた処分というのは、省庁の長が決定したのと同等でないと、ありとあらゆるものを全部「大臣決済」ということにせねばならず、長になる人はハンコを押すだけで死んでしまうのでは?(笑)
どこかの地裁判決だったと思うのですが、あれって、本当に正しいのかな?と疑問に思ったんですよね。>

国民は検事、副検事などを選べません。検事総長も選べません。検事総長、検事長、次長検事は内閣、その他検事は法務大臣にその権限が委譲されています。個々の検事等が行うことは、基本的には検事総長と同質でなければなりません。検事総長は全ての検察庁職員の指揮監督権を有しているのであり、末端の検察庁職員が行うことは検事総長が行っていることと同じ意味を持つと思います。個々の検察官が行う権限の元を辿れば、検事総長からその権限の一部を分け与えられているだけに過ぎないのではないでしょうか(検事総長を統制することは内閣にその権限が与えられ、国民が間接的にコントロールすることを可能にしている、ということかと)。

これを、個々の行政職員の違い―個性とか信条とか能力差のようなもの―で、判断や処分が異なるということになれば、問題であると思います。東京と大阪で判断が異なってしまう、などということが起こるのは、元来おかしいはずです。法律は同一ですので(条例のように、地域によって適用が異なるものもあるが)。「行政職員の処分が異なる」というのは、喩えて言えば、「認可申請」を行うと、東京では認可され沖縄や北海道では認可されない、といった違いを生じてしまう、ということになってしまいます。

国民が個々の検事を選択できないということは、同質性が高いレベルで求められるということであり、地域とか担当者といったことによる違いというものは元来存在し得ない、ということを前提としているシステムであると思います。

裁判所も同じく、最高裁判事を国民審査で拒否する権限だけがあります。最高裁長官と最高裁判事は内閣にその任命権が与えられており、間接的コントロールができるだけです。下級裁判事も内閣に任命権があります。弾劾裁判はありますが、実質的には発動されること滅多に有り得ないです。これら決定システムは、裁判官の個性を許容する範囲を広げるものではなく、検察官同様に「同質性」というものを高いレベルで実現しているであろうことを前提としていると思うのです。上級審の判断が下級審を拘束することから、最高裁判事と同じく裁判を行うことが、本来必要であろうと思います。下級審であっても、最高裁判事が裁判を行っているのと同等であるならば、最高裁判事を国民審査で拒否する意味があるものと思います。

もしも個々の裁判官での違いが大きい場合には、「下級審で判断してもらっても当てにならない」という信頼性の低い状態を生じ、「全件最高裁に訊いてみなくちゃ判らない」ということになってしまうのではないでしょうか。最高裁での判断が下級審と同じかほぼ近いものであるなら、下級裁判所が最高裁の分身のような形となるので、多数の事件を同時に処理できることになります。

山口県の母子殺害事件のような「死刑か否か」という問題であると、判断が分かれてしまうことが有り得るだろうと思います。そこには、何かの数式とか命題のようなものがある訳ではないからです。そのような価値判断の分かれるような問題があるのと、裁判所判断が頻繁に変わるというのとは異なるものであると思います。

b)採否権:

容疑者が「検事の取調べのやり方が不満であるので、取調べを拒否します」とかの権利を持つ訳ではありません。「もっとベテランの検事にしてくれ」とか「『国家の罠』の著者を担当した検事さんにしてチョ」とかも要求できません。前述した通り、どの検事であっても同じ仕事内容で同じレベルである、ということが前提であろうと思うからです。裁判においても、「この裁判官は嫌いなので、別な人に変えてくれ」とか拒否できません。「法廷指揮が疑問だから、違う進行方法を採用しろ、さもなくば裁判長を変えろ」とかも求めることができません。

こうした選択権の附与されないものについて、個々の事例毎に違いが大きいということになれば、不公平・不平等であるといった不満が出されても止むを得ないのではないかと思われます。司法システムとして、「差が極めて小さい」というシステムを提供するのは、司法権力側のするべきことであって、受ける側の努力が必要なものではありません。ある事例について、検事Aと検事Bでは処分に違いがないとか、裁判官Aと裁判官Bでも判断に違いがない、ということは、国家権力の機構において守られるべきことなのではないのかな、と。東京にいる社保庁職員でも沖縄にいる職員でも、同一事例について「年金受給要件を満たしていません」と同じ判断をする、ということと同じようなものであると思います。これが毎回変わってしまうというのは、許容されないでありましょう。

c)期待権

医療の場合には、結果について責任を問えることになっていますが、裁判についてはそれが不可能です。これまでの判例から「きっと執行猶予になるだろう」と期待(笑)していても、懲役の実刑であることは有り得ます。期待と異なる結果であるからといって、検察庁や裁判所が過失を問われたりすることはありません。行政側の処分については、期待がどうというような判断は関係ありません。当事者、遺族やその他関係者とかが、「危険運転致死罪で起訴して欲しい」とか「何でもいいので必ず起訴してくれ」とか希望してみても、不起訴処分となったからとて過失責任を問われたりはしません。刑事事件で起訴されて無罪が確定しても、容疑者となっていた人が起訴した検事を個別に訴えることはできないでしょう。検察審査会で起訴相当とか不起訴不当というような意見が出されても、判断した検事の過失を問われたりしませんし、それを理由として訴えられることもありません。同じく、裁判の上級審で逆転判決が出た場合、下級審の裁判官に過失があったとして訴えられることはありません。判決文に誤りがあるとか、量刑に間違いがあっても、過失として訴えられることはありません。

審査制度は別に存在するのであって、個別の検察官や裁判官について「裁判で処罰する」というシステムとはなっていません。期待に反するからということも、無関係なことです。


以上のことから、医療における個別の違いとか医師の判断の違いというものは、司法において同列に考えたり適用できるというものではないように思います。


もうちょっと追加です。

大臣権限の下級職員への委任関係ですけれども、全部規定されている訳ではないかもしれませんが、規定のあるものはあります。

◇例1:公認会計士法

第三十条
 公認会計士が、故意に、虚偽、錯誤又は脱漏のある財務書類を虚偽、錯誤及び脱漏のないものとして証明した場合には、内閣総理大臣は、二年以内の業務の停止又は登録の抹消の処分をすることができる。
2 公認会計士が、相当の注意を怠り、重大な虚偽、錯誤又は脱漏のある財務書類を重大な虚偽、錯誤及び脱漏のないものとして証明した場合には、内閣総理大臣は、戒告又は二年以内の業務の停止の処分をすることができる。
3 監査法人が虚偽、錯誤又は脱漏のある財務書類を虚偽、錯誤及び脱漏のないものとして証明した場合において、当該証明に係る業務を執行した社員である公認会計士に故意又は相当の注意を怠つた事実があるときは、当該公認会計士について前二項の規定を準用する。

第四十九条の三  
 内閣総理大臣は、公益又は投資者保護のため必要かつ適当であると認めるときは、第二条第一項又は第二項の業務に関し、公認会計士、外国公認会計士又は監査法人に対し、報告又は資料の提出を求めることができる。
2  内閣総理大臣は、公益又は投資者保護のため必要かつ適当であると認めるときは、第二条第一項の業務に関し、当該職員に公認会計士、外国公認会計士又は監査法人の事務所その他その業務に関係のある場所に立ち入り、その業務に関係のある帳簿書類その他の物件を検査させることができる。
3  前項の規定により立入検査をしようとする職員は、その身分を示す証票を携帯し、関係人の請求があつたときは、これを提示しなければならない。
4  第二項の規定による立入検査の権限は、犯罪捜査のために認められたものと解してはならない。

この2つの条文を見れば判るように、権限は元来内閣総理大臣にありますが、現実には金融庁でやっているのですね。で、その権限の委任関係はどうなっているかというと、次の条文に規定されています。


第四十九条の四  
 内閣総理大臣は、この法律による権限(政令で定めるものを除く。)を金融庁長官に委任する。
2  金融庁長官は、前項の規定により委任された権限のうち、第四十六条の九の二第二項の規定による報告の受理に関する事務並びに第四十六条の十二第一項並びに前条第一項及び第二項の規定による権限(第四十六条の九の二第二項の報告に関して行われるものに限る。)を審査会に委任する。
3  金融庁長官は、政令で定めるところにより、第一項の規定により委任された権限(前項の規定により審査会に委任されたものを除く。)の一部を財務局長又は財務支局長に委任することができる。
4  審査会は、政令で定めるところにより、公認会計士試験の実施に関する事務の一部を財務局長又は財務支局長に委任することができる。

つまり、内閣総理大臣→金融庁長官→一部は審査会、一部は財務局長又は財務支局長、ということになっています。勿論局長は更に下級職員に対して命令をしますから、実質的には末端の職員が権限行使を行いますけれども、最終的な決済とか責任所在は個々の末端職員にある訳ではなくて局長とか金融庁長官にあることになります。行政事件の裁判となれば被告になるのは金融庁長官であって内閣総理大臣ではないでしょう、多分。下級職員である金融庁長官の任免権は国民には与えられていませんが、間接的に内閣総理大臣を通じてコントロールする、という形式になっていると思います。金融庁職員は、「金融庁長官」(とか、財務局長とか財務支局長とか)の言うなれば分身のようなもので、金融庁長官と同質でなければならないはずでありましょう。そうでなければ、法に基づいて事務を執行するのが金融庁長官なのですから、各金融庁職員の個性や判断の違いなどということは本来許容されてはいないでありましょう。行政職員というものは、そういうものなのではないでしょうか。


◇例2:国民年金法

第五条の二  
 この法律に規定する社会保険庁長官の権限の一部は、政令の定めるところにより、地方社会保険事務局長に委任することができる。
2  前項の規定により地方社会保険事務局長に委任された権限の全部又は一部は、政令の定めるところにより、社会保険事務所長に委任することができる。

このように権限が下級職員に委任されています。
因みに、国民年金の管掌は「政府」となっており、特定大臣の権限は出ていません。ですが、条文中では社会保険庁長官が権限を持っていることになっているので、ある種の独立王国みたいな感じです。

参考として、別な法令を見ると、次のようなものもあります。

厚生労働省組織規則
(平成十三年一月六日厚生労働省令第一号)

(組織の細目)
第八百八十一条
 この省令に定めるもののほか、事務分掌その他組織の細目は、各施設等機関及び各地方支分部局の長が、厚生労働大臣(社会保険大学校、社会保険業務センター及び地方社会保険事務局については社会保険庁長官)の承認を受けて定める。ただし、厚生労働大臣の指定する施設等機関について、当該施設等機関の長が厚生労働大臣の定める基準に基づき、事務分掌その他組織の細目を定める場合は、承認を経ることを要しないものとする。

このように、厚生労働大臣の承認を受けなくともよい範囲があるので、国民年金に関しては基本的に「厚生労働大臣」権限というものはなく、社会保険庁長官の権限が強力であると思われます(これは法改正によってそうなってしまったのかな?昔は厚生大臣に権限があったのかな?)。

今話題になっている、年金不払いですけれども、末端職員が「払えません」と答えているのは、社会保険庁長官の決済とか、それ以下の権限委任先である地方社会保険事務局長や社会保険事務所長なんかの(似たような組織の長の肩書きが沢山あるんだね、笑)決済を受けて、「払いません」という決定を行っているはずなんですよね。国民年金法の条文中では、次のようになっています。

第十四条  
社会保険庁長官は、国民年金原簿を備え、これに被保険者の氏名、資格の取得及び喪失、種別の変更、保険料の納付状況その他厚生労働省令で定める事項を記録するものとする。

第十六条
給付を受ける権利は、その権利を有する者(以下「受給権者」という。)の請求に基いて、社会保険庁長官が裁定する。

なので、厚生労働大臣の責任が云々というのは、ちょっと的外れなのではなかろうかとも思ったりしますが、昔の省庁再編前の法律ではどうだったか判りません。原簿のミスは長官に責任があるものと思いますけどね。
以前は社保庁長官ではなく厚生大臣に権限があったのなら、厚生大臣に責任があるでしょうけど。厚生大臣は社会保険庁長官の任免権を持つので、それが責任問題なのでしょうか?まあ、これは今の話題には関係ないので、別にいいけど。


大事なのは、末端職員が「あなたには年金給付額はこれだけです」とか「給付できません」とか答えているのは、社保庁長官がそう答えるのと同等ということであって、その判断とか処分は極めて同質性が高くなっていなければならない、ということです。行政側が権力を行使するということは、個々の職員において個別に違いがあってもらっては困る、というのが基本であろうということです。



司法の品質管理を問う~2の壱

2007年06月02日 17時23分03秒 | 法関係
いつも拝見しているモトケン先生のブログですが、ご不満に思われていることがあるようです。

元検弁護士のつぶやき 一部の医師に一言いいたいcommentscomments

(以下に敢えて全文を掲載させて頂きます)

医療側の皆さんはこぞって言います。

 同じ病名でも患者によってその症状や治療方法は必ずしも同じでない
 同じ患者に対する治療方針についても医師によって判断は異なる

 これに異を唱える医師はいないと思われます。
 そしてこのブログの常連法曹もそのことを理解していると思います。
 少なくとも私は異を唱えるつもりはありません。

 法曹が本来的に扱っている法律紛争も同じだからです。
 最近コメントしましたが、法律上の争点が同じ事件でも、人(当事者だけでなく弁護士・検事・裁判官を含みます)が変われば解決方針が異なってくるのを身に染みてわかってますから、医療においても患者の個体差や医師の考え方の違いで当然治療内容は異なってくることは容易にわかります。

 しかし、一部の医師は、医療については個別判断の重要性と必要性を声高に主張するにもかかわらず、司法については個々の事件の特殊性や法曹の個性を一切無視した発言をします。

 大野病院事件を元にして、司法は検察はと言っていた医師は、富士見産婦人科病院事件における浦和地検の不起訴処分を見てどう思うのでしょうか?

 あえて名指しはしませんが、一部の医師の方については自らのダブルスタンダードを自覚していただきたいと思います。



確かにお気持ちは判らないではありません。これまで医療側の立場を考え、理解を示してこられたのに、司法側(特に裁判官や検察官)への批判ばかりが出されるわけですから、嫌気が差しても不思議ではありません。お察し申し上げる次第です。
とか言いながら、かくいう私も、「司法の「品質管理」を問う」とか、「Terror of jurisdiction ― 司法権力が医療崩壊を加速する」とか、書いてきたので批判的立場という点では同じなのですけれども。唯一モトケン先生のご指摘と異なっていることは医師ではない、ということだけです。「検察」とか「裁判所」とか、ひと括りで批判しています。申し訳なく思う部分はありますが、批判しなくても安心できる司法制度であるとも考えていないのは正直な気持ちであります。

そのような批判は妥当ではないという意見はごく標準的なものであると思いますので、仰るのも判るな、と私も考えますが、気持ちを理解できることと批判は別であると考えていますので、いくつか意見を述べておきたいと思います。法学的な用語とか考え方等については、何らの知識も有しておりませんので誤りは多々あろうかと思いますが、それでも、敢えて書いておきます。


1)司法に許される裁量とは

モトケン先生は(主に医療側が)『司法については個々の事件の特殊性や法曹の個性を一切無視した発言をします。』と指摘されており、『法律上の争点が同じ事件でも、人(当事者だけでなく弁護士・検事・裁判官を含みます)が変われば解決方針が異なってくるのを身に染みてわかってますから、医療においても患者の個体差や医師の考え方の違いで当然治療内容は異なってくることは容易にわかります。』とも述べておられます。これに異を唱える積もりはありませんし、不確実な部分が多く含まれている、ということで、紛争解決などに結びつくのであれば良い面もあるのかもしれません。でも、許容されざる部分というのがあると思うので、それについて書いてみます。

・刑事事件について

例えば同一行為について、東京では傷害罪が成立しないけれど、大阪では成立するといった違いが許容されるのか、ということがあります。これを「検察官が違うから」とか「裁判官が違っているから」などという曖昧な理由を基にして、違った判断が許されていいということにはならないのではないかと思います。刑事裁判において、基本的には法曹の個性などという主張は問題があるのではなかろうかと思われます。量刑判断において、ある裁判官は懲役3年、別な裁判官は懲役5年という違いが生じる可能性というのはあるでしょう。それは「個々の事例に応じて」判断されるべきことであるので、判断が分かれるという理屈ならば理解できます。

しかし、「刑事責任」の成立か不成立かということについて、個々の法曹の個性を反映されては困るのは当然です。司法制度そのものの恣意性を広く認めろ、ということなのでしょうか。医療(行為)などと決定的に違うことは、検察も裁判所も「権力の行使」であるのであって、適用される側(容疑者側)には選択の自由もなければ自分の意志によって避けることもできないものである、ということです。医療においては、受ける側に自由に回避したり拒否したりする権利を持ちますが、刑事裁判では受ける側にそのような権利は持ちません。適用する側に、一方的な権力行使の権限が附与されている、ということです。そういう危険な権力であるが故に、行使する側(警察や検察側)に厳密な手続などを課されている、ということなんだろう、と思っておりました。

そうであるなら、例えば検察官の個性とか恣意性などというものを認めることは、そもそも問題なのではないかと思えます。犯罪として成立しているかどうか、という理屈は、ある一定の「法学的理論」に基づくものでなければならないはずであり、それは一人の検察官だけに通用する理論などではなく、「圧倒的大多数の法曹」に通じる理論でなければならないでしょうし、それは法曹以外の一般人が認識可能なレベルのものであるはずです。法律を詳しく知らなかったとしても、普通の人が考えれば「回避可能な水準」ということです。適用される理屈というものが、誰が聞いても明瞭に理解できるのが当然なのであって、多くの人々が理解できず特定の検察官にしか思いつかないような理屈で刑罰を与えられる可能性があるとすれば、危険なのではないかと思います。

◎強制力が働く権力行使なので、曖昧であることの方が危険であり、法曹の個性などは排除されるべきではないか
◎適用される理屈というものは簡明平易なものであるべきで、一般人においても容易に理解可能なものであるべきではないか
◎量刑判断においては、個別の事例に応じて斟酌するべき諸般の事情等で多少変わることも有り得るが、大筋としては法曹のみならず国民全般にも一定の合意がある必要があるのではないか(例えば死刑適用の基準とか)

・民事事件

テレビの「行列~」なんかで判断が分かれたり食い違うことの方が大多数であるので、これが「個々の事例の違い」とか「法曹の個性」といったものの一部なのではないかと思えます。主に「苦痛に感じた」とか「恥ずかしい思いをさせられた」というような、定量化・数値化が困難な部分を判断せねばならなかったりするので、違いを生むということはあるのだろうな、と思います。医療において、「痛み」を正確に測れないのと似ています。限度(限界?)・境界線というものの基準とか、元々曖昧なものの区分けを行うことには、曖昧さが多く残されるものであろうと思います。

判断の材料としては、多くが研究などによって理論が確立されていないものであるため、判断に違いを生じえることは理解できます。そうではあっても、判例などの研究によって、一定範囲に収束していくべきものであると考えられます。それを行えるのは、司法側の人々であり、特に裁判官たちの考え方が変わるとかまとまっていくということにならなければ、国民の側から「変えさせる有効な手段」というものは持ち得ないでありましょう。

◎主に「価値判断」などの、理論化されていない事柄を取り扱うので、判決に個別の違いを生じ得る
◎司法の判断基準は国民の側からは変えさせることができない


長くなったので、分割して次に。