しつこいようですが、もうちょっと続けます。これも叱咤激励と言いますか、応援の1つと思って頂ければ、と(笑)。
また、いつものヘンな例で申し訳ありませんが、考えてみたいと思います。
ここに、ある材質でできた棒があるとします。この棒についての情報は、研究によって次の2つが判明しているものとします。
①5千回使用すると、1%が折れる
②1万回使用すると、30%が折れる
医療裁判においては、こうした①や②のような基礎的情報が研究とか学問という形で、獲得されている領域について問題とされることが多いでありましょう。ところが、他の多くの裁判においては、こうした基礎的情報が得られていないものが多いのではないかと思います(印象論ですけど)。例えば、「○○という名誉毀損によって、社会的評価が~%低下する」とか、明確には判らないでしょう。「一般に、○○という言葉を受けた場合の、苦痛・不快指数は~%であるから、○○という言葉を言ったとしてもセクハラにはならない」とか。殆どの裁判においては、誰にも正確に判らない事柄を扱い、紛争化してしまったものを何らかの答えを導き出し解決せねばならないということなので、裁判官の良心、価値観等の何らかの尺度が異なる為、最終的な判断の違いというものを生じてしまう可能性は出てくるでありましょう。
元の話に戻ります。
上記棒は、川下り船の船頭が使用する竿であるとしましょう。
ある時、船頭の使用していた棒が折れ、船はコントロールを失って流され岩場に激突してしまったとしましょう。この時の過失がどうなるかを考えてみます。
棒を購入したのが4年前で、毎日使用していたとしても最大1460回であるなら、5千回以内の使用が明らかとなります。この時、条件①に従って、折れる可能性は1%以下であるなら「折れる危険性」は予見し得なかった、予見することは極めて困難であった、と考えられましょう。であれば、船をコントロールする竿である棒が折れたことをもって船頭の過失を問うことは妥当とは言えないのではないか、ということが考えられます。ですが、「棒(竿)は折れる可能性があるものである」というのは、誰でも予見できるものでありましょう。危険性の存在を認識できたとしても、その可能性が極めて小さいという時、求められる注意義務というのがどのレベルであるのが望ましいか、というのは数字ではなくて価値判断になります。ここに「裁判官の個性、個別の違い」というものを生じるのです。
医療行為に置き換えてみると、例えば何かの手術において大量出血が起こり得ること(=棒が折れること)の予見性はあるわけです。この発生確率が1万回に5回以下の程度である時、棒が折れないように注意せねば過失を問われるのか、ということです。医療裁判における要求水準では、「棒が折れた(=大量出血した)ことは過失」と認定されている、ということです。刑法上の過失を問われる、ということです。
少し条件を変えて、棒の使用回数が5千回を超えていたものとしましょう。回数不明であるが、5千~1万回の間のどこかであるということが判ったものとします。すると、折れる可能性というのは、1~30%の間のどこかになるでしょうけれども、明確には判りません。これが裁判になれば、「棒はいつでも取り替えられたはずだから、5千回を超える使用であれば義務違反」と認定される、ということです。棒を交換するのは運営上困難であるとしても(現実にはお金がかかるので)、取り替えろ」と要求されることになります。そのコストを転嫁することができない制度になっている(医療保険制度ではそうです)のに、です。
判決で求められるのは、「5千回を超えるのであれば、500回毎に耐久テストを行って折れる危険性を防ぐ、といった防止策をとるべき」とか、「折れる試験を別に(行政が)行って、もしも10%が折れる回数が判明すれば、その回数以上のものは交換とするべき」とか、そういう具体的な指摘が必要なのではないでしょうか。社会的に実現可能なものであるか、行政施策上で変えるべきであるなら行政にそれを求めるべきで、「折れる危険性のない新品の棒は存在している」ということをもって「古い棒を使用していたことが過失」と認定するのは、現実の医療制度上では大変厳しいのです。
折れた棒が、物干し竿とか調理用の箸であるならば、「与える(生命身体への)影響」の大きさが船頭の竿とは異なるので、棒が折れることに対する求められるべき基準が異なる、という考え方は理解できます。物干し竿や調理用箸であれば、それほど厳密な基準によって折れることの防止策を実施する必要性がないということで、「折れるまで使用してよい」とか「条件②に従って、1万回を目処に交換するのが望ましい」とか判断することがあるかもしれません。棒が、ジェットコースターの車軸のような重大部品なのであれば、もっと厳密な水準を求め「5千回以上の使用は許されない、たとえ5千回未満であっても定期点検は行うべし」といった要件を課すことがあったとしても、不思議ではないでしょう。まさしく「個別の事例」によるものであると思います。求める水準というのは、「確立された理論」でもなければ、具体的な研究によって明らかにできるものとは限らないからです。そういう違いがあるということならば、普通の社会であっても理解され得るでしょう。
そうではなくて、判決がオカシイのではないかと感じるのは、次のような場合です。
7千回使用していた船頭の棒(竿)が折れて、この過失を考えることになった。判決では、
『条件①と②から、5千回~1万回の折れる確率を考えると、千回当たり5.8%増加し、6千回では約6.8%、7千回では約12.6%、8千回では18.4%が折れることになる。従って7千回で棒を交換しておけば、防げたはずである。実際、他の船頭の棒は大多数が折れていないのであるから、使用に問題があったと考えざるを得ず、過失と言える』
というような具合に過失認定を行っている、というようなことです。
何がオカシイのかと言うと、基礎的情報を利用して「過失を考える」にせよ、適用の仕方が間違っていると思うのです。研究では条件①とか②しか判っていないにも関わらず、「7千回では約12.6%が折れる」とかの理論を裁判所が独自に確立してしまうのです。そんなことは判るはずもないのです。判らない理論みたいなものを敢えて出す必要性はないのではないか、ということです。そして、他の船頭の棒が折れていないことをもって、本件の棒が折れることを防げるはずだ、ということにはならないのです。「他が折れていない」「本件では折れている」ということについて、なぜなのかという原因をきちんと考察するべきなのです。ただ、これには被告側主張とか鑑定にも問題があるといったことも関係しているので、裁判所ばかりを非難することはできないのですけれども。
個別の違いとか、法曹の個性とか、そういうのを発揮する以前に、社会的に求められている水準としては、条件①と②から考えられるものとして、「船頭の竿ならば~~」「物干し竿ならばコレコレ」「乗り物の車軸ならホニャララ」といった「具体的要件」を明示するべきでありましょう。それがあれば、裁判官の違いとか何とかの影響を受け難くなるからであります。その要件外の要素については、個別の事例における諸般の事情に応じて、裁判所が判断するべきことでしょう。そういった統一性のようなものが、あまりにも少なく、ばらつきが大きいというのが現状ではないかな、と。ある統一性の範囲の中で、裁判官の良心とか正義に従って判決を出すことには、賛成の立場であります。ダブルスタンダードと言われるかもしれませんが、個人的には大岡越前とか水戸黄門支持派ですので(笑)。
今のような状態で裁判員制度が始まってしまったりしたら、一体全体どうなってしまうのかと不安です。ホリエモン判決で思うことのコメントにも書きましたが、裁判員制度を本当にやっていけるのでしょうか?
また、いつものヘンな例で申し訳ありませんが、考えてみたいと思います。
ここに、ある材質でできた棒があるとします。この棒についての情報は、研究によって次の2つが判明しているものとします。
①5千回使用すると、1%が折れる
②1万回使用すると、30%が折れる
医療裁判においては、こうした①や②のような基礎的情報が研究とか学問という形で、獲得されている領域について問題とされることが多いでありましょう。ところが、他の多くの裁判においては、こうした基礎的情報が得られていないものが多いのではないかと思います(印象論ですけど)。例えば、「○○という名誉毀損によって、社会的評価が~%低下する」とか、明確には判らないでしょう。「一般に、○○という言葉を受けた場合の、苦痛・不快指数は~%であるから、○○という言葉を言ったとしてもセクハラにはならない」とか。殆どの裁判においては、誰にも正確に判らない事柄を扱い、紛争化してしまったものを何らかの答えを導き出し解決せねばならないということなので、裁判官の良心、価値観等の何らかの尺度が異なる為、最終的な判断の違いというものを生じてしまう可能性は出てくるでありましょう。
元の話に戻ります。
上記棒は、川下り船の船頭が使用する竿であるとしましょう。
ある時、船頭の使用していた棒が折れ、船はコントロールを失って流され岩場に激突してしまったとしましょう。この時の過失がどうなるかを考えてみます。
棒を購入したのが4年前で、毎日使用していたとしても最大1460回であるなら、5千回以内の使用が明らかとなります。この時、条件①に従って、折れる可能性は1%以下であるなら「折れる危険性」は予見し得なかった、予見することは極めて困難であった、と考えられましょう。であれば、船をコントロールする竿である棒が折れたことをもって船頭の過失を問うことは妥当とは言えないのではないか、ということが考えられます。ですが、「棒(竿)は折れる可能性があるものである」というのは、誰でも予見できるものでありましょう。危険性の存在を認識できたとしても、その可能性が極めて小さいという時、求められる注意義務というのがどのレベルであるのが望ましいか、というのは数字ではなくて価値判断になります。ここに「裁判官の個性、個別の違い」というものを生じるのです。
医療行為に置き換えてみると、例えば何かの手術において大量出血が起こり得ること(=棒が折れること)の予見性はあるわけです。この発生確率が1万回に5回以下の程度である時、棒が折れないように注意せねば過失を問われるのか、ということです。医療裁判における要求水準では、「棒が折れた(=大量出血した)ことは過失」と認定されている、ということです。刑法上の過失を問われる、ということです。
少し条件を変えて、棒の使用回数が5千回を超えていたものとしましょう。回数不明であるが、5千~1万回の間のどこかであるということが判ったものとします。すると、折れる可能性というのは、1~30%の間のどこかになるでしょうけれども、明確には判りません。これが裁判になれば、「棒はいつでも取り替えられたはずだから、5千回を超える使用であれば義務違反」と認定される、ということです。棒を交換するのは運営上困難であるとしても(現実にはお金がかかるので)、取り替えろ」と要求されることになります。そのコストを転嫁することができない制度になっている(医療保険制度ではそうです)のに、です。
判決で求められるのは、「5千回を超えるのであれば、500回毎に耐久テストを行って折れる危険性を防ぐ、といった防止策をとるべき」とか、「折れる試験を別に(行政が)行って、もしも10%が折れる回数が判明すれば、その回数以上のものは交換とするべき」とか、そういう具体的な指摘が必要なのではないでしょうか。社会的に実現可能なものであるか、行政施策上で変えるべきであるなら行政にそれを求めるべきで、「折れる危険性のない新品の棒は存在している」ということをもって「古い棒を使用していたことが過失」と認定するのは、現実の医療制度上では大変厳しいのです。
折れた棒が、物干し竿とか調理用の箸であるならば、「与える(生命身体への)影響」の大きさが船頭の竿とは異なるので、棒が折れることに対する求められるべき基準が異なる、という考え方は理解できます。物干し竿や調理用箸であれば、それほど厳密な基準によって折れることの防止策を実施する必要性がないということで、「折れるまで使用してよい」とか「条件②に従って、1万回を目処に交換するのが望ましい」とか判断することがあるかもしれません。棒が、ジェットコースターの車軸のような重大部品なのであれば、もっと厳密な水準を求め「5千回以上の使用は許されない、たとえ5千回未満であっても定期点検は行うべし」といった要件を課すことがあったとしても、不思議ではないでしょう。まさしく「個別の事例」によるものであると思います。求める水準というのは、「確立された理論」でもなければ、具体的な研究によって明らかにできるものとは限らないからです。そういう違いがあるということならば、普通の社会であっても理解され得るでしょう。
そうではなくて、判決がオカシイのではないかと感じるのは、次のような場合です。
7千回使用していた船頭の棒(竿)が折れて、この過失を考えることになった。判決では、
『条件①と②から、5千回~1万回の折れる確率を考えると、千回当たり5.8%増加し、6千回では約6.8%、7千回では約12.6%、8千回では18.4%が折れることになる。従って7千回で棒を交換しておけば、防げたはずである。実際、他の船頭の棒は大多数が折れていないのであるから、使用に問題があったと考えざるを得ず、過失と言える』
というような具合に過失認定を行っている、というようなことです。
何がオカシイのかと言うと、基礎的情報を利用して「過失を考える」にせよ、適用の仕方が間違っていると思うのです。研究では条件①とか②しか判っていないにも関わらず、「7千回では約12.6%が折れる」とかの理論を裁判所が独自に確立してしまうのです。そんなことは判るはずもないのです。判らない理論みたいなものを敢えて出す必要性はないのではないか、ということです。そして、他の船頭の棒が折れていないことをもって、本件の棒が折れることを防げるはずだ、ということにはならないのです。「他が折れていない」「本件では折れている」ということについて、なぜなのかという原因をきちんと考察するべきなのです。ただ、これには被告側主張とか鑑定にも問題があるといったことも関係しているので、裁判所ばかりを非難することはできないのですけれども。
個別の違いとか、法曹の個性とか、そういうのを発揮する以前に、社会的に求められている水準としては、条件①と②から考えられるものとして、「船頭の竿ならば~~」「物干し竿ならばコレコレ」「乗り物の車軸ならホニャララ」といった「具体的要件」を明示するべきでありましょう。それがあれば、裁判官の違いとか何とかの影響を受け難くなるからであります。その要件外の要素については、個別の事例における諸般の事情に応じて、裁判所が判断するべきことでしょう。そういった統一性のようなものが、あまりにも少なく、ばらつきが大きいというのが現状ではないかな、と。ある統一性の範囲の中で、裁判官の良心とか正義に従って判決を出すことには、賛成の立場であります。ダブルスタンダードと言われるかもしれませんが、個人的には大岡越前とか水戸黄門支持派ですので(笑)。
今のような状態で裁判員制度が始まってしまったりしたら、一体全体どうなってしまうのかと不安です。ホリエモン判決で思うことのコメントにも書きましたが、裁判員制度を本当にやっていけるのでしょうか?