この前から書こう書こうと思っていたのだが、何となくまとまらずに時間が過ぎてしまった。モヤモヤしたものが堆積してきたような感じだ。
参考記事:
続・知識階層は弱体化が進んだのか
新聞の特殊指定問題(追記後)
プロフェッショナルと責任
アマチュアらしさ?
よくありがちな大衆批判とかは、「賢人」を自認するタイプの人間に見受けられる。簡単に言えば「大衆とは愚かだ、無知だ、正しいことを知らない」と嘆き批判するのである。中には真の賢人という人が稀にいるかもしれないが、総じて大衆と何ら変わらないかそれ以下であることが多い。批判者自身が愚かであることは珍しくはないのである。無知な大衆よりもタチが悪いのは、本人が愚かさに無自覚であることであり、変に「賢い」と自認しているのでなおさら手に負えないのである。このようなタイプの人物に、物事を見切られると大変なことになる(笑)。世界を見通した気分に浸っているので、愚かな大衆には気付くことができない”向こう側”に、「真実」とか「正解」を見つけることができてしまう(ここで言う”向こう側”とは、web2.0ものとは無関係。遊離した遠くの世界ってこと。彼らにとっては存在するらしい)。それ故、恐ろしいのである。「腐れエリート」とか、「エリートもどき」とかに見られやすいかもしれない。
これと似ているのが、「ネット言論はクズだ」発言である。これも、批判対象が「自分(たち)よりも愚かで低脳で下品だ」という「見下し感」によって支えられているものである。どうやら発言者は向こう側に逝っているらしい(笑)。
finalventの日記 - ネットの言論はクズ
典型例は鳥越編集長だったか、オーマイvsネット住人みたいな構図。鳥越氏は元々「掲示板(=2ちゃんねる)ってのは云々かんぬん」って先入観の持ち主であって、これがネット言論の全部であるかのような「錯覚(誤解?)」を抱いていたようである。彼は「自分こそがジャーナリズムを体現している人間」という、前述した自らを「賢人と自認するタイプ」と同じような選民的思想傾向を持つのではないかと思われる。ネット言論なんて、と吐き捨てるような人物を何故オーマイが選んだのか不明ではあるが、なるべくしてなったのは編集長降板ということであろう。そもそも新天地を切り拓くような柔軟性を持たない人物に、ネット言論の一翼を担わせようというのは無理な話なのである。旧体制の枠組みを超えて行ける能力など初めから持ち合わせていないのだから。ガチガチに固まった思考しか持たず、自らを賢人視する人間というのは、全くの無知なる人々よりも悪弊が多い上に度し難いのである。今は闘病中の筑紫さんの方が、むしろ「ネット言論にも見るべきものがある」として「理解しよう」とする許容範囲の広さはあるだろう(ガンに負けないでね、応援していますよ、マジで)。罵倒対象にされがちな筑紫さんだが、「ジャーナリストの魂・習性」みたいなものが染み付いているのは筑紫さんの方であろうと思う。
<筑紫氏に対する個人的評価としては、色々と疑問に思うことを言うな、とは思うし、言論の質の高さというのが「それ程でもないのでは」と感じることもあるが、職業的なジャーナリストの感性みたいなものは、やはり持っているのだなと思っていた。>
マスメディアの中では、全部が「ネット?フン、氏ね、クズ」みたいに思っているわけではないでしょう。大きく分けて3つのタイプがありそうです(って、勝手な分類ですけど)。
①ジャーナリズムを捨ててない、死んでない層
ネット言論であろうとも、情報源の1つとみなして、自らの知識や情報を補完しようとするタイプ。現実世界の取材は勿論行うが、ネット言論から切り口や見方を学ぶ。自らにないものを見出す能力があれば、有効利用可能なのだ。言論世界の一部を形成している対象としてネット言論を見ている。割と若手なんかが多いかもしれないが、実態は不明。将来のマスメディア像なんかにも関心が高いかもしれない。危機意識もそれなりに持っているかも。
②毒された層
ほぼ、屍状態。ネット世界を敵視しているか、はじめから見下しているので、「ネットのバーカ、バーカ」的対応。「ネット言論はクズ」の一派もこれと思われる。旧体制の枠から抜け出せない体質。これまで自分を取り囲んでいた古い世界観に縛られており、それにしがみつこうとする。もしもこれを奪われると、大海に漂流するような恐怖に見舞われるので、恐ろしくて手放せないのである。船を漕ぎ出す勇気を持たないくせに、見下すのだけは得意なのである。変にエリート意識があるのも危険。恐らく実数としては、多数派ではないであろう。
③甘んじる層
どうしていいのか判らない層。自分では決められない。今のマスメディアの仕事も、命令されるからやっているが、本当のところは自分でもよく分らない。なので、サラリーマンとして仕事をこなす。「自分の看板」を永遠に持てないが、ジャーナリズムとは別な出世とか社内の力学関係とか、そういった本質とは関係ないところで力を発揮することもあるかも。なので、ネット言論が云々とかいうのは「関係ないや」ということで片付く。どっちでもいい(というか、実は自分で評価できないのかも)。現実には、割と多いかもしれない(ひょっとして最大多数派?)。
新聞に限らず、テレビとかも含めて、マスメディアという大きな捉え方だと結構幅があるかもしれない。なので「マスゴミ」とか叩かれるのも同情してしまうな。新聞の社説なり、テレビの番組なり、個々に批判した方が有効ではないかと思う。まとめて批判されても、批判される側が理解できないからだ。割と頑張っていることもあるし、よくない面があることも勿論ある。ただ「テレビはゴミだ」とか「新聞はオワタ」とか言っても伝わらないので、もっと具体的に指摘した方がいい。分る人には分るだろうと思う。特に、①のタイプの人々には通じるはずだと思っている。
具体例を少し。
ライブドアがニッポン放送株を電撃購入した時に、フジ系列ではニュースでも一切触れなかった。恐らく社内的には「禁句」みたいになってしまったんだろうと思う。そりゃ判るよ、気持ち的には。でも、報道なんだから、伝えるのが筋なんだよね。で、社内的タブーみたいなのを押し退けて報じたのは、何と小倉さんが出てる「特ダネ」というワイドショー番組だった。番組の上の方の人たち(ディレクター?プロデューサー?みたいな人?)とかは相当勇気があったんだろう(笑)。ネット上でかなり色んな情報が集められていたので、彼らはそういった情報を見ながら報じていたと思う(これは実際どうであったかは、私には分らない。確認する術がないし。あくまで個人的印象で述べたまでです)。下手にライブドア関連の報道をやって、社内的に立場を悪くするんじゃないか、という恐れを抱くとしても普通であろう。だが、敢えてその問題に正面からぶつかって行った。そういう行動を示すということが大事なんじゃないのかな、と。で、そういうことができてる人たちの方が、ネット言論なんかを見て役立つものを選び取っているのであろうな、と。結局、ジャーナリズムに関してフレキシビリティの高い人が、ネット言論に対しても何らかの評価をしているのだと思う。これは新聞記者であっても、ネット言論を見て評価・判断している人たちはいると思う。
「自分の看板」を掲げて書いている人、というのも重要だ。最近の例で思いつくのは日経新聞の清水真人氏だろうか。「プロの視点」シリーズで書いていますね。著書も出たらしいですからね(一つも読んだことないが。失礼)。こういう活動を行っている人は、「自分の看板」という重みがあることをよく知っているであろう。そして、これはネット言論でも同じだ。「極東ブログ」がまさしくそうである。
現実世界の中での取材や観察というのも勿論だが、1つ1つの「事柄」を結ぶ線というか「織り糸」のようなものの感性は、旧来の政治記者とか政治評論家の意見だけ聞いていても生み出されないのではないかと思える。むしろ、ネット世界の言論にこそ、そうした色々な種類の「織り糸」が存在しているのだ、と思う。そういう何かを発見できるようになれば、ネット世界に広がる言論の中に価値を見出せるようになるであろう。それが見出せないのは、自らの未熟さ能力の低さ故なのだ、ということに気付けない人たちはいるのであろう。
Timeの表紙を飾ったのは「You」ということの意味について、未だに理解できないという人々は存在するのです。持っている感性がTimeのレベルとは全く異なっているのだということでしょう。悲しいかな、これが日本のマスメディアを騙る連中の実情ということです。
参考記事:
続・知識階層は弱体化が進んだのか
新聞の特殊指定問題(追記後)
プロフェッショナルと責任
アマチュアらしさ?
よくありがちな大衆批判とかは、「賢人」を自認するタイプの人間に見受けられる。簡単に言えば「大衆とは愚かだ、無知だ、正しいことを知らない」と嘆き批判するのである。中には真の賢人という人が稀にいるかもしれないが、総じて大衆と何ら変わらないかそれ以下であることが多い。批判者自身が愚かであることは珍しくはないのである。無知な大衆よりもタチが悪いのは、本人が愚かさに無自覚であることであり、変に「賢い」と自認しているのでなおさら手に負えないのである。このようなタイプの人物に、物事を見切られると大変なことになる(笑)。世界を見通した気分に浸っているので、愚かな大衆には気付くことができない”向こう側”に、「真実」とか「正解」を見つけることができてしまう(ここで言う”向こう側”とは、web2.0ものとは無関係。遊離した遠くの世界ってこと。彼らにとっては存在するらしい)。それ故、恐ろしいのである。「腐れエリート」とか、「エリートもどき」とかに見られやすいかもしれない。
これと似ているのが、「ネット言論はクズだ」発言である。これも、批判対象が「自分(たち)よりも愚かで低脳で下品だ」という「見下し感」によって支えられているものである。どうやら発言者は向こう側に逝っているらしい(笑)。
finalventの日記 - ネットの言論はクズ
典型例は鳥越編集長だったか、オーマイvsネット住人みたいな構図。鳥越氏は元々「掲示板(=2ちゃんねる)ってのは云々かんぬん」って先入観の持ち主であって、これがネット言論の全部であるかのような「錯覚(誤解?)」を抱いていたようである。彼は「自分こそがジャーナリズムを体現している人間」という、前述した自らを「賢人と自認するタイプ」と同じような選民的思想傾向を持つのではないかと思われる。ネット言論なんて、と吐き捨てるような人物を何故オーマイが選んだのか不明ではあるが、なるべくしてなったのは編集長降板ということであろう。そもそも新天地を切り拓くような柔軟性を持たない人物に、ネット言論の一翼を担わせようというのは無理な話なのである。旧体制の枠組みを超えて行ける能力など初めから持ち合わせていないのだから。ガチガチに固まった思考しか持たず、自らを賢人視する人間というのは、全くの無知なる人々よりも悪弊が多い上に度し難いのである。今は闘病中の筑紫さんの方が、むしろ「ネット言論にも見るべきものがある」として「理解しよう」とする許容範囲の広さはあるだろう(ガンに負けないでね、応援していますよ、マジで)。罵倒対象にされがちな筑紫さんだが、「ジャーナリストの魂・習性」みたいなものが染み付いているのは筑紫さんの方であろうと思う。
<筑紫氏に対する個人的評価としては、色々と疑問に思うことを言うな、とは思うし、言論の質の高さというのが「それ程でもないのでは」と感じることもあるが、職業的なジャーナリストの感性みたいなものは、やはり持っているのだなと思っていた。>
マスメディアの中では、全部が「ネット?フン、氏ね、クズ」みたいに思っているわけではないでしょう。大きく分けて3つのタイプがありそうです(って、勝手な分類ですけど)。
①ジャーナリズムを捨ててない、死んでない層
ネット言論であろうとも、情報源の1つとみなして、自らの知識や情報を補完しようとするタイプ。現実世界の取材は勿論行うが、ネット言論から切り口や見方を学ぶ。自らにないものを見出す能力があれば、有効利用可能なのだ。言論世界の一部を形成している対象としてネット言論を見ている。割と若手なんかが多いかもしれないが、実態は不明。将来のマスメディア像なんかにも関心が高いかもしれない。危機意識もそれなりに持っているかも。
②毒された層
ほぼ、屍状態。ネット世界を敵視しているか、はじめから見下しているので、「ネットのバーカ、バーカ」的対応。「ネット言論はクズ」の一派もこれと思われる。旧体制の枠から抜け出せない体質。これまで自分を取り囲んでいた古い世界観に縛られており、それにしがみつこうとする。もしもこれを奪われると、大海に漂流するような恐怖に見舞われるので、恐ろしくて手放せないのである。船を漕ぎ出す勇気を持たないくせに、見下すのだけは得意なのである。変にエリート意識があるのも危険。恐らく実数としては、多数派ではないであろう。
③甘んじる層
どうしていいのか判らない層。自分では決められない。今のマスメディアの仕事も、命令されるからやっているが、本当のところは自分でもよく分らない。なので、サラリーマンとして仕事をこなす。「自分の看板」を永遠に持てないが、ジャーナリズムとは別な出世とか社内の力学関係とか、そういった本質とは関係ないところで力を発揮することもあるかも。なので、ネット言論が云々とかいうのは「関係ないや」ということで片付く。どっちでもいい(というか、実は自分で評価できないのかも)。現実には、割と多いかもしれない(ひょっとして最大多数派?)。
新聞に限らず、テレビとかも含めて、マスメディアという大きな捉え方だと結構幅があるかもしれない。なので「マスゴミ」とか叩かれるのも同情してしまうな。新聞の社説なり、テレビの番組なり、個々に批判した方が有効ではないかと思う。まとめて批判されても、批判される側が理解できないからだ。割と頑張っていることもあるし、よくない面があることも勿論ある。ただ「テレビはゴミだ」とか「新聞はオワタ」とか言っても伝わらないので、もっと具体的に指摘した方がいい。分る人には分るだろうと思う。特に、①のタイプの人々には通じるはずだと思っている。
具体例を少し。
ライブドアがニッポン放送株を電撃購入した時に、フジ系列ではニュースでも一切触れなかった。恐らく社内的には「禁句」みたいになってしまったんだろうと思う。そりゃ判るよ、気持ち的には。でも、報道なんだから、伝えるのが筋なんだよね。で、社内的タブーみたいなのを押し退けて報じたのは、何と小倉さんが出てる「特ダネ」というワイドショー番組だった。番組の上の方の人たち(ディレクター?プロデューサー?みたいな人?)とかは相当勇気があったんだろう(笑)。ネット上でかなり色んな情報が集められていたので、彼らはそういった情報を見ながら報じていたと思う(これは実際どうであったかは、私には分らない。確認する術がないし。あくまで個人的印象で述べたまでです)。下手にライブドア関連の報道をやって、社内的に立場を悪くするんじゃないか、という恐れを抱くとしても普通であろう。だが、敢えてその問題に正面からぶつかって行った。そういう行動を示すということが大事なんじゃないのかな、と。で、そういうことができてる人たちの方が、ネット言論なんかを見て役立つものを選び取っているのであろうな、と。結局、ジャーナリズムに関してフレキシビリティの高い人が、ネット言論に対しても何らかの評価をしているのだと思う。これは新聞記者であっても、ネット言論を見て評価・判断している人たちはいると思う。
「自分の看板」を掲げて書いている人、というのも重要だ。最近の例で思いつくのは日経新聞の清水真人氏だろうか。「プロの視点」シリーズで書いていますね。著書も出たらしいですからね(一つも読んだことないが。失礼)。こういう活動を行っている人は、「自分の看板」という重みがあることをよく知っているであろう。そして、これはネット言論でも同じだ。「極東ブログ」がまさしくそうである。
現実世界の中での取材や観察というのも勿論だが、1つ1つの「事柄」を結ぶ線というか「織り糸」のようなものの感性は、旧来の政治記者とか政治評論家の意見だけ聞いていても生み出されないのではないかと思える。むしろ、ネット世界の言論にこそ、そうした色々な種類の「織り糸」が存在しているのだ、と思う。そういう何かを発見できるようになれば、ネット世界に広がる言論の中に価値を見出せるようになるであろう。それが見出せないのは、自らの未熟さ能力の低さ故なのだ、ということに気付けない人たちはいるのであろう。
Timeの表紙を飾ったのは「You」ということの意味について、未だに理解できないという人々は存在するのです。持っている感性がTimeのレベルとは全く異なっているのだということでしょう。悲しいかな、これが日本のマスメディアを騙る連中の実情ということです。