元検弁護士のつぶやき 司法の不確実性について考えるcommentscommentsの方で、まだちょっと継続中ですので、記事にもあげておきます。
以下の内容をコメントに記載してみました。
>YUNYUN先生
お答えが遅れました。時間が取れてなかったもので。質問の意図が伝わりにくくて申し訳ありません。一応、No.12のコメントには質問を記事に書いた旨記載しましたが、お気づきになって頂けなかったようなので、具体的に簡単な2点だけに絞ります。もしもお時間等がある時にでもお答え頂ければ幸いです。
①保健師助産師看護師法第30条違反で略式起訴された事件の説明
②医療裁判において判断が異なる結果となっている事件がある
=裁判官の判断が収斂していると言えるか
以上2点です。
補足を書いておきます。例として、「Xがレストランで食事中、所持していた携帯電話の充電器を店舗のコンセントに無断でつなぎ、自分の所有する携帯電話の充電を行った。この時に刑法上の責任は問われるか」ということを考えるものとします。私が弁護士の方にこんな説明をするのは恐縮なのですが、一応何を求めているのか分り易いのではないかと思いますので。
刑法上では、第245条規定の「この章の罪については、電気は、財物とみなす。」とのことですので、電気と言えども窃盗が成立しうると考えられ、同235条の「他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。」との規定より、Xの行った行為(無断で携帯電話の充電を行ったこと)については、窃盗罪が成立しているものと考えられるでありましょう(ですよね?素人判断で申し訳ありませんが)。これと同じく、「看護師に内診行為を行わせる」という指示を行った医師においては、刑事罰を受けるべき理由というものがありましょう。それをお尋ねしているのです。携帯電話の充電事件を起訴するか否かというのは、検察官の裁量ということであっても(起訴されないことの方が多いように思います)、多くの人々に理解されうるものです。起訴便宜主義について答えて欲しいわけではございません。このような携帯電話の充電事件は、事件が同一ではなくとも類似事件においては「同じような解釈が成立」しており、毎回解釈が異なることは殆どないように思えます。これと同様な説明が、「内診行為」事件についても可能なはずです、ということを申し上げております。
携帯電話の充電が刑事上の責任を問われることがあるとしても、特別に刑法とか法学的な理論などを知りえない一般人において、ごく普通の倫理・常識に従って行動するのであれば、殆どの場合に刑事罰を受けることは回避できます、ということを言っているのです。ある医療行為について刑事罰を受けるということになれば、医療従事者が殆どの場合に回避できるとも言えず、「内診行為」のように甚大な影響力を持つことはあるのです。
②については、具体的なものと思ったのですが、判決文が探せていませんので、報道からしか判りません。
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/17473f2d8408b80ba975d7ccdc29a3c9
高裁逆転判決ということですので、判断は異なることがある、ということは言えましょう。この1例をもって「判断が収斂していない」とは言えないのは当然ですが、具体的な反例ではあります。医療に関する裁判の話をしておりますので、他の刑事事件などにおいて「量刑・判断が一致している」ということをお示し頂いても、論点としては適切ではないでしょう(何度もコメントに書いておりますが、一応刑事事件においても、「古紙持ち去り」に関する事件では有罪と無罪がバラバラですので、刑事事件においても解釈・判断は一致するとも言えないでありましょう)。医療関連の裁判でどの程度の逆転判決例があるのか知らないのですが、9割以上は同一判断であるといった統計的数字などがあるのであれば、それはそれで意味のあるものでしょう。私の「印象として、判断にはバラツキがある」という意見を聞いてみたところで、何らの効果もないことは明らかでありましょう。「裁判官の判断は90%の以上の確度で収斂し、差はさほど開かない」ということの主張側はYUNYUN先生ですので、説明は先生がなさるものなのではないでしょうか。私に「信用しがたいという根拠は如何」ということを求め、それを私が立証するべきものではないと思います。参考までに、No.12の記事に示した記事中には、判決が疑問であるという例を挙げております。
>裁判の判断の善し悪しは、学者・実務家の批判に晒されます。
>裁判官は研究会を行ったり、判例評釈を読んで自ら勉強したりして、次の裁判のために役立てるということはしています。
>それは検察官も弁護士も同じです。
>医師が症例研究会をするのと、同じことと思います。
これについては、ご苦労さまです有り難いことです、と本心で思いますけれども、厳しい言い方をしますと当たり前であるようにも思えます。自ら勉強というのは、業務を遂行するに当たり必要不可欠なことであって、それを殊更「自ら研鑽・努力しているのだから」これを評価して欲しい、などということは、裁判の結果・水準には関係のないことです。医療裁判において、相当の研鑽を積んできた医師たちといえども「結果に問題があった、過失であった」ということになるわけですから(どれほど努力をしてきたか、というのは過失の有無にはほぼ無関係)、裁判官や検察官においても「正当な結果」というものが求められて当然でありましょう。学者・実務家の批判に晒されるとして、刑事責任を負わされたりする訳ではないですし、損害賠償請求を個人的に求められたりはしません。医師の症例検討(内部的にも、学会等の外部的にも)で厳しい批判を受けたり相互に研鑽することは、「裁判で裁かれること」と全く違うものであります。法曹の方々が過誤があった時や結果が悪い場合に、「裁判で裁かれる」ということはありますでしょうか?学者や実務家の批判に晒された結果、裁判官を首になった方というのが現実に存在しているのでしょうか?国家権力に裏打ちされた強い外力は、裁判官や検察官には働くことなどないでありましょう。そもそも司法と医療とを同列に語る必要性などは感じておりません。司法は司法です。そうであるが故に、「批判に晒される」などという形だけの話ではなく、システムとして構築するべきです、と申し上げているのです。