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司法の品質管理を問う~3の参

2007年06月09日 11時00分52秒 | 法関係
これまで続いてきたので、一応まとめてみます。

司法の品質管理を問う~3

司法の品質管理を問う~3の壱

司法の品質管理を問う~3の弐(古紙持ち去り事件に関して)


>YUNYUN先生

質問事項は少ないものだったので、それについて説明して頂ければと思っておりました。だんだんと話が拡大しておりますが、もう一度出発点を振り返りますと、
①保健師助産師看護師法第30条違反で略式起訴された事件の説明
②医療裁判において判断が異なる結果となっている事件がある
=裁判官の判断が収斂していると言えるか
ということです。

その前にコメント(No.12)に書いた記事でも、
①医療において「証拠関係が同一であること」というのは有り得ない
②司法の原則が明らかにされているか
③同一事件、類似事件についての法曹の判断が収斂していることが判る理由とは何か
の3点に集約しておいたのですが、これだと②と③の回答範囲が広いようでしたので、上記2点に絞ってお尋ねしたわけです。
(附言しますと、当然私の疑問とは②については「原則が明らかとなっているとは限らないのではないか」、③については「収斂しているとも思えない」ということです。先生の主張とは対立するものです)

先生のご意見を拝見しておりますと、私の提示した意見や他の方への回答を見て、それに個別にお答え下さったりされておりますが、本来そのような回答を求めているのではありません。元々は、先生が主張された次の論点について、説明できるならばそれをお願いしているのです。
>私の考えでは、裁判官の判断は90%の以上の確度で収斂し、差はさほど開かない。
>従って、結論の違いは事案の違いによる というものです。

この根拠とか、具体的説明を求めているのであって、示せないのであればこれ以上はお尋ねしても意味がありません。つまり、
「裁判官の判断は90%以上の確度で収斂し、差はさほど開かない」とは言えないだろう
ということが(私の中で)推測されるだけです。

私がいくつか具体例を挙げたのは、先生が次のようにご質問されましたので出したまでです。
>逆にお聞きしますが、まさくに様は、実際に裁判官によって判断にバラツキが大きいと思われますか。
>「信用しがたい」とおっしゃる根拠は如何?

私は裁判のような弁論や争いをやりたいのではありません(実際には見たこともないのですが)。ところが、先生ご自身は自分の主張点であるところの、「裁判官の判断は90%以上の確度で収斂している、差はさほど開かない」ということの論証を何らされておりません。私の挙げた点や意見について、個々に反論可能な言い方をしているようにしか思われません。できれば私の論点に対してではなく、ご自身の主張が正しいということを説明されますようお願い申し上げます。

ご質問については、若干お答えしておきたいと思います。

1)保健師助産師看護師法第30条違反について

私の基本的考え方は上記コメントでも、記事でも書いております。「元々の30条の立法主旨としては、無資格者が助産院を行うとかニセ医者同様にニセ助産師としての活動を禁止するものが30条規定なのではないか」(No.52)というのが私見であり、条文を意味不明とは思っていません。ただ、個別具体的な医療行為(この場合には内診行為)に刑事罰を与えて禁止するものとは思われない、ということです。罪刑法定主義というのが基本的にあるのであれば、条文上に規定するべきで、そうでないなら「刑事罰をもって禁止行為を規定(周知)する」というのはオカシイ、ということを申し上げているのです。条文に具体的規定がないにも関わらず「刑事罰を与える」という恣意性が許容されることには反対という立場です。

先生ご指摘の「司法の不確実性をもたらす原因の一つではあっても、司法の責任ではありません。」ということには同意できるものではなく、「今、存在している法令(条文)」に則って正しく判断するのが裁判所の役割であるならば、条文(或いは通知)の内容とか稚拙さをもって司法判断の責を免れるものではないと思います。立法技術云々の問題などではありません。条文がオカシイのであれば、違憲立法である旨指摘するとか、条文自体が無効であるとか、判決で明確に何が悪いか指摘するべきことであって、立法技術が拙いので司法判断が難しくバラツキを生じる、というのは単なる責任転嫁にしか見えません。こういうことは、私のようなド素人がいくら主張しても無効であるので、法学的に「業の規定をもって個別具体的な禁止行為が明確にできる、刑事罰も与えられる」ということが「学問的に明らかとなっている」のであれば、それはそれで結構です。その証拠を提示してもらえれば、このような意見交換も不要ですし(例えば「狭心発作にはニトログリセリンが有効である」とか「急性心筋梗塞の場合、PCI が有効となる症例がある」とか、そういう文献的証拠ということです)。そういう知見や検討結果がないのであれば、どうやってそれが判ったのか、ということを問題としているのですよ。それを問題視しないというのは理解し難い、ということです。

この問題については、これ以上合意点は見出せないので、これで終わりにさせて頂ければと思います。
それから、この問題で起訴されたのは略式起訴事件だけしか私は知りません。

2)検察官や裁判官に処罰を与える必要はない

何度も同じことを書きますけれども、No.52中で「私は裁判官を罰してくれとか、検察官を個人的に追及する制度を作ってくれ、とか願っているのではありません。本来、その特殊な職務上の権限を行使するのですから、独立した地位が保全されていなければ行政権力などには対抗できません。」と書いております。司法は医療とは違います。医療の個別の症例や医師の個別の判断が異なるとか、そういうものと司法は「根本的に異なっているでしょう」と申し上げています。特別に法律を変えたりする必要などなく、今ある制度の中で判例や事件の検証することはいくらでも可能です。「国民の側からは司法サイドを変えさせられない」というのが、決定的な違いであり壁なのです。裁判官や検察官というのは、その独立した地位・権限により「他からの作用」というのは働かないようにできているでしょう、ならば「自分たちの中で改善して下さい」と言っているのです。それをどのようにするか考えて決めるのは、司法サイドの問題であって、私のような素人が「こうせよ」と求められるものではない、ということです。現に、裁判で罰を受けない制度になっているのであり、そうであるが故に、こちらからはどうにもできないと申し上げているのです。しかし、水準を(品質を)担保する為の努力はきちんとやって欲しい、ということを要望しているのです。今も既にやってる、というのは、当てにはなりません、ということです。

ある医師が「教科書、専門書や論文を多数読み、自己研鑽を積んできた。よって、私が心臓移植手術を行います。これまでの研鑽を是非とも認めて下さい。」と言って、いい加減な手術が許されますでしょうか?「これほど自己研鑽を積んだのだから、結果は問わないでね」なんてことがありますでしょうか?研鑽しているから、なんてのは、「司法制度の水準や正しさ」を担保するものではないと言っているのです。「やってます」なんてことを口で言うだけではなく、「結果で見せてくれ」「形として明示してくれ」ということを求めているのです。結果とは裁判結果のことであり、判決の品質です。形とは、法学的な知見であるとか、判決文が専門家によってどのように検討されどのような結論が導き出されたかというものを「論文と同等の形」で出してくれ、ということです。

裁判に用いられる「医学論文」とかの証拠と同等のものです。それか、証拠と認定できるような明確な制度とかシステムです。世の中、「努力しました」で済むことなんて、殆どありません。ソバ屋の出前で、「頑張って運びました、研鑽を積んで努力しました。が、ザルを道路にぶちまけてしまい、殆どソバは残っていません。でも一生懸命努力したので、これで我慢してください」なんてことは普通許されない、ということです。うまく運べるように努力することなど当たり前です、と思っています。




当方の書き方に不明瞭な点が多く、意図が伝わらなかったことはお詫びいたします。
しかし、例えば私の「古紙持ち去り事件では、判断が分かれている」との例示に対して、先生が全て反論する必要性はないですし、私の挙げた具体例が「反証になっていない」と全て不採用ということならそれでも構いません。たとえ具体例を全て捨てたとして、先生の「裁判官の判断は収斂している」との主張は、今もって何ら明らかにはなっておりません。大体、古紙持ち去り事件は、「違憲立法である」とか「条例制定権を逸脱してる」といった判断が出されているのですから、事件の個別性も何もあったものではなく、根本的な論点は「条例は違憲か否か」とか「制定権を逸脱しているか否か」といった、極めて法学理論っぽい話ではないかと思いますが。

先生がコメントに書かれた、
>裁判官の判断が分かれる理由は、第一には条文の作り方が悪くて、文言が曖昧だからでしょう。また、財物の価値や可罰的違法性の限界事例であるために、裁判官の価値観によって分かれる部分もあります。

を拝見しても、何を主張したいのか、素人の私にはまるで判りません。
「条文が悪い」ことで、「違憲立法である」と「有罪である」という違いを生ずる司法判断といいますか、法解釈というのはそこに「どのような理論、原則」が見出せますでしょうか?素人目には、「全くの別物」としか思えませんけど。整合的な理論と思しきものは、何ら感じ取ることができない、ということです。ただ単に、私の例示した論点に反論した、ということだけなのであれば、これ以上何も申し上げることはありません。議論に長々とお付き合いさせてしまい、大変有難うございました。私の理解としては、「裁判官の判断が収斂している」ということについては、何も立証されていないことと同じです。



以下は独り言ですので。

一応、具体的に書いておきます。YUNYUN先生の主張を整理すると、次のような感じです(=以下は、私が読み取ったことを補足して書いております。YUNYUN先生がコメントに書かれた部分はその上に表記しています。)。


本当に、同じ事件について判断が分かれることが、そんなにあるのでしょうか。

=同一事件では(概ね)「判断は一致する」


<同じ事件>とは厳密には、「証拠関係が同一であること」を意味します。それ以外は「似た事件」ではあっても、「同じ事件」ではありません。
似た事件も同一ではない以上、裁判結果が異なることがあり得る
判例理解として、似た事件における違う要素を無視して、過大に一般法則を読み取ろうとする(判例の射程距離を長く取ろうとする)点が、問題であろうと思います。

=同一事件でなければ裁判結果は異なり、一般法則は似た事件といえども読み取りにくい


具体的にご指摘の事件について、誰かが評釈を書いているかどうか、今後に書かれる予定があるかどうかは知りません。判例雑誌(判例時報、判例タイムズ等)をワッチしておくしかないでしょう。
誰かがこの判例に着目して研究しようと思ってくれなければなりませんが、判例としての先例的価値(医学的な事例としての価値ではない)があると評価されなければ、誰も手を付けないかもしれません。控訴審で覆ったというだけでは、単なる一事例にすぎず、先例的価値があることにはならないからです。

=ある裁判例について、取り上げられているのか批判されているのか判らない、誰も手を付けないかもしれない


多くの場合は、一審で敗訴したのは、主張の仕方や私的鑑定書の書き方(広い意味での訴訟戦術)が拙かったため裁判官の説得に失敗したのであり、控訴審では挽回したということでしょう。

=訴訟戦術によって裁判官の印象は変わるかもしれず、説得のやり方次第?である


起訴の段階では犯罪として成立していると「検察官が考えた」ことなので、裁判官がそれを是認するか否かは、まだ定まっていません。

=検察官と裁判官の有している法学的理論?(のようなもの?)は別物であって、同じ証拠・法律上であっても判断は異なる


裁判官の判断が分かれる理由は、第一には条文の作り方が悪くて、文言が曖昧だからでしょう。また、財物の価値や可罰的違法性の限界事例であるために、裁判官の価値観によって分かれる部分もあります。
この事例は、今まさに判例統一への途上にあるものです。
判例が統一されるまでに、同種事件の判断がいくつも出るのは珍しいことではありません。10個程度ではまだ少ないとすら言えます。

=10個程度では判例途上、同種事件では判例がいくつもでる

これら主張ア~カから、「裁判官の判断は90%以上の確度で収斂している」ということがどのように読み取れるのでしょうか。

・第一に、「主張イ」から、同一事件は唯一つであって、他の判例からの読み取りは困難。つまり、同一事件に対して、例えば裁判官100人が「同じ判断を下したかどうか」を検証しない限り、「判断が収斂する」ということは判らない。だが、「主張ウ」から、放置されて何の評価も受けない判例は多数存在していると思われ、「裁判官(或いは学者、その他法曹)」の評価が実質的に行われているとは言えない。評釈等を受けている判決についても、裁判官の多数決とかアンケート調査といった具体的資料は認められない。

・医療裁判においても「同一事件」は一つしか存在しないので、仮に上級審での裁判例があろうとも当該判決毎についてのみ深く検証され、多数の裁判官によって判決内容の評価が行われない限り、「判決が検証されたことにはなり得ない」。しかし、「主張ウ」からそれが本当に行われていることはむしろ疑わしく、よって、「主張ア」を確認する術がなく、裏付ける証拠もない。

・「主張カ」から、同種事件の判例が10個以下程度では途上であって、いくつも異なった判例が出る。そもそも医療裁判における同種事件というのは少ないと思われ、10例以下である事件であれば「判例途上であることから、いくつも異なった判例が出る」ことは有り得ると推定される。よって、医療裁判における同種事件であろうとも、「判断が収斂している」可能性が高いことを示す証拠はなく、異なった判断となってしまうことは十分考えられる(つまり、事件の個別性、裁判官の個性が色濃く出るということか?)。

・「主張エ」から、裁判官には訴訟戦術に左右される要因が大きく作用し、逆転判決が有り得ることが窺える。裁判官側要因ではなく、主張者側の戦術の違いによって「判断の違いを生じ得る」ことから、たとえ同一の証拠を基に精査しようとも他の裁判官と同一の判断が下せるか否かは疑いの余地がある。

・「主張オ」から、検察官と裁判官では「犯罪として成立しているか否か」という判断は異なる。その違いを生ずる法学的な理由は不明のまま、刑事裁判が日々行われているということだろうか。同一証拠、同じ適用条文であっても考え方が「違う」ということは言える。


要するに、事件は1件1件「個別に異なっている」ということであれば、1件毎に詳しく検討しないと「批判に晒され」て検証されているなどとは言えないでしょう。類似事件の中からピックアップされている、ということであるなら、「一般法則は読み取り難い」ということになってしまうのがオチか、その他残りは「先例的価値のない単なる一事例」にすぎないものとして闇に葬り去られたままになっているだけであろう。いずれの場合にせよ、「判断が収斂しているなどということが確かめようがない」ことが、かなりの確度をもって予測されるだけである。


10例以下しかない判例ならば、「途上であるので、判断がバラバラであることはごく当たり前」という印象を受けたが、医療裁判における類似事件というのがどのくらいあるかと言えば、あまり多くはないであろうと思われる。ならば、「バラバラであることは当たり前に起こり得ますね」ということがおよそ肯定されているのであって、医療裁判において「判断は収斂しているはずである」というのがかなり疑わしい、ということが判るだけである。しかもコメントの主張内容そのもので、最後は「最高裁が判断の責務を負う(=最高裁判決を見てみないと判らない)」という所に行き着いているのであって、ならばこれまで記事で指摘した下級審での裁判は不確実性が高くなっているということで、「最高裁に全件聞いてみないと判らない」ということになってしまっているのではありませんか、ということが確認できただけである。下級審といえども、「最高裁の分身」として裁判をやるのが当たり前だ、という私の記事は、一体何だったのかとは思う。


どこから見ても、「裁判官の判断は90%以上の確度をもって収斂している」ということを信ずるに足る主張というのが見出せないばかりか、むしろ「収斂しているとは言えないのではないか」ということを補強する主張が増えているだけのようにしか見えないのである。

その一方、私が仮に例示した
「仮に医療従事者がこれまで日々業務として行ってきた行為が「それは医師法違反です」と言われて逮捕され、裁判では東京、札幌、沖縄で有罪、大阪、名古屋、京都では無罪、となったとき、自分自身がその有罪判決を受けた身になってみて下さい」
という別な方々への回答について、

>そういう事例は起こっていないし、今後も起こりえないと考えます。

とコメントされていたが、その絶対的確信はどこから生じるのか甚だ疑問。

現実に「内診行為問題」では、数件で起訴・不起訴となっている。千葉では略式起訴、名古屋、横浜では起訴猶予となっている。例は確かに大袈裟だが、本質的に似たようなものだ、と言っているのであって、そのような違いを生ずる「司法システム」というものを、一体誰が是正するのか、どのように公平性や水準を担保しているというのか、ということを問うているのである。このことの意味が伝えられなかったのは、当方の落ち度でもあろうが(裁判で言えば戦術が悪い、ということなのでしょう)、残念である。



政策選択をすると、反対勢力の人たちの分まで政治活動を何倍も頑張らねばならないのか

2007年06月09日 03時31分15秒 | 経済関連
kenboxさんのコメントを頂いた(今度はGRIPSかよ~貸金業の話)ので、記事に書いてみました。


まずそのコメントから。

社会全体を一人の人間の体とすれば「数年経てば治癒し再生するのだから原因になっている菌と侵された部分を切り取る為に発生する痛みは耐えて下さい。」的なあなたの外科的処方箋は説得力があります。しかしこの問題の根の深さは切り取られる部分も一人一人の人間で、しかも一様に生きたがっているという当然の権利と現実です。その処方箋を「他の方法があるのではないですか?違う生き方があるのではないですか?そこから先は究極的には行政の範疇ですよ。」と主張する事で完結させているのであれば、あなたは今の何倍ものパワーで国や行政に強力にアピールし現実に対応可能な具体的な対策を迫るべきだ。しかも早急に。



何を求めているのかよく判りませんが、別に「切り取れ」とかを目的としてるわけでもないですけど。また例で考えてみる。

今、「タクシーの規制緩和を行う」という政策を選択するべきか否かが問題とされているとしよう。

規制緩和を行えば、

・タクシーの台数が増加し、競争が激化する
・運転手一人あたりの賃金が減少する
・競争に敗れたタクシー会社は倒産に追い込まれる

ということが起こると考えられる。

この時、「タクシーの規制緩和を行う」ことに賛成する人たちがいるものとする。この人たちに対して、
「君たちは、タクシードライバーの生活を破壊しようとしている。競争に敗れた人たちを切り取ろうとしている。タクシードライバーの権利を守る為に、政治的活動を行うべきだ。その運動には、賛成することの何倍も力を注ぐべきだ。」とか求めるということだろうか。
実際、タクシー会社の倒産とか、個人タクシーの廃業はあった。特に、個人タクシーの倒産件数は増加してきているとか言われてるらしいし。要するに、規制緩和に賛成する人たちは、こうしたタクシードライバーの生活を守る為に、政治活動を行え、と。

一方、規制緩和によって、新たにタクシードライバーの雇用が増加して、仕事に就くことができた人たちも多数いたわけだ。特に女性ドライバーなんかも昔に比べれば増加した。台数が増加しているので、一人当たりの賃金は減るが、貰える人の数は増えて、その分雇用保険なんかの給付も抑えられたであろう。必ずしもマイナス面ばかりがあるわけではない。


「タクシーの規制緩和を行う」ことに賛成ですか?

YES→お前ら、運転手の賃金が減るとか個人タクシーが潰れてもいいのか、彼らの生活を守る運動をせよ!

NO→お前ら、雇用を確保するのに反対するのか、彼らの生活を守る運動をせよ!

これでは賛否の意見表明もするなと言っているに等しい。意見表明するならば、その代償として運動してこい、と。これは無理な話ではないかと思いますね。政策を決めるのですから、どちらかしかないわけで。どっちを選ぶとしても、どこかに「しわよせ」はある。全員を救済できるということにはならない。そうではあっても、有利な方をどうにか選択するしかないのである。


個人商店とか雑貨屋が、「コンビニや大手スーパーが営業すると、潰れるからヤメロ。個人商店の権利を守れ。」ということを主張するのであれば、大多数の人々に賛同を得られるように説得するしかないでしょうね。競争できないのであれば、退出させられることも止むを得ないだろう。同一商品なのに、大手の仕入れ値が50円、片や個人商店が100円ならば、競争が厳しいのは決まっており、差別化を図るとか何かできないならいずれ淘汰される。