いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

利子とは何か?

2010年06月20日 13時44分21秒 | 経済関連
まるで重農主義者のように思われるかもしれないが、どうかご容赦願いたい。

現代の経済活動の中では、利子というものについて、あまり疑問を抱かれることはないだろう。生活全般に浸透しているし、考え方としてもそれが当然だと思われているのではなかろうか。何かの公理のような、当たり前の前提のようなものと捉えられているのかもしれない。


1)種は収穫を増やす

利子というものに近いようで、ちょっと違うものとして「種」(タネ)がある。
ある穀物があって、手元に1000粒食べられる種(小麦でも米でもいいけど、そういうようなもの、ということ)があるとしよう。普通の人はこれまで「全部食べてしまっていた」、と。ところが、ある時誰かが「このうち10粒を食べずに残して蒔く」と考えたらどうだろう。これまでは定常的に1000粒の収穫高だったのが、10粒を食べずに我慢して次期の収穫に回すことによって、例えば1050粒の収穫を得られることになるわけだ。これこそが、「当期の10粒」よりも「将来の50粒」を選択した結果、ということの意味であるはずだ。

将来の収穫が増える、ということの意味こそが、利子というものの意味合いなのではないか、ということである。手持ちの1000円を全部使ってしまえば、将来に増えることはないが、このうち10円を貯蓄して投資に回せばリターンが得られる、ということに近いのではないか。食べずに我慢して次の収穫に回す、というのと同じようなものである。


2)飢饉の時にはストックの価値が高い

今ある1000粒を全部食べないで少しストックしておいたとしよう。どうしてかというと、いつかやってくる飢饉に備える為である。それを繰り返して、蔵に100粒保管できていたとする。本当に天災とか日照りとかで飢饉がやってくると、蔵にあった100粒を食べて生き延びることができる。この時、普段食べていた10粒、それどころか1粒というものが、大変貴重なものとなるのだ。飢饉に見舞われた時の穀物の価値は、通常状態よりもはるかに高いはずだ、ということ。

山で遭難した時に、チョコレートを持っていたとすると、その価値が生死を分けるほどに重要なものとなるのに似ている。1粒のチョコは、日常ではそんなに高い価値を意識されないだろうけれども、遭難して生きるか死ぬかという状況下では大金持ちだろうと何だろうと誰もが欲しがる貴重な価値を有している、ということだ。そういう点において、当期の穀物10粒と、飢饉の時の穀物10粒では価値が異なるはず、ということである。


3)ストックの穀物は「利子」で増えたりするか?

さて、ここで問題なのだが、蔵に保管してある穀物は時間が経つと自然に増えているのだろうか?
普通の人たちは、そうは思わないだろう。勿論そうだ。それが正解である。
ストックの穀物というのは、何もしないのに増えたりはしない、ということである。異なる時期で、同じ10粒の持つ効用というものを比較するなら、違う価値を持つであろうということは言えそうだ。特に飢饉のような場合なら、希少価値が高くなるはずなので、価値が高まるということだ。しかし、普通に蔵に置いてある時には、そうした価値が見えてこないかもしれない。

そうであるとしても、蔵の穀物は時間経過と共に、何もしないのに増えたりはしないのである。つまり、「利子はつかない」ということだ。


4)食べずに残した種が収穫増加をもたらすのは何故か

基本的には、作付できる土地があるから、ということになるだろう。10粒を残して苗を育て、それを作付するということなら、10株分の土地の面積が必要となる。その「空いている土地」がある限りは、作付を拡張できるので、種として有効となり得るだろう。

しかし、住んでいる場所が小さい島のような限られた面積しかない土地ならば、どこかの時点で種の効果は頭打ちとなり、作付面積を増やせなくなる限界点がやってくるだろう。いくら食べずに残しておいたとしても、その粒は種としての意味を失う。育てる場所がないから、だ。

技術革新によって、単位面積当たりの収穫高を増やせる、というようなことが起これば、面積が同じでも収穫高は増加するだろう。例えば、肥料の工夫とか土地改良とか品種改良とか、そういう工夫だ。或いは2期作のような方法もあるだろう。同じ面積当たりで、それまでは20粒の収穫高だったものが30粒、50粒と増やせるということになる。ただこれは、作付できる種の数を増やせるのではないから、種の粒数は同じなのに収穫高は増えるということである(2期作なら1期作に比べて種の数を倍に増やせるが、次からは増やせない)。なので、「食べずに残す」という種を増やせば、必ず将来の収穫高が増加する、ということではない。

耕せる土地があって作付できる、という条件が必要だ。


5)現代の経済は「未開の土地」が多く残っているのか

簡単に言うと、世界中のどこかに「まだ耕せる土地は残っているはずだ」ということで、種としてどこかに貸し出されているだろう。確かに土地は残っているだろうけれども、食べずに残された穀物は膨大に存在しているから、そんなに全部を種蒔きできるのかな、という疑問はあるだろう。

先進国のような成熟した経済圏であると、単位面積当たりの収穫高もギリギリまで高められているし、作付に適する土地には既に植えられてきたはずである。効率化がそれらをもたらした。だから、食べずに残してある種は豊富に存在しているし、全部を種として利用できなくなっている。耕されてない土地を多く残す地域に投資という形で投下されているが、種の量に比べると土地の方が少ないかもしれない。

そこそこ収穫が期待できそうな土地には既に誰かが植えていること、種として収穫増加を期待して貸し出しているのに種が返ってこない場合がある、というのが「悩みの種」ではないだろうか。もっと新たな産業革命のようなことが起こらないと、頭打ちからは逃れられないかもしれない。
喩えて言えば、日本には水田としての利用が可能な所はほぼ開拓され、殆ど新たな耕作地は残っていない、というようなものだ。それなのに、これからもっと「食べずに種を残して来期の収穫増を期待しよう」というのは、かなりの困難を伴うのではないか、ということだ。


6)「種」と飢饉用の「ストック」は本来分けて考えられるべきかも

今目の前にある穀物を全部食べずに残す、ということをやることによって、過去には収穫高の増加を図ってきたことは事実であろう。そして、蔵には種としても使えるけど、飢饉の時のストックとしての役割を持つ穀物が蓄積されてきたのである。通常状態の時には、蔵に貯蔵してある中から何粒かを取り出してきて種として使うけれども、突発事態の時には非常時の食糧としても用いるということである。
本来は、単なるストックとしての穀物は「増えない」のだ。
増える部分というのは、種として取り出してきて新たな作付を実行でき収穫高増加の達成された部分のみ、ということのはずなのである。

しかし、現代社会の経済では、そうはなっていない。
貯蔵してある穀物は、ほぼ全部が「種としての収穫増」を前提としているのである。まさに、膨大な「種余り」現象を引き起こす、ということになるわけである。本当は、貯蔵穀物は自然に増えたりはしないのに、である。
いざという時の為に、現在消費よりも将来時点での価値の高い消費に備えて貯蔵しているものであるはずなのだ。それなのに、口だけ上手なペテン師の如き人たちや、出鱈目を並べて幻惑する狡い人たちがやってきて、ただ蔵に置いておくのは愚か者のすることだ、種として貸し出せ、と言って、うまいこと口車に乗せてきたのだ、ということではないかな。


実際には、「将来の収穫で返すから」という約束で、乱痴気パーティーを開いて好き放題に食ってしまったようなものなのだ。しかも貸し出す時には将来時点の収穫で返すと言っていた穀物は、水害だの日照りだので激減してしまって「やっぱ返せないわ」とトンズラされた、というようなものである。世界経済危機というのは、そういったものだったということ。


特に米国のような借金帝国は、「将来の収穫から返すよ」と約束していても、未だ誰もそんな収穫量をあげているのを見たことがないほどの量の種を借りているのである。そんなに作付できる土地(=有望な成長産業等)が残っているのだろうか?
それは相対量などではなく、絶対量としての種、ということだ。

将来収穫から返すという約束で、1000粒返して1100粒を借りる、次の年は1100粒を返して1200粒借りる、次は1200粒返して1300粒借りる、これを繰り返しているのと何が違うのだろうか?(笑)アメリカの借金というのは、そうやって大きくなってきた。新たに作付した部分の収穫量増加分が100粒より少しばかり多かったので、この自転車操業のような仕組みは壊れることがなかった、というだけに過ぎないだろう。実態は、返せる保証などどこにもない、無限借り換えという手法に過ぎないのである。