すでに12年前に「会社人間」から解放されていたので気が付かなかったが、大部分の企業では昨日が「御用納め」だったらしい。
若いときは9時過ぎから各フロア毎に大掃除を始め昼前には久々に片付ききれいになった机を寄せて宴会モードに入っていたことを懐かしく思い出した。
我が家の近くには地元の自治会が管理している小さな公園があり、午前中は園庭が狭い保育園の小さな子供たちが保育士に連れられて騒がしかったのだが急に静かになったのは、小中学校はじめ幼稚園などは先週の金曜日で今年の行事は全て終了していたことに気づいた次第。
老夫婦だけの暮らしだと定期的に外出する機会も少なく行動範囲がせまくなり、一般世間の動向には疎くなってしまう。
1週間のスケジュールは「ゴミ置き場」に運ぶ分別された「空き缶・空き瓶・空きペットボトル」や「プラスティック資源ゴミ」、「ミックスペーパー資源コミ」そして週2回の「生ゴミ」等の回収によって、その日の曜日を意識する程度である。
さらに、朝の情報番組で羽田や成田空港から出発する多くの家族連れや、高速道路での渋滞に巻き込まれている様を見て、「おやおやご苦労なこと」という感想しか湧いてこない。
それは夫婦共に病気に悩まされているわけではなく、それなりの三度の食事を摂ることができるささやかな日常を送ることができるからかもしれない。
しかし「アベ・スガ政治」によりこの10年近くは日本の姿が大きく変容してきているという。
同志社大学大学院ビジネス研究科教授の浜矩子さんは2022年末に政府が決めた新しい防衛力整備計画(23年度から5年間で総額43兆円)について「(東日本大震災の)被災地救済のための特別税を転用すること」「建設国債を防衛費に使うこと」は許せないと憤る。 ロシアのウクライナ侵攻や中国の拡張主義を目の当たりにしても「日本ぐらいは自分の国は自分で守るという考え方に与しない。それが平和憲法の精神で本当の積極的平和主義だ」とし、防衛力強化論に反論する。 日本の活性化策については、豊かさのなかの貧困が問題で、それを解決するには分配政策が重要だと指摘。いま追求すべきは「全体最適ではなく全員最適」「偏在ではなく遍在」と政府に注文する。 企業の内部留保がなぜ多いのかを追究して対策を考えるのも政府の役割だ。日本没落論については「さらに成長を求めるのではなく、成熟日本でどんなおもしろいことが出来るのかを考えたほうがよい」とした。 |
ところで、多くの国民は大した関心を持ってはいない「学術会議」の「在り方」が政府の介入によって大きく変わるという。
12月)6日、内閣府は、まことに唐突に「日本学術会議の在り方についての方針」を公表した。
この「方針」は、学術会議の会員の選考と運用に政府が介入することで、同会議の独立性・自律性を根幹から変質させる内容と批判せざるを得ない。
しかも、政府はこの方針を盛り込んだ法案を来年の通常国会に提出し、この国会で成立させるという。
当然ながら、この「方針」に対して、12月21日、日本学術会議総会はこれを批判して再考を求める声明を採択した。
「日本学術会議の在り方についての方針」
さらに同月27日、日本学術会議梶田会長による「声明に関する説明」が発表され、同日の「学問と表現の自由を守る会」声明となった。
「内閣府「日本学術会議の在り方についての方針」 (令和 4 年 12 月 6 日)について再考を求めます」
そもそも学術会議は、科学者が戦争に協力したことの反省から生まれたのだが、平和主義を掲げる国家の学術機関として、科学者の自主性・独立性が尊重されてきた。
学術は、国家目的に従属してはならないとして、これまで学術会議は軍事研究に反対する声明を繰り返し出してきている。
これが、現在の政権にとっては目障りなのであり、軍事優先の国家構築に舵を切ろうとしている現在、学術会議の硬い骨を抜いておかねばならないというのが政府の本音なのかもしれない。
学問が権力の下僕となり下がることの危険を日本国民は戦前の体験から身に沁みているため、憲法23条(学問の自由・学の独立)が存在するのである。
学術会議の政府からの独立性・自律性を失うことは、広く国民・市民の、学問、思想、良心、表現、信教等の精神の自由一般の喪失につながり、強権的国家の戦争への道を開くことにもなりかねない。
学術会議の会員人事の自律性は、学術会議の独立性の根幹をなすものであり、提出予定とされる法案は、会員選考のルールや選考過程への「第三者委員会」の関与が明記され「内閣総理大臣による任命が適正かつ円滑に行われるよう必要な措置を講じる」との文言まであるものという。
明らかに、政府の息のかかった人物を通じて学術会議を支配しようとの魂胆が透けて見える。
こんな政府の動きはかつての「戦争前夜」みたいだと指摘する人もいる。
それでは現在の岸田文雄政権は本当に戦争ができる国にして戦争を始めるのだろうか。
これについては懐疑的な見方もある。
「内田樹「政権延命をはかる『戦争カード』は失政から国民の目をそらす」
政府は国家安全保障戦略ほかの安全保障関連3文書を閣議決定した。「反撃能力」保有が明記され、日本は「戦争ができる国」に向けてさらに一歩を進めた。同盟国に対して防衛費をGDPの2%以上にすることを求めていた米国に対して岸田首相は防衛費増額を約束していた。実現すると日本は米国、中国に続く世界第3位の軍事大国となる。 2015年の集団的自衛権の行使容認で日本は平和主義放棄へと大きく方向転換したが、この閣議決定で日本が戦争の当事国になるリスクは戦後最高レベルに達した。だが、その危機感が政府には感じられない。 戦争の切迫を実感していれば、戦争を回避する外交的な手立てが何より先に論じられてよいはずだが、誰も論じていない。万一戦端が開かれた時には、どうやって国民と国土を守るのかが最優先課題のはずだが、誰も論じていない。 この不作為が意味しているのは岸田政権は日本を「戦争ができる国」にすることにはたいへん熱心だが、「本気で戦争する気はない」ということである。それよりはむしろ「する気はある」のだが、法整備と財源のこと以外は何も考えていないので「する能力はない」という方が適切か。 多くの人が指摘しているように、日本海岸に林立している原発にミサイルを撃ち込まれたら、相当数の国民が犠牲になり、国土の相当部分は半永久的に居住不能になる。それがわかっていながら政府は原発稼働・新設に前のめりである。サプライチェーンが途絶する以上は、食糧増産やエネルギーの戦略的備蓄をとうに始めていなければならないはずだが、何もしていない。 何より戦争をする気なら、国論の統一と挙国一致体制の構築が急務のはずだが、政府は支持率30%以下に低迷している内閣の閣議決定だけで重大事を決し、70%近い内閣不支持の国民の言葉には耳を貸す様子がない。 ここから推理できるのは政府とメディアが「戦争が近い」と煽(あお)り立てるのは国内向けのプロパガンダだということである。失政から国民の目をそらし、政権延命をはかるために「戦争カード」を切ってくるとは、君らは正気を失ったのかと言う他ない。 |
確かに内閣支持率が30%前後というほとんど「レームダック」状態なので岸田文雄からすれば「内憂」だが、決して「外患」という状態ではなく、むしろポンコツ閣僚を任命しながら「任命責任をとれないという岸田文雄自身の問題であり、「内患」なのでろう、とオジサンは思う。