新・定年オジサンのつぶやき

残された日々をこの世の矛盾に対して勝手につぶやきます。
孫たちの将来に禍根を残さないよう、よき日本を「取り戻したい」。

国葬は、むしろ民主主義の精神と相反する制度である

2022年08月15日 11時26分26秒 | 安倍晋三国葬

よく使われる「スピンオフ」は、英語の「spin off」に由来しており「spin off」とは、「回転する」という意味の「spin」に、「離れる」という意味の「off」を組み合わせた単語である。
 
物が回転すると遠心力によってくっついていた物体が離れることから、予期せず生まれた「副産物」や「派生物」を指すようになった経緯がある。
 
岸田改造内閣も期待したほどの効果はなかったが、残念ながら新内閣のメンバーにも旧統一教会汚染者がいたりして、かなり評判は悪いことはいまさら言うまでもない。
 
日刊スポーツNEWSデジタル編集部デスクの中山知子が自分のコラムで「スピンオフ」という言葉を使ったこんな記事を書いていた。
 
『失敗』説濃厚の内閣改造の裏で岸田首相が仕掛けたしたたかな「スピンオフ人事劇場」  
 

岸田文雄首相が主導した「守りのための攻めの奇襲」による内閣改造が終わり、ふたをあけてみればかなりの顔ぶれが変わる大規模な表紙替えとなった。今、国民の高い関心が注がれる、自民党国会議員と旧統一教会との関係を断とうと、関係が指摘された7人の閣僚を外したが、それでも接点のある新閣僚、副大臣、政務官がゾロゾロ。旧統一教会側と自民党議員との関係の根深さがあぶり出される皮肉な結果となり、改造直後はしばしば「ご祝儀相場」となるはずの支持率も上がらない。短期的に見れば、今回、首相によって強行された内閣改造は、失敗だったとの見方が大半だ。
一方で、今回行われた自民党役員人事と内閣改造には、長期的な観点で見た場合、いくつかの仕掛けが仕組まれている。ドラマでいえば「伏線」。将来、「この仕掛けはそういう意味だったのか」と思い返せるかもしれない、人間関係や政治的背景…。本筋のストーリー(内閣改造)とは別の「スピンオフ」的な観点で見ると、岸田首相のしたたかな戦略がにじんでくる。
たとえば…
<1>【ライバルにお目付け役?】自民党役員で留任した茂木敏充幹事長と、選対委員長から役職がスライドした遠藤利明総務会長は、1993年衆院選の初当選同期。スタートはともに自民党ではない。自民党から政権を奪い、一時非自民の連立政権を担った日本新党の出身(茂木氏は公認、遠藤氏は無所属で推薦を受けた)で、その後自民党に移った。茂木氏は実務能力の高さが評価される半面、人柄にはさまざまな評価もある。ただ今や派閥を率いる立場で「ポスト岸田」をねらう立場でもある。一方、遠藤氏は、選対委員長から党の最高幹部の位を示す「党3役」の一角の総務会長に昇格。その理由として、茂木氏の「お目付け役」的存在になるためではないかとの見方があるようだ。
前の総務会長は当選4回の福田達夫氏で、茂木氏より年も当選回数も下。だが、遠藤氏は同期で年も上。しかも、岸田氏に近く信頼が厚い。総務会は党の重要な意思決定機関で、選対委員長時代より発言力は増す。そんな側近を「ポスト岸田」を目指す茂木氏というライバルの近くに置けば、茂木氏も「福田氏の時よりやりにくいはず」(自民党関係者)との声を耳にした。
<2>【裏のテーマは…】経産相から、党の政策全般を仕切る政調会長に“異動"した萩生田光一氏。亡くなった安倍晋三元首相の側近で、今も多くの関係者が「将来の安倍派会長」最有力とみる。経産相を外れることには未練があったとされるが、一方、そのポストに起用されたのが、萩生田氏同様に安倍派会長を狙う1人、西村康稔氏。重鎮の後押しもあり野党時代の2009年自民党総裁選に出馬したこともある。菅政権では経済再生相として新型コロナ対応も兼ね、連日会見にも登場した。岸田政権ではしばらく無役だったが、新たな立場でチャンスがめぐってきた。安倍派の将来を占う2人のライバル同士が、党と政権、目立つ立場で活動するこの「行ってこい」人事。お互いに意識すればするほど「消耗戦」になるとの見方もある中、次期安倍派派閥会長レースという重大な「裏テーマ」を設定した首相の思惑は…。
<3>【囲い込み】昨年の自民党総裁選を岸田首相と戦った河野太郎氏がデジタル相、高市早苗氏が政調会長から経済安保担当相として再入閣した。閣僚となれば、時の政権の方針に沿い協力しなければならない。2人とも、首相による「一本釣り人事」といわれている。次の総裁選に出馬する可能性もある、自身にとっての2人のライバルを、結果が求められる閣僚に取り込むことで、良くも悪くも政治家としての評価を、外から見えやすくしたのではないか。自民党の幹部よりは、閣僚のほうが表面的な動きは多い。なかなか巧妙だ。
<4>【挙党態勢に見えて…】遠藤氏に代わり、「党4役」の選対委員長に就任した森山裕前国対委員長は、岸田首相と距離を置く二階俊博前幹事長の側近で「自民党内非主流派」の大物の1人。与野党にパイプを持つ森山氏の起用は、挙党態勢の一環でもある。一方で、選対委員長に課せられた今後の大きな仕事の1つが、衆院の選挙区割り改定「10増10減」の調整。対象議員の怒りや恨みも買いかねない中での調整役となる。難しさが伴う作業が予想され「ポストを得られたとはいっても、楽な仕事ではない」(関係者)。調整にたけた森山氏でないと御せない面もあると踏んでか、こういう局面ではベテランの手腕にすがったということかもしれない。
首相は今回の内閣改造と自民党役員人事で、自らの政権運営がうまく運ぶように、さまざまな仕掛けを行ったような気がしている。岸田改造内閣スピンオフ劇場。もちろん、本筋のドラマ(主演岸田首相)が最も見応えがなくてはならないが、本筋のストーリーでは、依然、旧統一教会との関係をめぐって混乱が続く、悪循環。ねらったスピンオフでの仕掛けがうまくはまるとも限らない。少なくとも、旧統一教会の問題をぬぐい去れていない岸田首相は、かなり前途多難だ。
 
「岸田首相のしたたかな戦略」とは、本人が直接行ったわけではなくあくまでも周囲が党内運営上の人事を見ての 評価であろう。
 
しかし昔からよく言われるように、自分が選んだ人間が思うように動かなければ、単なる「策士策におぼれる」ことになる。
 
特に、安倍晋三ほどの狡猾さに欠ける岸田文雄にとっては至難の業かもしれない。
 
ところで、日刊ゲンダイに7年前から「井筒和幸の『怒怒哀楽』劇場」というコラムで、辛口コラムを精力的に書いている井筒和幸映画監督は、最近の気に障ることを怒っていた。
 
総理は戦地には行かない。命令する奴は押印かサインをするだけだ
 
また書かずにいられない。気に障るからだ。昔の岸信介の時なら「安保反対! 安保反対!」だが、今なら「国葬反対! 国葬反対!」のデモも起きて当然なのに、くそ暑さとコロナのせいか、まったく騒ぎにならない。国民の半数が「理由が分からない」と反対してるのに社会はフニャフニャしている。国民はもうそんなことはどうでもいいわ、疲れたわ、ってことか。おまけに、怒りようがない空気圧が社会を覆っているようで気味悪い。岸田はどこを見てるのか分からない目で言った。「民主主義を守る覚悟でやる」と。ふざけるな。半数の国民を無視しておいて何を守るっていうんだ。あざとい政府め。国会でロクに審議もしないで、「閣議で決まった」のひと言で国の全額負担でやってしまうのか。それが専制政治だ。あざとい寄付金集めの旧統一教会とうまくやってきたんだ。許しがたい。
 このまま葬式を済ませて次は憲法改変か。自衛隊を国軍に格上げしたいんだ。で、台湾で戦争でも起きたら米軍を助けに集団的自衛権で出兵だ。災害出動じゃない。隊員たちは怖いだろうが政府の命令なら嫌とは言えない。
 安倍政権が集団的自衛権の解釈を変えて法案を通してしまったんだから仕方ない。ヘタしたら「行け!」だけでPTSDかもだ。脱走したら軍法会議だ。まあ、行きたくない紛争地で弾に当たるよりマシかもだが。うちの現場の照明部の若者で、戦車隊にいた時に砲筒の爆音で精神疾患になって自衛隊を辞めてきた奴がいたが。いやー怖い怖い、誰が行くんだろう。でも、国軍に格上げと憲法で決めたからにはどこでも行くしかない。国軍の最高指揮官は総理大臣だ。総理は戦地には行かない。命令する奴は押印かサインをするだけだ。
 昔の大日本帝国の司令官はよく腹を切ったものだ。ちなみに、大東亜戦争の敗戦記念日も近いことだし、何作品か紹介してみようか。14日は天皇の御前会議でポツダム宣言受諾を決めた帝国政府が大騒動になった日だ。故・岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」(1967年版)が見事に描いていて、暑さもぶっ飛ぶほど緊迫してゾッとさせられる。降伏するまでの一日の動きは、近年の松竹版より分かりやすい。そして、受諾拒否して本土決戦するべきだと突っ張る三船敏郎扮する阿南陸相の切腹シーンがエグい。さらにもう一本、血の気が引いて暑さも忘れさせる切腹シーンが用意された「あゝ決戦航空隊」(74年東映)も面白い。こっちは神風特攻隊を画策し、2000万特攻を考えていた大西中将と抗戦を続けたかった軍人たちの群像劇で「仁義なき戦い」の脚本家、笠原和夫の力作だ。ここでは鶴田浩二扮する大西の画面中血まみれの切腹シーンが空前絶後のエグさだ。敗戦の日はあちこちで切腹や自決者が続出したようだ。
 そんな土壇場までこないと、戦争を終わらせることができなかったのかとつくづく考えさせられる映画だ。これらは岸田の改造内閣こそ見るべきだな。国軍に拘っている連中もいるだろうし。

 
さて、週刊「金曜日」が真正面から「国葬反対」という特集号を出していた。
 

 
「国葬の成立 明治国家と「功臣」の死 単行本 – 2015/11/18」という本を上梓している、日本では「国葬」に関する専門家でもある宮間純一は、今回の岸田文雄の安倍晋三の国葬実施に対しては過去の例を挙げてこのように徹底的に批判していた。
 
岸田文雄首相は7月14日、演説中に銃で撃たれて亡くなった安倍晋三元首相について、今年の秋に国葬を行うと発表した。「岸田首相は『暴力に屈せず民主主義を断固として守り抜くという決意を示していく』と述べたが、国葬という制度が本来的にもっている性質を理解しているとは思えない」という——。 
 
撃たれて死んだことは理由にならない…「安倍元首相の国葬」に国葬の専門家が「やるべきではない」というワケ
 
■「民主主義を断固として守り抜く」への違和感

岸田文雄首相は、2022年7月14日に開かれた記者会見にて、凶弾に倒れた安倍晋三元首相の葬儀を今秋に「国葬儀」の形式で行うと発表した。
その理由として挙げられたのは、①憲政史上で最長期間首相を務めたこと、②さまざまな分野で重要な実績をあげたこと、③国内外から哀悼の意が寄せられていること、の3つである。そして、「安倍元首相を追悼するとともに、わが国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜く」と国葬の意義を語った。
私は、この会見の内容を目にして恐ろしさを覚えた。
3つの理由は、どれも納得できるものではないが、事前の報道で話題になっていたこともあって驚きはしなかった。ただ、岸田首相の言葉にある「民主主義を断固として守り抜く」は意味がわからなかった。不当な暴力で亡くなったからといって、安倍元首相を国葬にすることがどうして民主主義を守ることになるのか。私の理解では、国葬はむしろ民主主義とは相いれない制度である。
歴史家の立場から、過去にさかのぼってこの時感じた恐ろしさを説明してみたい。
■暗殺された大久保利通が「国葬」となった理由
国葬とは、国家が主催し、国費をもって実施する葬儀のことをいう。
日本では、天皇・皇太后などのほか、明治以降1945年までの間、天皇の「特旨(とくし)」(特別な思し召し。)によって「国家ニ偉功アル者」の国葬が行われていた。国葬の初例は、1883年に行われた岩倉具視の葬儀だが、制度こそなかったものの1878年の大久保利通の葬儀は国葬に準ずる規模で催された。
大久保は、5月14日に石川県士族島田一郎らに暗殺され、そのわずか3日後には葬儀が盛大に行われた。かつてないほどの大がかりな葬儀を、なぜこれほどまでに急いで実施しなければならなかったのか。暗殺されたのだから事前の準備はない。

葬儀を主導したのは、大久保の後継者として内務卿に就いた伊藤博文と、大久保と同じ薩摩藩出身の西郷従道・大山巌らである。彼らが心配したのは、政府の最高実力者であった大久保が不平士族の手にかかって落命したことで、反政府活動が活発化することであった。前年には、西南戦争があったばかりで、不平士族はもちろん、自由民権派の活動などへも政府は警戒を強めていた。明治政府は、この段階ではまだまだ盤石ではなかった。
■安倍政権の評価を固めるためではないのか
そこで、伊藤たちは、天皇が「功臣」の死を哀しんでいる様子を、大規模な葬儀という形で国内外に見せつけようとした。葬儀を通じて、天皇の名の下に島田らの「正義」を完全否定し、政府に逆らう者は天皇の意思に逆らう者であることを明確にした。大久保の「功績」を、天皇の「特旨」をもって行われる国家儀礼で揺るぎないものとし、それによって政権を強化しようと葬儀を政治利用したのである。
そしてこの葬儀は、一般の人びとを巻き込んで執行された。かつてない規模のセレモニーを一目見ようと人びとが集まり、葬列はさながらパレードのような状態となった。
私には、伊藤たちの思惑が岸田首相の発言と重なった。表面上は、民主主義を守ると言っているが、多数残されている安倍元首相の疑惑を覆い隠し、安倍政権の評価を固めて自民党政権を守ろうとしているのではないか、と。
■死を悼むため国民の歌舞音曲は停止する
岩倉具視以降、1945年に実施された載仁親王(閑院宮)まで21名の国葬が、天皇の「特旨」によって執り行われた。
厳格な基準があったわけではないが、太政官制で太政大臣・左右大臣を務めた人物、旧薩摩・長州藩主、元老などが選ばれている。1885年に内閣制度が導入されてからは、閣議決定の後、首相から天皇に上奏し、裁可(天皇による決裁)を経て執行する手続きが取られた。内閣によって葬儀掛が組織され、計画・実施の中心的役割を果たした。
国葬は、回数を重ねる中で形式を整えてゆく。「功臣」の死を悼むために天皇は政務に就かない(廃朝)、国民は歌舞音曲を停止して静粛にする、死刑執行は停止するといったことも定型化する。私は、このような国葬の形式がおおよそ整ったのは、1891年の三条実美の国葬だと考えている。
■国葬とは天皇から「功臣」に賜るもの
三条の場合には、葬儀の現場東京から離れた町村・神社・学校などでも追悼のための儀式が実施された。また、メディアが発達したことを背景に、新聞などを通じて三条の死が「功臣」たるにふさわしい業績・美談とともに広められてゆく。全国各地の人びとは、三条の追悼行事に参加することで、「功臣」が支えたとされる天皇や国家を鮮明に意識することになる。
近世までの民衆は、自分が日本人であるという自己認識はもっていなかった。そもそも近世に、日本という国家は存在しない。大多数の人びとは、将軍や大名に対する従属意識はあっても、天皇が何者なのかはよく知らない。
明治政府は、そうした人びとを「国民」に変え、国家の構成員としなくてはならなかった。その政策の柱の一つとして、天皇は国家統合の象徴として演出され、万世一系の元首として振る舞った。天皇から「功臣」に賜る国葬は、そうした国民国家の建設のさなかに、国家統合のための文化装置として機能することが期待されて成立した。

■なぜ戦死した山本五十六は「国葬」とされたのか
もっともわかりやすい例は、山本五十六の国葬であろう。山本は、第2次大戦中の1943年に、戦局が悪化する中、ブーゲンビル上空で米軍機に撃たれて戦死した。山本は、先例に従えば本来対象とならないが、天皇の「特旨」によって国葬を賜ることになった。
国葬に際して、東条英機首相は、「一億国民の進むべき道はただ一つであり」、山本の精神を継承して「米英撃滅」に邁進し、「宸襟(しんきん)」(天皇の心。)を安んじなければならない、と国民にうったえた。国民的人気が高かった山本の戦死を利用して、戦時体制を強化しようという意図があからさまである。
銃後の母親たちには、国葬当日「弔旗を掲げるにしても、神棚へお燈明を上げて礼拝するにしても、お母さんたちは故元帥の遺志は自分たちがお継ぎするという気持を持ち、元帥こそは吾国民の鑑であることをよくお子さんたち達に説明してからにしていただきたい」などと指示が出された(『朝日新聞』1943年6月5日朝刊)。
国葬を通じて、国民はみな山本の遺志なるものを継いで、戦争に協力することを強要されたのである。
極端な例を挙げていると思われるかもしれないが、本質的に国葬は、国民を一つにまとめようとして実施されるものである。国家の危機に際して、山本の国葬ではその性格がむきだしになって表れたのである。
■戦後唯一の例外「吉田茂元首相の国葬」
敗戦後、国葬令は1947年12月31日をもって失効した。
1946年には、地方官庁および地方公共団体に対して「公葬その他の宗教的儀式及び行事(慰霊祭、追弔会等)は、その対象の如何を問わず、今後挙行しないこと」と、国から通達が出されている。国葬をはじめとする公葬は、神式で行われてきた。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が、神社・神道を政治から切り離して「国家神道」を解体しようとする中で、公葬も必然的に禁止されることになる。以後、現在に至るまで国葬を行うための直接の根拠となる法令は作られていない。
戦後唯一の例外として吉田茂の国葬が知られている。
1967年、吉田が急死すると外遊中だった佐藤栄作首相は急遽帰国し、国葬実施のための調整を進めた。まもなく閣議で国葬が正式決定し、佐藤は「もっとも苦難にみちた時代にあって、七年有余の長きにわたり国政を担当され、強い祖国愛に根ざす民族への献身とすぐれた識見をもって廃墟と飢餓の中にあったわが国を奇跡の復興へと導かれた」との談話を発表した(『朝日新聞』1967年10月23日夕刊)。
日本武道館で行われた葬儀は、国内外から約5000人の参列者を得て、宗教色を排除して実施された。皇太子夫妻(現・上皇、上皇后)も出席している。九段下には約8500人の群衆が詰めかけ、大磯の邸宅から武道館までの道のりには約7万人の人だかりができたという。
だが、吉田の国葬にはだれもがもろ手を挙げて賛成したわけではなかった。
■国葬はむしろ「民主主義の精神」と相反する制度
国葬当日の渋谷駅前のハチ公前広場では、共産党や民主団体の宣伝カーが反対演説をしてビラをまいていた。革新系首長の自治体では、平常どおり業務が行われていた。東大駒場キャンパスには、「するな黙祷、許すな国葬」と書かれた立て看板があった。国葬に関心を示さない人も多かった。浅草六区では黙祷の合図のサイレンがなっても誰も足を止めない。東京駅でも、スピーカーで黙祷の合図が知らされたが、足を止めて目を閉じたのはごくわずかであった。銀座の女子高校生は黙祷している人をみて「あれ、なにやってるの」と言う始末だったという(『朝日新聞』1967年10月31日夕刊)。
吉田の国葬では、もはや戦前の国葬のような風景は見られない。
安倍元首相の国葬をめぐっては、安倍政権への疑惑や国費の使用、政教分離、決定までの手続きなどが主な論点となっている。それらも、もちろん重要な問題だと思う。だが、岸田首相の発言にふれて、国葬についていくらかの知識と関心を持ち合わせていた私の頭をよぎったのは、時代を逆行しているかのような恐ろしさであった。
国葬という制度が本来的にもっている性質を理解していれば、国葬を実施することにより、「民主主義を断固として守り抜く」という発想が出てくるはずがない。国葬は、むしろ民主主義の精神と相反する制度である。国家が特定の人間の人生を特別視し、批判意見を抑圧しうる制度など、民主主義のもとで成立しようはずがない。
■なぜ歴代首相の葬儀は、国民葬や合同葬だったのか
「功臣」の国葬は日本史上ですでにその役目を終えている。戦後実施された吉田茂の国葬は、政府が期待したほどには盛り上がらなかった。その後、佐藤栄作をはじめ歴代首相の葬儀は、反対意見を無視できずに国民葬や合同葬にスケールダウンせざるを得なかった。まさか復活するとは夢にも思わなかった。
今年の秋に、山本五十六の国葬のような状況が再現されるとはさすがに私も考えていない。吉田の国葬の時のように、無関心な層が多いかもしれない。だが、国葬とすることで国家が安倍元首相の業績を特別視し、批判意見を抑圧してしまう恐れがある。安倍元首相の追悼記事の多くは、「批判に対して寛容な人柄だった」と伝えている。そうだとすれば、国葬は安倍元首相の遺志にも反するのではないだろうか。
何も考えないで沈黙していれば、日本国民がみな彼を称え、自民党政権の業績を認めているという既成事実が創られてしまう。意見はいろいろあって良い。私の発言は、たたき台でよいから、一人でも多くの人にこの問題について考えてほしい。


 
どのような遺言を残しても自分の死んだ後の「葬儀」は見届けることができない。
 
葬儀はあくまでも遺族が主体となって故人を見送る儀式なのだが、ひとたびその対象が政治家となると、しかも国葬となれば主催者の思惑が前面に出てくることは火を見るより明らかであろう。
 
国葬という制度が本来的にもっている性質を理解していれば、国葬を実施することにより、「民主主義を断固として守り抜く」という発想が出てくるはずがない。国葬は、むしろ民主主義の精神と相反する制度である。国家が特定の人間の人生を特別視し、批判意見を抑圧しうる制度など、民主主義のもとで成立しようはずがない。」という言葉を声を大にして岸田文雄に贈りたいと思うのだが、残念ながら「聴く力」はもう残ってはいないのだろう、とオジサン思う。 
  
  

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 極右の国粋主義者の安倍晋三... | トップ | 岸田内閣に「獅子身中の虫」... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

安倍晋三国葬」カテゴリの最新記事