今日は「新聞休刊日」である。
新聞休刊日は、販売店の慰労・休暇、および新聞社における輪転機や製作システムのメンテナンス作業に充てられるらしいが、新聞社の取材活動や記事の作成・編集は休刊日も体制を縮小して実施され、Web版の記事の配信もない。
世の中の出来事は休刊日に関係なく時々刻々と発生しているので、現場の記者たちには休刊日は関係ない。
オジサンの住んでいる地域の販売店は、合同販売店という複数の新聞社の新聞を取り扱う販売店なので、従業員も休暇を取れるようにするため、各紙の休刊日は揃いやすい傾向にある。
この休刊日の歴史を見てみると、意外に古くから行われてきたようで、以下のような変遷を経て今日に至っている。
■1956年までは年2回
■1957年~1967年まで:年3回
■1968年~1972年まで:年4回
■1973年は祝日以外の日曜日にも新設され、年6~9回程度
■1991年~2001年までは毎月実施
■2002年~2017年まで:年10回
■2018年は3月以外の毎月で実施
■2019年以降は毎月実施されている。
そんなわけで、今日は新聞ネタをやめて、「五輪反対派」のオジサンが推薦したい本と内容の一部を紹介したい。
「やっぱりいらない東京オリンピック」という岩波ブックレットが今年の2月6日に発行された。
神戸大学教授の小笠原博毅と星城大学教授でスポーツ社会学専門の山本敦久の共著である。
「東京オリンピック・パラリンピックが抱える諸問題を徹底検証。市民がこうむる多大な負担、過度な重圧に晒されるアスリートたち、歪められるスポーツのかたち、そしてますます不自由になる社会……。「決まったものは成功させよう」という思考停止を抜け出し、「こんな祭典は必要ない」とハッキリ言うための論点を提示する。」
「社会とスポーツに寄生しつつ、社会もスポーツも食い潰していく現代オリンピック。感動と興奮を引き換えに私たちを取り込む巧妙なカラクリと、その裏で積み重ねられる利権、不自由、そして排除とは―。もはや「決まったからには成功させよう」では何も解決しない。「仕方がない」と諦めず、「必要ない」とはっきり断るために必要な論点を網羅する。」
という商品内容の説明がある。
amazonのカスタマーレビューでは「★5つ」が多くかなり高い評価である。
その中の「★★★★★」のレビューの一部を紹介する。
私は「2020年東京オリンピック・パラリンピック」(いわゆる東京五輪)に反対です。あとで述べますが理由は複数あります。
いまここでひとつだけ挙げるなら2011年の東日本大震災の復興に何の役にも立たないからです。
本書の表現を借りるならば東京で五輪を開催したからと言って失われた命、家、暮らしは決してもとに戻ることはないからです。
本書はこのような問題点について具体的かつ的確に記述しています。
「はじめに」と「おわりに」を別にして
4つの章から成り章題は次の通りです。
1)やってはいけない東京オリンピック
2)参加と感動のからくり
3)オリンピックに支配されるスポーツ
4)社会を息苦しくするオリンピック
2017年4月新国立競技場の建設現場で現場監督だった青年男性(当時23)が「身も心も限界だ」というメモを残して自殺したことを覚えていらっしゃるでしょうか?
新国立競技場の建設は国家事業です。
しかし実際に「作って」いるのは建設労働者であり左官工であり職人であり材料の運搬者です。
突貫工事によるこのような「不幸な事故」に対する責任の所在者として新国立競技場を
①発案し
②号令をかけ
③デザインを手がけ
④設計し
⑤資金を調達した
者たちの名前を残すべきであるという著者の提言に賛成します。
東京五輪のために重機などの大型建設工機が東京近辺に集中されたおかげで東北や北関東など東日本大震災の被災地では「重機がない」という話もしばし聞きます。
これでは真の復興五輪ではなくイメージとして「復興に幕を引くための五輪」ではないかと心配でなりません。
重機を必要とするのは東北・北関東のみならず大雨の災害のあった広島県大地震のあった熊本県同じく北海道や大阪府など不幸にして複数の道府県を挙げなければなりません。
それゆえ「優先順位1位」は五輪ではないと考えています。
私が東京五輪に反対する理由の第一は「真の復興が先」だからです。
そもそもこの社会の来し方・行く末を考察してみますと五輪よりも優先順位が高いものはいくつも挙げることが可能です。
・保育園の待機者多数。
・特養(特別養護老人ホーム)
(介護老人福祉施設)の待機者多数。
・年金制度(に対する不安と不信)。
・国民健康保険制度(の諸問題)。
‥いずれも膨大な予算を必要とするものばかりです。
私が東京五輪に反対する理由の第二は「もっと他にやるべきことがある」です。
私のような素人が考えても五輪まではインフラが整備されそのために多額の税金が投入され「祝賀資本主義」が促されることでしょう。
その後の経済が心配です。
なぜなら21世紀に入ってから夏の五輪を開いた4カ国がどうなったか指折り復習してみましょう。
・2004年 ギリシャのアテネ‥ギリシャ経済危機は有名です。
・2008年 中国の北京‥中国経済も頭打ちとなり米国とは摩擦を生じています。
・2012年 英国のロンドン‥EUからの離脱をめぐって国じたいが大混乱。英国から資本の撤退も始まっています。
・2016年 ブラジルのリオデジャネイロ‥インフラ投資の反動と景気の悪化で財政難となり結果、治安も悪化しました。
つまり五輪の後に経済が悪化し財政難となるのはおおむね予想された現象のようです。
日本だけが免れる積極的な理由を私は見出すことができません。
よって本書の著者の発想を借りて五輪を招致し推進した者たちの名前を(その後の経済悪化と財政難の責任者となりうる蓋然性が高いので)きっちりと残すべきであろうと考えます。
必要なら橋の欄干に名前を刻んでいいかもしれません。
私が東京五輪に反対する理由の第三は事後に経済的な落ち込みが予想されるからです。
「招致」に関して振り返ればある日、突然、某都知事(当時)が言い出したような記憶があります。
それは選挙の公約でもなかったし国民投票ないし都民投票にかけたわけでもありません。
もともとこの某都知事は「横田基地の返還」を選挙公約に掲げて立候補しました。
20世紀の終わり頃です。
結果として横田基地はいまだ返還されず横田管制つまり横田空域も返還されていません。
そのため2017年11月5日私の家の斜め上を米国大統領専用機とその予備機が飛んで行き「直接」横田基地に着陸しました
最近まで知らなかったのですが、これは歴史上「初」の出来事であったそうです。
それまでは外交上の表玄関である羽田空港に米国大統領専用機は着陸していました。
横田基地に直接着陸することでひょっとすると米国大統領は軍事的なプレゼンスを示したかった
のかもしれません。それとも横田基地と横田空域は米軍の「アンダー・コントロール」であることを再認識させたかったのでしょうか。
いずれにせよ私が東京五輪に反対する理由の第四は招致に至る経緯が不透明だからです
・・・中略・・・
1984年のロス五輪から五輪は商業の一環となり「神々に捧げる」ものではなくて「金に拝跪する」ものになってしまいました。
・・・中略・・・
私が東京五輪に反対する理由の第六は五輪の商業主義にあります。
(もし本当にアスリート第一ならば酷暑の8月に開催するべきではありません)
(神々に捧げるものではなくて北米大陸のテレビ視聴者に見せるものでしょうか)
五輪招致や開催が一度決まれば「後戻りできない」のだから「新しい発想」で「別の楽しみ方」をと言った建設的発言を始める人たちを本書は「どうせやるなら派」と名付けています。
この定義と分析は本書の白眉です。
詳細は本書にゆずりますが「どうせやるなら派」の論理構造を知って「これはどこかで見た(聞いた)ぞ」とデジャヴュ感に襲われました。
それは「英霊にすまない」という理由で東京をはじめ国中が焼け野が原となる(広島と長崎には原爆が投下される)まで戦争をやめなかった戦前の論理と同一です。
「英霊を供養」することと「英霊にすまない」から戦争を継続することとは全く別のことです。
前者は遺族・戦友が個人単位で行う祈りと追悼のことであり後者は責任者が明確な政治的決定です。
「どうせやるなら派」は日本に特有のメンタリティとも思えますが実はそうではなくて「開発に多額の人と金を投入したから」という理由である事業や開発をやめられなかったという事例は洋の東西を問わず存在するようです
私が東京五輪に反対する理由の第七は「どうせやるなら派」の論理と倫理を受け入れることができないからです。
最後に上述のように古代ギリシャにおけるオリンピックは神々への捧げものでありました。
人間を超える存在への畏怖が根底にあったと思われます。
また古代ギリシャでは人間どうしのツールとして民主主義がありました。
従ってもしオリンピックを開催しようとするならば民主主義も徹底しなければなりません。
しかし私の感触ではこのレヴューを書いている時点で既にマスメディアによる「報道の自由と中立性が確保される」という原則が崩壊しているようにも思えます。
具体的に申し上げるならばマスメディアにおいて東京五輪に反対であると意見を述べる人がだんだん少なくなってきた今では非常にまれになってきたと感じています。
自主規制なのかそれとも広告収入という経済的側面からのいわば代理的なしめつけなのか不明ですが何だか店の棚から品物が消えるように「五輪反対」の言説が消えようとしています。
本書の表現を借りるならば二〇二〇年東京大会には問題が多すぎる反対しよう、返上しよう、もう止めたのがいいのではないかということをマスメディアの言論界で表現することは非常に難しくなっていると言えるのではないでしょうか。
果たしてこれが民主主義であろうかと私はだんだん疑問になってきています。
ひとの肉声が届く範囲に限定されたどれい制度前提の古代ギリシャといまとなっては当たり前な電気的な遠隔伝達装置による
通信手段が発達した現代日本ではバックにある物理的条件がカオス的に異なる点は承知の上です。
一般論で恐縮ですが一連のオリンピックに関する報道は逆の意味でマスメディアにとって民主主義の試金石となるのではないかと考えています。
ここにも自主規制と忖度があるのかもしれません。
私が東京五輪に反対する理由の第八はマスメディアの自主規制が見られるからです。
本書の表現を借りるならば「言論の自主的統制」が見られるからです。
以上東京五輪に反対する理由を8つ述べました。
それはあくまで個人の感想ですが本書は研究者である著者が文献や分析を尽くして記述しています。
そう言えば8つの理由以外にも1964年の東京五輪にむりやり間に合わせるために東京・日本橋の上に高速道路を架け「お江戸日本橋 七つ立ち」の文化遺産を景観上破壊してしまったことを深い無力感とともに記憶しています。
あの2週間、喧騒を避けるために関西に行っていたという東京在住者もいたようです。
単なる書評レベルではなく、「オリンピック」を通した徹底した21世紀の文明批判とも読める。
台風19号の爪痕はかなり深刻で死者が徐々に増えてきており(行方不明者が遺体として発見)、さらには異常な数の河川の氾濫により、まるで大津波の後のような地域が広がっている。
これまでに全国で少なくとも1万棟以上の住宅が水につかり、およそ900棟の住宅が全半壊や一部損壊の被害を受けたという。
大量の降雨量の原因はさまざまであるが、改めて日本の国土の脆弱さを見せつけられてしまった。
これら被災地の復興はこれからであり全半壊住宅の再建は恐らくは年内には終わらないであろう。
そうなれば、「復興五輪」どころか、「復興のために五輪を止めるしかない」という指摘は当然であろう、とオジサンは思う。