東京都の新規感染者数が徐々に増加しているにもかかわらず、あたかも4年も続いた「コロナ禍」が終息したかのように、今年のGWは2019年当時に戻りつつあるという。
そしてしばらく見送られていた大きな集会も再開されつつあり、今日の憲法記念日には好天に恵まれ多くの善男全女が集まってくることであろう。
今朝の「護憲派」と呼ばれるリベラルの在京メディア等の社説にはこんなタイトルであった。
◇朝日新聞「(社説)平和憲法と安保3文書 民主主義の形骸化許されぬ」
◇毎日新聞「憲法と安全保障 平和希求のあり方探る時」
それぞれ工夫しながら護憲を訴えている。
政府広の広報紙とか擁護紙と呼ばれている讀賣新聞と産経新聞はあえて紹介するまでもない。
赤旗は、「『戦争国家」づくりを許さず、9条を生かした平和外交こそ ――憲法施行76周年にあたって』
志位和夫委員長が声明 「憲法と安全保障 平和希求のあり方探る時」と党首の声明を発表。
ちょっと変わったタイトルの、若い人にもわかりやすいこんな社説もあった。
◇「<社説>「憲法記念日に考える 『偶然』と『必然』の赤い糸」
「忠」という言葉があります。江戸時代の武家社会では、主君に忠節を尽くすことが根本でした。 では、主君が暴君だったら−。暴君による暴虐や不正、理不尽な命令に対してまでも、家臣たちは服従すべきなのでしょうか。 実は「なりませぬ」と主君を諫(いさ)めることこそ、武士道での忠義の本質だったそうです。著書「主君『押込(おしこめ)』の構造」で知られる歴史学者の笠谷和比古(かずひこ)氏から、かつて聞いた話です。 ◆主君押し込めの論理は 「手討ちや切腹になりかねないけれど、我が身の不利益をも顧みず、あえて主君の命に抗することが真の忠節です。逆にお家のためにならないことが分かっていながら、同調することは、許し難い不忠とされたのです」(笠谷氏) でも、暴君とは家臣の命懸けの諫言(かんげん)にも耳を貸さず、権力を強行する存在です。その場合は−。 「『主君押し込め』です。諫言を阻却し、藩士や領民を苦しめるとしたら、家臣団は力を用いて藩主を交代させても構わないという考えでした。藩主を座敷牢(ざしきろう)に押し込め、隠居させたのです」 権力の暴走をどう防ぐか−。近代の欧米社会では「憲法の力」によって、権力を縛り、暴走させない−。そのような立憲主義の考え方をとりました。 歴史は偶然と必然の糸が絡み合って動いていくものです。 幕末のペリー提督の黒船来航は、日本側には「偶然」に見えたかもしれませんが、米国側にすれば「必然」です。大統領の親書を携え、開国と条約締結を求めにやって来たのですから…。 明治政府の重鎮・岩倉具視(ともみ)たちが1871(明治4)年から73(同6)年にかけて欧米諸国を回ったのも歴史の必然です。文明の視察にとどまらず、社会を動かす中核的な原理を探す旅でした。 たどり着いたのが「憲法」でした。それゆえ一足先に帰国した重鎮の一人、木戸孝允(たかよし)は早々に憲法意見書をまとめています。 さらに伊藤博文が憲法調査のため英国やドイツなどに派遣され、著名な学者たちに学びました。伊藤の成果は後に、枢密院で述べた言葉に表れています。 <憲法を創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり> 個人は多くの自由と権利を持っていますが、権力はときにそれを奪ったりします。だから、権力を制限せねばならない。立憲主義の本質を見事にとらえています。 ◆奇妙な出来事の共通点 憲法により権力の暴走を防ぐ−そんな仕組みです。さて現代の為政者たちは伊藤博文の理解をどれだけ身に付けているでしょうか。 近年、奇妙な出来事がいくつも起こりました。例えば内閣法制局や日銀、NHKなどのトップに首相のお友達を据えました。 独立機関は政府と対抗することも前提として、民主政はつくられています。憲法秩序の一形態として、権力の暴走を防ぐ装置が統治機構に埋め込まれているのです。 ところが、お友達人事が横行すれば、政府の暴走への歯止めとはなり得ません。検察庁法を解釈変更してまで、息のかかった高検検事長の定年延長を図ろうとしたこともありました。 日本学術会議は科学分野の「ご意見番」ですが、従来の政府見解を破って、首相が会員候補の任命拒否をした出来事もありました。 放送局は「表現の自由」や国民の「知る権利」を担う機関ですが、放送法を事実上、解釈変更した舞台裏も判明しました。政府は「けしからん番組は取り締まる」つもりだったようです。 さて、一連の出来事は「偶然」でしょうか。共通点はどれも独立機関です。つまり権力の暴走を防ぐ装置を権力自ら一つずつ破壊していることです。「なりませぬ」と諫言できる存在を消し去っているのです。民主政に仕組まれた歯止めがなくなれば、「暴君」が現れてしまいます。 権力自ら憲法秩序を破壊しているなら、それこそ権力の暴走です。そもそも権力者たちが一生懸命、憲法改正の旗を振っているのも何とも不思議な構図です。 伊藤博文が言い当てたように、憲法とは「権力の制限」に目的があるのですから…。自分たちに都合のいいように憲法を変えたいのではと勘繰られます。 ◆「なりませぬ」の声を 憲法に基づく立憲政治、民主政治では常に「なりませぬ」の声が為政者の耳に届かなくてはならないはずです。われわれも主権者として、権力の横暴や、自由や権利の侵害には勇気をもって「ノー」の声を上げるべきなのです。 怠れば「暴君」の出現を許してしまいます。それも歴史が教える「必然」の姿です。 |
やはり、「憲法」とはという「そもそも論」から説明しなければなかなか平成生まれの有権者たちには理解されないかもしれない。
それならば、と法学博士で弁護士の小林節慶応大名誉教授の「憲法記念日に向けて」というコラムの連載を一気に紹介しておく。
「緊急事態条項」は不必要だ 現行憲法の下で法律を整備すれば済む話」
1955(昭和30)年に結党して以来、自民党は憲法改正を党是としてきた。その一番の狙いは9条の改正である。2012年に党議決定された改正草案に明記されているように、自衛「戦争」と「国防軍」を認めて、普通の軍事大国になることを目指している。 しかし、9条改憲には国民の抵抗感が強いため、まずは国民の過半数が賛成しやすいものから「お試し改憲」をということで「緊急事態条項の新設」に焦点が移った感がある。 それに対して維新と国民民主が同調する動きを示したために、今年は史上初の改憲国民投票が提案される可能性がある。 しかし、この提案は後述するように全く不必要なもので、こんなもののために800億円もの国費を使って、2カ月以上もの公論のために政治的空白をつくることは無駄である。 自民党の広報資料は次のように説明している。 「有事や大規模災害の時に国民の生命、財産を保護することは国家の最も重要な役割である。しかし、日本にはそのための規定がないから、それを憲法に明記しよう」 しかし、現行憲法は、12条と13条で、人権も公共の福祉に譲らなければならない場合がある旨を明記している。だから、非常時(戦争、大災害、パンデミック)には、国家の機能を維持するという「公共の福祉」のために、人権を制約できる法律(国民保護法、災害対策基本法、感染症対策基本法等)が現に整備されている。だから、改憲を行う必要などない。 もちろん、東日本大震災、コロナ・パンデミック等の実体験に照らしてそれらの法律を整備する必要は常にある。 自民党が2012年に党議決定した緊急事態条項は要するに次のものである。 「首相が緊急事態を宣言したら、首相は、本務の行政権に加えて、国会から立法権と財政処分権を奪い、地方自治体に対する命令権も持つ。さらに、私たち国民は公の命令に従う義務を負う」 まるで首相に対する全権委任法である。 このように、自民党が考えている緊急事態条項は、現実に不必要なだけでなく、極めて危険なものでもある。つまり、提案されてきたら否決する以外にない代物である。 <専守防衛の担い手・自衛隊に対する共通の理解が必要だ> 私は、40年以上も憲法論議に深く関わってきたが、いつも不思議に思うことに、あの有名な9条について、主権者国民の間に共通の理解が存在していない。 1項について、ある者は「一切の戦争を放棄した」のだから、もはや戦争は起こらないと言う。しかし他の者は、「国際紛争を解決する手段としての戦争」つまり国際法の用語としての「侵略戦争」のみを放棄しているのだから、自衛戦争はできると主張する。 2項について、ある者は、「戦力」を持たないのだから、自衛隊は違憲だと言う。しかし他の者は、自衛のための「必要・最小限」を超えていないから、自衛隊は合憲だと言う。 いずれにしても、まるで言葉の遊びのようで、素直に腑に落ちる話ではない。しかし、国の存立に関わる防衛政策に関する国民的合意の証しになる憲法条文について、共通の理解が存在しないことは、全ての国民にとって大変危険なことである。 9条を改憲の対象にするか否か以前の問題として、9条の意味に関する国民的合意の存在は不可欠であろう。参考までに、私は、9条の意味を次のように考えている。 まず1項は、パリ不戦条約(1928年)以来の国際慣行として、「国際紛争を解決する手段としての戦争」つまり「侵略戦争」のみを禁じている。だから、そこでは「自衛戦争」は留保されている。 ところが2項で、国際法上の「戦争」を行う条件である「交戦権」と「戦力つまり軍隊の類い」が禁じられているために、日本は、海外派兵が不可避な「戦争」は自衛のためであれ許されていない。 では、現に存在する「自衛隊」は何なのか? それは65条の行政権に根拠のある「軍隊の如き、実力を備えた第二警察」である。 つまり、わが国から他国を攻めることはしないと9条で宣言しても、他国がわが国を攻める意思を全て封じることはできない。そして、不幸にして他国軍がわが国に攻め込んできた場合には、国内と公海・公空のみを戦場として、その敵軍を排除する役割を自衛隊が担っていることになる。 <“憲法"が何かわかっていない自民党「憲法は権力者を縛るもの」だ> 40年も前から自民党の改憲論議と付き合ってきた私が、一番悩まされた点は、自民党の改憲マニアたちが「憲法とは何であるか?」を正しく理解しようとしないことである。 英米の法律家なら、誰でも座右に置いているブラック法学辞典(BLACK's LAW DICTIONARY)の憲法(constitution)の項には次のように書かれている。 「憲法は、国家の基本法で、国家生活において従うべき基本原則を定め、政府を組織し、政府に権限を配分しかつそれらを限界付けており、全ての権威は国民に由来する。憲法に反する政府の行為は全て無効である」 要するに、憲法は、主権者国民の最高意思として、国家権力(つまり政治家以下の公務員)を拘束する規範で、憲法に反する公の行為は全て無効である。これが世界の常識で、それ以外の「憲法」などあるはずがない。 にもかかわらず、自民党の改憲論者の中には、上記の定義の「一部だけ」を取り上げて、憲法には、国家に「授権」するものと国家権力を「制限」するものがあり、「自分は前者の憲法観を採る」などと議場等で公言する者も多い。つまり、憲法は単に「権力者に権力を授けるもの」だと言う。 だから、自民党の2012年改憲草案は、「国民が憲法を尊重し」「権力者がその憲法を擁護する」(102条)などと書いてあり、その国民が守るべき憲法で、国民に日の丸と君が代を尊重しろと命じ(3条)、国防に協力することを求めている(9条の3)。 これでは、憲法が国民を縛る刑法と同じで、実質的には憲法ではなくなってしまう。 今、国会では、自民、維新、国民民主の改憲派3党で3分の2以上の議席がある。しかも、衆参の憲法審査会で着実に議論を重ねている。だから、改憲の発議が国会の専権である(憲法96条)以上、今年、国会が改憲発議を決定することは十分にあり得る。 しかし、最終的な決定権は国民投票に委ねられている(同96条)。 憲法による拘束を煩わしいと感じている権力者たちが提案してくる改憲案は、前述のように「改正」と称する「改悪」である可能性がある。だから、主権者国民としては、賢明に対応すべき時が迫っている。 <改憲が「目的」化した改憲こそ有害無益だ> 長年にわたり自民党の改憲論議と付き合ってきたが、今、改めて総括してみたが、自民党は何を改憲したがっているのか? が私には本当に理解できない。 最近の安全保障環境の激変に対して、自民党は「9条を改憲して自衛隊を『軍隊』にして国防力を強化しないと国が守れない」と言い始めている。 しかし、現実に政府自民党は、現行9条の下で「解釈変更」と称して、海外派兵を既に解禁し、防衛力の向上(敵基地攻撃能力の保持)にも着手している。しかも、その自民党政権に主権者国民は安定多数の議席を与え続けている。だから、実際には改憲の必要はない。 もしも、国家の存続の危機が迫っているのなら、憲法改正を発議して、2カ月以上もの公論のために政治的空白を作るほうが危険である。 しかも、今、自民党が考えている改憲案は、維新と国民民主の協力を得て、「緊急事態条項」を新設するものである。 しかし、現行の12条と13条の下で、国民保護法、災害対策基本法、感染症対策基本法等の緊急事態法制(法律群)が整備されている以上、緊急事態条項(憲法)の新設は不要である。しかも、すでに本コラムで述べたように、自民党案は有害無益なものである。 にもかかわらず、改憲にこだわる自民党は、その内容のいかんにかかわらず、「改憲」自体を目的化してしまっていることになる。 自民党は、かねて、敗戦によりアメリカから現憲法を「押し付け」られたことにこだわり、「自主憲法」の制定を目指してきた。 ■現行憲法は今の日本に馴染んでいる しかし、戦後世代の多くにはそのような恨みはない。世界史の大きな流れの中で、ドイツ、イタリア、日本の専制国家群がアメリカ、イギリス、フランスの自由主義国家群に敗れた。その結果、日本は、今の自由で民主的で豊かな国に変わることができた。その入り口が日本国憲法である。 戦後復興の過程で、日本国民はアメリカ製の憲法に馴染んでそれを使い熟してきた。私はそれで十分だと思う。 |
昨年銃殺された安倍晋三はゾンビのごとく2012年に復活したのだが、口癖に「GHQ押し付けの憲法は私の内閣で変える」と豪語していたのだが、それは自民党の「党是」が念頭にあるのだが、現在の岸田文雄も同じようなことを口走っている。
「日本に押し付けた米国」に対して独立独歩の道を歩もうとするのなら筋が通るのだが、すでに「日本国民はアメリカ製の憲法に馴染んでそれを使い熟してきた」 のだから、せめて憲法に反するような「違憲状態」を早急に正すことが本来の政治家の使命ではないだろうか、とオジサンは思う。