新・定年オジサンのつぶやき

残された日々をこの世の矛盾に対して勝手につぶやきます。
孫たちの将来に禍根を残さないよう、よき日本を「取り戻したい」。

ジャーナリズムとしての体面や矜持という貞操を失ったメディアへの批判

2022年01月28日 11時47分11秒 | マスメディア

高をくくっていたオミクロン変異株の猛威に首都圏の東京都と神奈川県では軽症者切り捨てみたいなことをやり始め、まさに医療崩壊はもとより国民皆保険制度の崩壊とまで言われるほどになってしまった。
 
<新型コロナ>東京都「自分で健康観察・連絡を」 50歳未満の軽症・無症状者 自宅療養5万人突破
 


  
  
 全国初、自分で検査し「自主療養」 神奈川県が28日から 軽症の6~49歳 食事調達は自己責任に<新型コロナ>」 
 

 
さて、たまに参考に覗いている山口県の「長周新聞」の「コラム狙撃兵」、全国紙ではなかなかお目にかかれない鋭い視点のコラムには多くの読者がいるようである。
 
看板倒れの無料PCR検査センター
 
もはや手が付けられぬほどオミクロン株が各県で猛威を振るっている。これまでの疫病のように弱毒化して「ただの風邪」に近づいているのなら、それ自体は朗報にも思えるが、いつの間にか陽性になったり、あるいは濃厚接触者に認定されて10日間の経過観察と自主隔離生活を強いられる身になったら、社会人としては誰しも堪らないものがあるだろう。軽症や、陰性であっても濃厚接触者になった場合、いきなり「自宅待機」を保健所に指示されたところで、本人も会社も大変である。10日間分(オミクロンの場合)の仕事をどうリモートでこなすか、できない対面の業務を誰にお願いするか、みずからの巣ごもりの手配と同時に、背負っている仕事の塩梅を上手くこなさなければ周囲に迷惑をかけてしまうからだ。場合によっては「あいつのせいで…」みたいな感情だって周囲に生じてしまうだろうし、本当に堪ったものではない――と、ある日突然濃厚接触者認定された知人になりかわって、その思いを吐き出してみた。恨むならオレを恨むなコロナを恨め--である。・・・。
第五波から2カ月もの期間があったのに、いざ第六波に火が付いたと思ったらたちまちPCR検査キット及び試薬が足りないというのは、いったい誰の怠慢なのだろうか。備えあれば憂いなしでなぜ防疫体制を強化していなかったのか、どうしていつも後手後手なのかである。これでは無症状の感染者の囲い込みなど到底不可能で、この2年間くり返してきた万歳降参の道を辿るほかない。
 科学が発達しているはずの現代社会において、疫病に対して科学的に対応することができず、爆発的な感染拡大に対して為す術がないというのはいったいどうしたものか。オミクロン株は重症化する確率が少ないという側面に救われてはいるが、神頼みで祈るだけというのではあんまりではないか。吉田充春

 
全国紙や地方紙問わず、堅苦しい新聞記事とは異なる「コラム」記事を各紙は用意しており、それはある意味ではその新聞社の「顔」にもなっている。
 
昨年12月23日に心不全で亡くなった作家でジャーナリストの外岡秀俊が、若いころ朝日新聞の編集局幹部から「将来『天声人語』の書き手になる人材として育てる」と言われたことがあると、彼の後輩記者がある雑誌に書いていた。
 
そのように位置づけされている新聞社のコラムなので、当のコラム担当者はそれ相応の矜持をもっている。
 
したがって、他紙のコラムに対する批判や論評などはもちろん、コラム氏に個人的にエールを送るということも大手紙ではありえない。
 
しかし夕刊紙レベルではこんなコラム担当者同士のエール交換なるものが最近おこなわれたと話題になった。
 
まずは、前記の記事を書いた長周新聞の「コラム狙撃兵」のコラムの記事から紹介しておく。
 
いきなり脱ぎ始めた読売新聞
 
 
年末に発表された大阪府と読売新聞大阪本社との包括連携協定の締結は、言論に携わる者としてはいささか驚きだった。メディアと権力の関係がズブズブで、いまやジャーナリズムといっても足腰が立たないほど堕落し、腑抜けになってしまったという認識はあるものの、これでは身も蓋もないではないか――というのが率直な感想だ。行政が特定のメディアとのみ「連携協定」(それ自体何だよ?)を切り結ぶというのも奇妙な話ではあるが、人材育成や情報発信はじめ、大阪万博の成功に向けて両者がタッグを組むというのである。在阪メディアによる維新持ち上げと電波ジャックは今に始まったものではないが、読売新聞も公然とその仲間入りを果たしたのであろう。
 権力の監視を生業とするはずのジャーナリズムとしては、通常であれば権力とは適切な距離感を保ち、いわゆるズブズブの関係であってはならないというのが常識だ。そうして、事あれば取材対象への情に左右されることなく是々非々で批判を加えて世間に問題を提起したり、社会にとって有用性のある言論を投げ込んでいくのが使命なはずだ。ところが今回の場合、ジャーナリズムとしての体面や矜持など既にどこ吹く風で、維新が権力を握る大阪府と巨大メディアが連携協定を結ぶまでに垣根は取っ払われているのである。モヤモヤとした霧は取っ払われて、清々しいほどに丸見えといったところだろうか。傍から見ていて、それはまるで読売新聞がいきなりみずからの欺瞞のベールを剥ぎ取るようにスッポンポンになったような光景にも思えて、恥を知らないのだろうか…とは感じるのだ。
 一方で、権力との距離感が問題になっているのは、フェイクニュースが飛びかうなかにあって公共メディアを標榜し、政権批判などもおこなうリベラルなウェブメディアとして注目されていた「Choose Life Project」(CLP)もしかり。立憲民主党から番組制作費として1500万円の資金提供を受けていた事実が発覚し、その中立性はどうだったのか、メディアの在り方が問われる事態に発展している。扱っていた問題は貧困や差別、人権、政権の不正をはじめとした時事問題にも切り込み、社会的には必要とされるメディアだったからこそ、クラウドファンディング(市民スポンサー型)による運営にもこぎ着けたのだろう。辞任した代表者の説明を読む限り単純に責める気にもなれず、何をするにも世の中カネは必要で、喉から手が出るくらい軍資金は必要だったのだろうと推察した。思いだけで理想が実現できるほど甘くはなく、しかも巨大資本の広告に依らない運営となるとなおさら茨の道である。しかし、野党とはいえ特定政党から資金提供を受けていたとなると、それ自体は自民党から資金提供を受けて世論操作に勤しんでいたDappiと変わらないではないか――といわれれば反論の余地はないのも事実なのだ。
 「CLPには甘すぎるんじゃないか?」と批判を浴びるかもしれない。だが、何をするにもカネが必要な世の中において、もっとも苦しい時に踏ん張りきれるかは他人事ではない。「武士は食わねど高楊枝」なんていったところで、武士とて食わねば生きていけないのと同じように、ジャーナリズム・ジャーナリストも食わねば生きてはいけない現実が横たわっている。しかし、そんな世の中において、一つの言論機関としての矜持を持ってやっていく、しかも権力に寄生するのでなくいいたいことをあからさまにいい、欺瞞のベールを引き剥がしに行くこと、「書けない記事は一行もない」を貫くことの大変さは身に染みてわかるからこそ、CLPが特定政党から資金提供を受けていたことについては批判しつつ、その再起にはエールを送りたいと思う。貧困や差別をはじめ、その根源に向けて矢を放つメディアの存立基盤は、そうした報道姿勢なりを支えてくれる人々がいてこそで、安易にまとまったおカネに身を委ねてしまうと、そこからは相手が誰であろうと必然的に支配される関係になるほかない。いつも苦しいときこそが踏ん張り所なのだ。
 飼い慣らしにくる誘惑もあるなかで、報道機関がビジネスとしてカネを追い求めたなれの果てが電通による広告支配であったり、今日の堕落状況であろう。読売新聞のようにみずから公衆の面前でスッポンポンになるようなのは珍しいとしても、権力に寄生し、カネにがんじがらめに支配され、政府広報みたくなっているのが「マスゴミ」とまで呼ばれ始めたメディアの姿なのだろう。決して噛みつくことのない飼い犬に成り下がったといわれても批判のそしりは免れない。そうしてエサをちらつかされればお手をやり、お座りをして、飼い主様に従順な飼い犬よりも、ことジャーナリストに関しては、相手が権力者であろうとかぶりついていく野良犬くらいが丁度良いのかもしれない。餌付けされたら、たちまちリードにつながれて自由は奪われるのだ。だいたい、その度にエサに目がくらんでモノ欲しさに負けるようでは、しまいには書ける記事なんて一本もなくなるのではないか? とも思う。   吉田充春

 
このコラム記事のタイトルに対してイチャモンをつけていた輩がいた。
  
この場合の「脱ぐ」という形容はおかしい。
大阪府と読売新聞の包括連携協定というのは両者のズブズブの関係を可視化しようとしたものではなく、むしろ両者の「ズブズブの関係」を疑われないための防衛であり『着る』行為に当たるのである。
これは読売新聞が「食う」ために仕方なくやったことなどではなく「食う」ための積極的な行為なのである。

「脱ぎ始めた」とか、「関係がズブズブ」、とかさらには「スッポンポン」などという表現はコラムならではの表現なのであろう。
 
大阪府と讀賣新聞大阪本社の関係が見事にあぶりだされており、読者にとっては極めて分かりやすい内容であろう。
 
このコラムに素直に反応したのが、かつてTBSの昼のワイドショーで「田崎史郎の天敵」と言われていた元レースクイーンのこの御仁であった。
 
吉田充春さん、大ファンよ!「いきなり脱ぎ始めた読売新聞」にしっくり来た
 
 
「読売新聞のようにみずから公衆の面前でスッポンポンになるようなのは珍しいとしても、権力に寄生し、カネにがんじがらめに支配され、政府広報みたくなっているのが『マスゴミ』とまで呼ばれ始めたメディアの姿なのだろう」(吉田充春・長周新聞記者)
 これは1月13日の長周新聞、『コラム狙撃兵』での吉田さんの言葉だ。コラムのタイトルは『いきなり脱ぎ始めた読売新聞』である。もちろん、大阪府と読売新聞の包括連携協定について述べている。これについて批判している人も多いが、吉田さんのコラムがいちばんしっくり来ちゃったな。
 そうなんだよね、大阪府というか維新と、在阪メディアのズブズブな関係は呆れ果て今さら批判するまでもない。が、堂々と連携協定を結ぶって一市民として「あいつ、いきなり脱ぎ始めたわ」という風に見える。それは街中で、おもむろに素っ裸になった人に出会ったような感覚である。メディアの矜持はないのか、と当たり前の批判を通り越えての。
 もちろん吉田さんは、権力批判をおこなうネットメディアの『Choose Life Project』についても、立憲から資金を受けていたことに苦言を呈している。しかしその上で、大事なことを述べている。
「(中略)ジャーナリズム・ジャーナリストも食わねば生きてはいけない現実が横たわっている。しかし、そんな世の中において、一つの言論機関としての矜持を持ってやっていく、しかも権力に寄生するのでなくいいたいことをあからさまにいい、欺瞞のベールを引き剥がしに行くこと、『書けない記事は一行もない』を貫くことの大変さは身に染みてわかるからこそ、CLPが特定政党から資金提供を受けていたことについては批判しつつ、その再起にはエールを送りたいと思う。」
 と。そして、メディアの存立基盤はそうした報道姿勢を支えてくれる人たちであると。同感だ。吉田さん、大ファンよ!

 
フツーならばこの記事で終わるのだろうが、『コラム狙撃兵』の吉田充春は、決して無視せずにキチンとコラムで返信していた。
 
安心してください はいてますよ!
 
室井佑月さんより日刊ゲンダイのコラムで「吉田充春さん、大ファンよ!」と公衆の面前で告げられた吉田充春でございます。あの日、同僚から「オマエ、なんか名前が出てるよ」と聞かされて驚く反面、「いろいろな方がホームページで見てくれてるもんだな」と嬉しくもありました。先日掲載したコラム「いきなり脱ぎ始めた読売新聞」について、「しっくりくる」との感想付きで他媒体の連載コラムにて紹介してくれていたのです。
 そこで、名前まで出して頂いたのになにもなかったようにスルーするのも失礼かと思い、さて、どのような公衆の面前返しをキメようかと考えあぐねておりました。そして、ここはコラムの内容とも被せて、とにかく明るい安村のようなとびっきりの笑顔でもって、大きな声で元気よく「安心してください! はいてますよ!」と応えるのが一番だろうと思うに至りました。
 まぁ、私自身は全てはいていますし、着ていますし、人様の前でいきなり脱ぎ始めるような破廉恥ではございません。例え苦しいからといって、小汚い振る舞いをしたり、安易に脱ぐようなことはいたしません。だいたい、そんなものを誰が見たいんだよ! とも思うのです。隣でお友だちの記者がそんなことを始めたなら、「オイ、オマエ恥ずかしいからやめろよ!」と注意をしますし、それでも聞かずどうしても脱ぐというのなら、それはもう何十倍ものソーシャルディスタンスを保ち絶交でございます。ジャーナリストでござい、などとイキるつもりなど毛頭ございませんが、何事もいきなり脱ぎ始めて人様のお目汚しをしてはならない――そう考えて気配り心配りを大切に、デリカシーを持ってペンを握りたいと思うのです。
 さて、世の中ファンにもさまざまあるなかで、今回の場合、室井佑月さんは小でも中でもなく、それはもう「大ファン」であるということで、少しばかり照れながら有り難く受け止めております。「ファンです!」なんて一度もいわれたことがない者に、いきなり小でも中でもない「大」なわけですから、それはもう恐縮するというものです。
 ただ私、ここで心配なこともございます。それは、あくまでネット上のコラムを気に入っていただけただけであり、仮に「ファン」などといってくださる方々にお会いした場合、世の中にはやはり見栄えというものがあるものですから、「え? ただのゴリラじゃん!」などといって「大ファン」の称号がとり消されるのではないか…、ひょっとすると「小ファン」に格下げになるのではないか…という懸念でございます。見かけじゃないよ、中身だよ! と心にいい聞かせてきた40年余りの人生、「ファンです!」どころか、幼少期より声をかけてくるお友だちのみんなは「ゴリ」あるいは「ゴリラ」と私に向かって呼称するばかりだったからです。したがって世の中見かけ重視派の皆様に限っては、安易に「ファンです!」なんていってはならないのではないか? それは罪作りなのではないか? とも思っております。
 ただ、そんな私にも転機というものがございました。京都大学総長だった山極先生のゴリラ本を読みあさってわかったのです。ゴリラほど心優しい繊細な生き物はいないと――。争いを拒み、目と目を見つめて問題解決にあたることなど、とても新鮮でございました。なんならゴリラを卑下し、争いばかりくり返している人間どもに、爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいと思ったほどです。そして、私はゴリラという称号はむしろ誉れであると確信し、共生していくことを決めたのでした。
 そんな心優しきゴリラの大ファンである吉田充春ではございますが、話をグイッと引き戻して、ジャーナリズムの貞操は守らなければならない派の端くれとして、今後ともよじってねじって放り捨てていくイメージのコラム執筆に精進したと思っております。読者の皆様には、大変くだらない人となりの紹介文章に付き合って頂いたこと、心より御礼申し上げます。要は私自身は「ゴリラさん、大ファンよ!」と思っていることを述べたかっただけなのかもしれません。これをもって、「吉田充春さん、大ファンよ!」へのお返しといたします。  吉田充春

 
まさに「軽妙洒脱」という言葉のごとくの「返信」である。
 
そして、「ジャーナリズムの貞操」を守っていない、いや失いかけている最近のメディアに対する痛烈な批判でもある、とオジサンは思う。  
 
   
 

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