新・定年オジサンのつぶやき

残された日々をこの世の矛盾に対して勝手につぶやきます。
孫たちの将来に禍根を残さないよう、よき日本を「取り戻したい」。

老父没後12年

2019年11月20日 10時06分34秒 | 家族もろもろ

以下のつぶやき(日記)はオジサンの父親が亡くなる前夜から息を引き取るまでのドキュメントである。

【老父の最期】
それは先週の日曜日の晩であった。
オジサンの29回目の結婚記念日、静かにアルコールに浸りながらテレビのニュースを見ていた。
時計の針は23時を僅かに回っていた。
突然、電話が鳴る。
この時期のこの時間。
なんとなく悪い予感が走る。
電話を取ったオバサンがなにやら話した後でオジサンに代わった。
「○○病院の看護師の△△と申します」
若い女性の声。
「実はお父様の酸素が低くなりましたので・・・・」
なんだか言っていることがよく分からない。
「酸素が低くなったって、どういうことですか?!?」
半分酔っているため詰問調になるオジサン。
「すいません、お父様の血液中の酸素の飽和度が低くなったのです。
 それで現在酸素マスクをつけさせて頂きました」
「主治医の先生は今晩他の病院で当直をやっていましてこちらには来られませんが、
 本日の当直の医師によると肺炎を起しているとのことです」
「できれば家族の方に容態を説明したいと申しております」
早い話が、直ぐに病院に来い、と言うことであった。
老母とオバサンに出掛ける準備をさせて、タクシーを電話で呼ぶ。
10月24日に転院して3週間、いつかはこんな状況がくることは覚悟していた。
病室に入ると体中に様々なコードが撒きついていて、酸素マスクをつけられ激しく呼吸している老父がいる。
まだ目は開いており、時折大きく目が開く。
当直の医師がやってきてなにやら言っているが、内容がよく理解できない。
いまさら何を説明するんだ、という顔つきをしている。
結局、明日当直明けの主治医からオジサンに連絡するということになる。
それから2時間ほど付き添って、特に大きな変化がなさそうなので一先ず帰宅する。

翌19日の9時過ぎに主治医から電話が入る。
「当病院はリハビリ専門なので、これ以上の治療は設備も無いのでできないのです」
「できれば、最初の病院に戻られてチャント治療されたほうがよいと思いますが・・・・」
「一応、私のほうで連絡を入れておきましたが、病状を説明し、ご家族が延命措置を望まないことも話しました」
「延命措置をしないのなら、そちらでやってくれと言われまして、どうなさいますか?」
「考えられる手は、隣にあるうちの系列の治療専門の一般病院に転院がいいのではと思いますが・・・」
なにか奥歯に物が挟まった言い方をするので、老母を連れて再びタクシーで病院に向かう。
病室の老父は依然酸素マスクの下で激しく喘いでいる。
早速、主治医に呼ばれて老母と別室に入る。
後から看護師長のネームプレートをつけた女性も同席する。
電話と同じような話を主治医が始める。
「この病院の酸素供給量は限界があって、このままだと持ちません」
「この状態では、まず、病室を移っていただくことになります」
「当然、大部屋では看護できませんので個室になります」
看護師長がなにやら調べて主治医に告げる。
「あいにく、現在この病棟の個室はふさがっています」
相手の本音が見えてきたので、オジサンは怒りを抑えながら尋ねる。
「私は父には静かに最期を迎えさせてやりたいと思っています。
 できればこの病院で、と考えているのですが、それが許されないのですか!?」
主治医はあわてて答える。
「いや、この病院でも今までに何人か亡くなった患者さんはいますよ」
「病院としては可能な限りの処置をして、簡単に患者さんを死なすわけにはいきません」
冷静にオジサンは言う。
「90歳を超えた父に、本人の苦痛にもなるような人工呼吸装置などはつけては困ります」
「早い話、お宅の病院では死なれては困るのですね」
どうやら患者の家族には選択の余地が無いのである。
「・・・・・分りました、それでは直ちに転院の手続きを取ってください」
一瞬、主治医は顔が明るくなり(?)、直ぐに事務的な顔に戻りその場を去っていった。
残された看護師長は、申訳なさそうな顔をして、
「私たちもこんなことはしたくは無いのですが・・・今の法律ではダメなんです」
と、さも当病院には責任がありませんと聞こえるような言い訳をする。

老父の転院先は数十メートル先の同系列の一般病院だが、いくら近いといっても、酸素ボンベを積んで、
ストレッチャーに乗せられ外のコンクリートの舗道を揺られながらの移動はキツイ。
急患扱いで運ばれたので、極めて事務的に患者の体の詳細な検査に入る。
既に老父の様々なデータは提供されているはずなのだが、脳梗塞の頭から、肺炎を起している
肺のCTスキャン撮影、そして血液検査まで、2時間以上待たされ漸く個室に運ばれた。
最期を迎える患者専用の部屋に思えてくる。
暫くして、担当の看護師が入院に際しての書類を持ってきて記入してくれと置いていく。
これまでに2度も書いており、なにを「いまさら」という気がしてくる。
一般的な入院ならば、病院側は入院計画書を作成する。
そのために患者の状況を正確に把握して退院までのプロセスを明確にする必要がある。
あくまでも回復の見込みのある患者の場合である。
既に意識不明で濃度の高い酸素の供給に頼らなければならない患者に対して、白々しく、
 1.この病院に来る前の状態はどんなでしたか
 2.過去にかかった病歴をお書きください
 3.アルコールの飲料の有無とその量、喫煙の有無とその量
 4.ご趣味はなんですか
    ・
    ・
こんなアンケート用紙を平気で持ってくる病院側の態度が恐ろしい。
しかし、オジサンは怒りながらアンケートに記入していてむしろ滑稽さを感じてしまった。
担当の看護師は本当の事情は知らず、一人でも多くの患者さんの回復を望んでいることは事実である。
「死期が近づいているのでこんなナンセンスなアンケートはよしましょうね」
なんてことは口が裂けても言えないのであろう。
夕方には一旦老母を家に帰しオジサンだけが病室に残った。
夜間、転院先の病院の内科専門の主治医に呼ばれてナースセンターに入った。
老父の肺の断面写真を見せられ、肺炎の箇所が拡大しているのがわかる。
入院時の血液検査の結果を見ながら主治医はこう宣言する。
「白血球が6万近くになっていて患者の体内は大火事状態ですよ」
「大量に水分を点滴で補っているのに尿が全く出ていないのは、腎盂腎炎を起しており、敗血症になっています」
「あとは新しい血液を入れて少しでも長持ちさせることぐらいですね」
「何しろ、まだ生きているのが不思議な位の状態です」
いくら90歳の老人とはいえ、その家族の前で坦々と客観的に話せるとはさすが医者である。
最後に、主治医はこう言いきった。
「まあ今夜か遅くとも明日までの命でしょう!!」
僅か3日前には甥の見舞いに涙を流したという老父。
それがこんなにも簡単に急変するものなのだろうか。
やはり無理に転院することにより状態が悪化したのであろうか。
そもそも、最初に脳梗塞で運ばれた病院にそのままいれば、もっと元気になったのではなかったのだろうか。
過ぎ去ったことに、いくら悔やんでも始まらない。
あとは、本当に最期まで老父に付きやってやるしかない。
実の親の最期を看取ることができなかった人は、世に多くいる。
「親の死に目に会えなかった」
とは、よく聞く話である。
二人きりになった病室で、様々な今までの思い出が蘇ってくる。
不思議と涙は出てこない。
ほとんど血の気のなくなった老父の左手を握る。
もう心臓の力だけで呼吸させられている老父の息遣いが、段々と弱くなるのを感じる。
日付が変り、まだ外は暗い午前3時20分、老父は生と死の境から、彼方に静かに眠るように旅立った。
2007年11月20日午前3時20分、老父90歳の人生を終える。

その後、一周忌法要、3回忌法要、7回忌法要と行い、今日は13回忌法要となる日である。

当時の親族では、父親のすぐ下の弟は脳梗塞を患い施設に入居中で、2番目の弟は、その後、骨癌で亡くなっている。

4人姉妹の次女だった母親は、三女の妹の後、昨年亡くなり、存命中の長女と末っ子の妹は認知症で施設暮らし。

親の代の親類がこのような有様で、13回忌はオジサン夫婦でしめやかに行おうと、父親の好きだった酒をもって菩提寺にこれから向かうことにする。

ちなみに父親の死後、2週間後にオジサンに初孫が生まれ、今年12歳の6年生、来年は受験生だという。

亡父の年齢までは、オジサンにとっては21年もあるが長いか短いかは分からない。

順調に生き長らえれば、今年生まれた4番目の孫娘の成人式の晴れ姿と、サッカーW杯はあと5回くらいは観戦できそうなので、それまでは目と耳だけは鍛えておこうと、オジサンは思う。

       

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