昨日の自民党総裁選の大逆転で、「2度あることは3度ある」が「5度目で総裁になった人物は今までいなかった。
したがって先週の21日のつぶやき「5度目の総裁選で散る】石破茂へのレクエイム」は撤回させていただく。
さらに最後の「『悪党政治家』なら簡単にできる心にもないパフォーマンスを平気で演じきれないのが稀有な「善人政治家」石破」であり、5度目の挑戦も正々堂々と再び敗れることが石破茂の真骨頂ではないだろうか、とオジサンは思う。」という下りも訂正しなくてはならない。
そんな戦前の予想を大きく覆した 石破茂総裁の瞬間であった。
「『脱派閥』を目指したはずが…『重鎮詣で』」や『投票指示『が公然と 総裁選で明らかになった自民党の限界」
自民党派閥の政治資金パーティー裏金事件を受け、総裁選では「脱派閥」を掲げて争われたが、国会議員票の重みが増す決選投票に向け、旧来の派閥単位で多数派工作を行う動きが相次いだ。最終盤には重鎮詣でや、新政権に影響力を残したい領袖(りょうしゅう)らによる投票指示の情報が飛び交うなど「派閥の論理」が横行して「刷新感」とはほど遠い選挙戦となった。 ◆麻生太郎氏は、子飼いの議員に高市早苗氏への投票を指示 派閥の裏金事件後、自民6派閥のうち5派閥は解散を決めた中で唯一存続して結束を誇る麻生派。所属議員によると、会長の麻生太郎副総裁は、決選投票の際に、高市早苗経済安全保障担当相に投票するよう54人の所属議員に指示したという。決選投票を争った石破茂元幹事長は、麻生政権末期に首相辞任を迫ったことから折り合いが悪かったことなどが背景にある。 岸田文雄首相が率いた旧岸田派でも、決選投票を控え、衆院議員には「1回目の党員投票でトップの候補」、来年夏に参院選を控える参院議員には「石破氏」に投票するよう「派閥幹部から指示があった」と複数の議員が明かした。 首相は総裁選中に「派閥が解消しているわけだから自民党国会議員一人一人が自立した議員としての判断、見識が問われる選挙だ」と語っていた。首相に近い議員ですら「いまだに派閥単位で物事を考えていて、派閥の論理から抜け出せていない」と苦言を呈した。 ◆票に目がくらんで完全に開き直った小泉進次郎氏 候補も派閥頼みが目立ち、石破氏や小泉進次郎元環境相が、麻生氏や二階俊博元幹事長ら重鎮に相次いで面会して支援を要請。裏金事件で離党したが今も影響力を持つ世耕弘成前参院幹事長に面会し、裏金議員が多い旧安倍派に接近する動きも見られた。小泉氏は「選挙で一人でも多くの方に直接支援をお願いするのは当然」と開き直った。 ベテラン議員は「脱派閥の総裁選と言われているのに、小泉氏が派閥的な動きをするのはマズい」と批判。別の議員も「麻生氏の働き掛けは結局派閥政治に戻ってしまっている。国民のイメージは悪い」と述べた。 |
はい、というわけで石破総裁阻止のために、土壇場で河野太郎を切って高市に賭けるという禁じ手を使った挙句に散った"キングメーカー"麻生太郎を、今回の総裁選の最大の敗北者と認定いたしますが、よろしゅうございますでしょうか? pic.twitter.com/FXG2DmsUyW
— アームズ魂 (@fukuchin6666) September 27, 2024
かつて小泉純一郎氏が総裁選に何度も泡沫候補で挑戦し、最後は首相になって非正規労働の拡大などの暴政を押し進めたように、5度目の挑戦で首相になった石破氏が恐ろしい暴政を行う危険は十分にある。
— 小西ひろゆき (参議院議員) (@konishihiroyuki) September 27, 2024
特に、石破氏の安保政策は自民党内でもこれまでまともに相手にされてなかっただけに極めて危険だ。
石破茂氏が自民党新総裁に選出された。緊急事態条項の創設や9条への自衛隊明記など在任中の改憲実現を強調し、「アジア版NATO」創設を唱え、非核三原則の見直しに言及するなど軍事一辺倒を強めようという。裏金、統一協会、腐敗の真相解明にも消極的。
— 山添 拓 (@pioneertaku84) September 27, 2024
自民党政治の中身を変える、総選挙での審判を!
ここでk石破茂に関する逸話を紹介しておく。
「新総理・石破茂が「ダメダメ銀行員」だった時代の秘話が面白すぎる《緊急出版「保守政治家」を読み解く》」
自民党総裁に選出された石破茂氏が、総裁選出馬のタイミングで出版した最新刊「保守政治家 わが政策、わが天命」(講談社刊)が面白い。政策はもちろんのこと、明かされてこなかった自らの来歴を、赤裸々に明かしているのだ。同書から抜粋して紹介しよう。 ■終電前は焼き鳥屋で 1979年三井銀行に入ります。時代は80年代目前、高度経済成長期が終わり、安定成長期に入っていました。 初任給は8万円弱。週休1日(土曜は半休)。配属は日本橋本町支店で、千葉県松戸市にある社員寮を朝6時に出て、朝7時半に職場に入り、夜は残業につぐ残業という生活でした。午後11時より早く帰った記憶はあまりなく、ほとんど終電でした。 終電前の1時間ほどは毎晩のように職場の先輩に連れられて神田の「一番鶏」という焼き鳥屋で一杯飲む。当時はホッピーが売れていました。安くて早く酔えたんですね。 ここでも、実は最初はとても苦労したんです。「お前ね、算盤ができなくてもいいとは言ったが、計算機ができなくていいと言った覚えはないぞ」と言われましてね。銀行員特有の、右手で伝票をめくりながら左手で計算機を使うという技術がなかなか身につかない。お札を両手でクジャクの羽のように開いて、数えるのもうまくできない。 電卓も、今のようなスマートな電卓ではありませんでした。それこそ、足し算引き算しかできない歯車式と言われた古色蒼然とした計算機を使ってね。そうしたら入行2ヵ月後の6月の店内試験で、高卒大卒10人くらいいた新入社員の中で2番になることができました。それと同時にやめる気はまったく失せました。 そこからは、毎日が楽しかった。2ヵ月くらいは背広を着てこなくていいから倉庫の片づけをしろと言われました。当時はバブルが始まりかけており、特に銀行は景気が良かったし、勢いがありました。店を新築移転するとのことで、古い書類の片づけなどをやらされました。 次に出納係。これは皆やらされる、行内の全現金を管理する仕事です。大口の引き出し依頼に金庫から現金を出したり、ATMに現金を補充したり、15時になると集計作業に追われ、最終的に全体の集計が合わないと合うまで帰れない仕事です。これを半年くらいやったのかな。その後は窓口の社員の後ろでコンピュータの端末を叩く。これも半年くらいやりました。 この時代には、「モーレツぶり」を絵に描いたような経営者や上司が多くいたものです。営業時間が終わり、シャッターを下ろしたら、15時からは内部の業務が始まります。 企業回りなどもあるので、営業会議(「資金会議」と言っていました)は毎晩夜の9時頃から始まりました。今では信じられないかもしれませんが、当時はそれが普通だったのです。 またある支店長は、資金会議中の夜11時頃にサッと会議室のカーテンを開けて「見ろ、隣の太陽神戸銀行にはまだ灯りがついている。あそこにはまだカネがあるのだ。あの店が潰れるまでやって、やって、やり抜くのだ」と檄を飛ばしていました。 その後、1990年に三井銀行と太陽神戸銀行は合併するのでご愛嬌の話にはなるのですが、当時は横並びの競争が激しくて、私の好きな小説で言えば、まるで山崎豊子さんの『華麗なる一族』(新潮社・上中下巻・1973年)に出てくる阪神銀行池田支店のような世界が本当に展開されていました。 厳しい上司の中には、本当に自分の出世しか考えていない人と、実は心の温かな人がいる。そんな見分けは自然とついてきたように思います。 たった4年しかいなかった銀行でしたが、優秀な人が本当にたくさんいて、どう見ても自分より頭いいな、決断力あるな、包容力あるなという人、この人なら凄い政治家になるなという人を何人か見てきました。 そういう人々を間近に見ながら、政治の世界のことも考えました。この優秀な人たちは、三井銀行の重役になることはあっても、政治家になることはないだろう。政治家の世界はそれだけ敷居が高い。自分はその人たちよりはるかに劣るのに、親が政治家であるがゆえに政治家になることがあるかもしれない。それは国家にとっていいことなのだろうか。そんな一種の負い目みたいなものを感じることもありました。 入社して3年目、1981年9月16日に父・二朗が亡くなり、私の人生が大きく変わります。 |
最後に。以前「総裁選は長老たちのキングメーカーの椅子取り合戦」とつぶやいたが、その結果が明らかになった。
「総裁選裏側の自民長老優勝劣敗」
9月27日、自民党総裁選が投開票日を迎え、石破茂氏が新しい党首に選出された。
1回目投票で首位に立ったのは高市早苗氏。 |
自ら「派閥解散」と叫びながら総裁選では、巧妙にかつての岸田派の連中をうまく使って菅義偉・森喜朗・麻生太郎の存在を消してしまい、最後に笑ったのは石破茂ではなく、したたかな岸田文雄であったのだろう、とオジサンは思う。