8代将軍「徳川吉宗」が主役の時代劇「暴れん坊将軍」の再放送をよく見るのだが、ストーリーの中心は「出世のため幕閣に推挙してもらう賂を抱えの豪商から献金してもらう下級直参旗本」を最後は将軍吉宗が成敗することでドラマは終わる。
300年以上も経って、時の政権の要職者に献金するという悪しき慣習が現存しているとは呆れてしまう。
「日本医師会の政治団体が麻生派に異例の高額献金 診療報酬改定で関係改善狙う? 21年秋に5000万円」
【東京新聞より】
日本医師会(日医)の政治団体「日本医師連盟(日医連)」とその関連団体が2021年秋、自民党麻生派(志公会)に、派閥向けでは異例の高額となる計5000万円を献金したことが明らかになった。関係者によると、日医連は当時、22年度の診療報酬改定に向け、改定率の決定に影響力を持っていた麻生太郎・財務相(当時)との関係改善を図ろうとしていたとみられる。 関連政治団体は「国民医療を考える会」(東京・駒込)。政治資金収支報告書によると、同会は21年9月27日に志公会に4000万円を献金。4日後の10月1日には、日医連も志公会に1000万円を献金していた。 考える会は日医連と住所や電話番号が同じで、11年の設立から16年までは日本医師会長が日医連委員長だけでなく、同会の代表も兼任するなど日医連が事実上運営している。 考える会は18年から、日医連が参院に送り込む組織内議員2人と、かつて推薦した参院議員1人に献金。3人以外では20年の自民党衆院議員への100万円と今回の4000万円しかない。日医連も10年〜21年の報告書では、他派閥向けにはパーティー券をほぼ毎年10万〜100万円分購入しただけだった。 日医連の委員長は歴代の日医会長が兼任し、当時は中川俊男氏が務めていた。中川氏は20年6月、当時の横倉義武会長を選挙で破って会長に就任。4期8年務めた横倉氏は安倍晋三元首相や同じ福岡県出身の麻生氏と懇意の間柄だった。 日医関係者によると、麻生氏は、親しかった横倉氏を会長選で破り、政府のコロナ対策に厳しい発言が多かった中川氏に批判的だったとされる。日医連内では21年12月の改定率決定を前に、麻生氏との関係悪化に危機感が広がったという。麻生派に献金があったのは決定の約3カ月前。麻生氏は派閥に献金があった直後の同年10月4日の岸田政権の発足で、副総理兼財務相を退任し党副総裁に就いた。 医師の技術料など本体部分の改定率は、財務省側がプラス0.3%台前半、日医や厚労族議員らは0.5%以上を主張。最後は0.43%で決着した。中川氏は改定率を評価。麻生氏はぎりぎりまで日医の主張に反対していたという。 診療報酬 治療や検査、薬など保険医療の公的価格。医師らの人件費などに回る「本体」部分と「薬価」部分からなる。原則2年に1度、年末の予算編成に合わせて政府が各改定率を決めて予算を確保し、2月までに厚生労働省が診療行為ごとに価格を決める。 中川氏は今年1月の本紙の取材に、麻生派への献金は「(日医連の)事務局と相談し、その時の情勢で判断した。診療報酬改定は関係ない。日本医療のためにやったことだ」と答えた。 |
ドラマと決定的に異なるのは献金側の日医連会長と麻生太郎の密談の証拠をつかむ、将軍吉宗の「御庭番」がいないため、なかなか成敗することもできないのが残念であるしもどかしいところでもある。
ところで今月に入ってから参院予算委員会等で連日平気で嘘をつく高市早を苗の悪あがき劇場を見せられているのだが、将棋に例えれば完全に「詰んでいる」にもかかわらず玉がむなしく盤面で逃げまわっている無様さである。
ついにこんな記事が出ていた。
「嘘を嘘で塗り固める高市早苗が『レクを受けていた』決定的証拠」
■然とは言わせない。高市早苗がウソをついている決定的証拠 ・・・前略・・・ 「私は委員会開催日でも、朝レクも前夜レクも受けない主義。5月の質問にどういう答えぶりをするかについて、2月にそのようなレクを受けるはずもない。磯崎さんが何の担当の補佐官か私は思い出せない。磯崎さんから放送法について話があったことすらない。言うはずのないことがたくさん悪意をもって書かれている。私をやめさせようとしたのかどうかわからないが、これは作られた文書だと思います」 不正確というより、レクそのものがなかったということを、これだけ何回も繰り返しているのである。高市氏は2013年の大分県での講演会で、磯崎氏について「この夏、礒崎さんにはホンマにお世話になりました」と語ったほどの間柄である。にもかかわらず、磯崎氏とは疎遠であるかのごとく装う態度にも違和感がある。 総務省はレクがあったと言い、高市大臣は捏造だと言う。このミステリーをどう解けばいいのか。 まず、客観的事実を押さえておく必要がありそうだ。磯崎補佐官が、TBSのサンデーモーニングなどの報道姿勢を問題視し、担当外であるにもかかわらず放送法の「政治的公平」に関する解釈変更を総務省にもちかけ、「自分と総理の二人で決める」と強引にコトを運んだことは間違いない。高市総務大臣が国会答弁で新解釈を提示したことも国会議事録で確認できる。 むしろ、この文書は磯崎案と高市答弁の間をきちんとつないでくれる資料として後世に残す意味を持つ。「私がこんなことを言うはずがない」と高市氏は主張するが、そっくりそのままの言葉遣いを再現してなくとも、大意が書かれていれば共有文書としては十分なはずである。 |
さて、国会会期中にも行われている憲法審査会。
この会議の様子を報道するメディアはすべて「憲法改正」という言葉を使っている。
言葉の意味としては「改正」とは「不備な点を改めること」であり、例えば「緊急事態条項」の追加は「加憲」であり、決して改正ではない。
「『改正』と『改定』(鈴木耕)」
かつて「60年安保闘争」という巨大な市民運動が盛り上がったことがあった。年号が示す通り1960年のことである。 岸信介首相による「日米安全保障条約改定」に反対する市民、労働者、学生、それに商店主や農業者までが加わった、一大国民運動であった。 ぼくは当時、秋田県の片田舎の中学3年生だった。何も知らない15歳の少年にも、なんとなく騒然とした世の中の雰囲気は伝わって来ていた。用事があって職員室に入っていくと、いつもは下手なダジャレばかり飛ばして生徒たちを呆れさせている教師や、謹厳実直で笑顔のひとつも見せたことのない先生が、なにやら難しい顔で議論をしている、なんて光景に出会うこともあった。 1960年、敗戦の年から15年。ようやく戦後復興の兆しが見え始めた頃ではあったが、田舎の中学生の周囲は相変わらずの静かな山と川だった。そんな中で、政治なんてものとは無関係だと思われていた教師たちが、いつもは見せない厳しい顔でなにやら議論している光景は、ぼくには実に不思議だった。日本教職員組合(日教組)は、どんな田舎の学校でもそれなりに頑張っていたのだろう。 今では、職員室の中でそんな話をしようものなら、あっという間に停職処分や僻地への転勤が待っている。あの安倍晋三元首相が国会で「ニッキョーソ、ニッキョーソ」と厭らしいヤジを飛ばしたように「ニッキョーソ」は、安倍氏を先頭にした極右派にとっては天敵だったのだ。 「教え子を再び戦場へ送るな」という日教組のスローガンは、戦争に傷ついた国民の間にも定着していた。だから、「60年安保闘争」の風は、ぼくが育った東北の片田舎にまで吹き込んでいたのだった。 国会前のデモの様子を、ぼくも、ラジオで聞いたような気がする(それがリアルタイムだったか、当時の録音を別の機会に聞いたのだったかは定かではない)。 「暴力です、凄まじい警官隊の暴力ですっ! 警棒を振るってこちらにまで押し寄せてきていますっ!」などと、絶叫するアナウンサーの興奮状態の実況中継がラジオから流れていたのだ。 中坊のぼくだって、6月15日に樺美智子さんが国会前での警官隊との衝突の中で亡くなったというニュースは知っていた。 当時のアナウンサーは、身を張ってデモの真ん中に飛び込んでいった。振るわれる警棒の下で、殴られながらも実況中継を続けていた。今は、平穏なデモ(パレードなどという呼び方は、ぼくにはどうもしっくりこない)にさえ、寄り添って中継しようとするテレビ局など、探したって見つからない。 ところで、上に書いたように、あの「安保闘争」は、「安保条約“改定"阻止闘争」なのであった。繰り返すが、「改定」阻止闘争だった。 必要があって、当時の新聞を調べてみたことがある。 まだ運動が盛り上がらないころは、小さな記事で「安保条約“改正"反対運動…」というような見出しも見かけた。“改正"だった。 その後、日本労働組合総評議会(総評)や日本社会党を中心に、広い層を糾合した「日米安保条約改定阻止国民会議」が発足し、この条約の内容が次第に明らかになるにつれ、徐々に運動は盛り上がりを見せ始めた。いわゆる全学連(全日本学生自治会総連合)の運動への登場もそれに拍車をかけた。 日米間の交渉は1958年ごろから始まっていたが、60年に至って、安保反対は国民運動の様相を呈し始めた。そしてこのころから、新聞の見出しもほとんどが「安保条約“改定"阻止運動」と、“改正"ではなく“改定"と書かれるようになったのだ。 それは、当時の研究者や学者、文化人といわれる人たちが、丁寧に安保条約の条文を吟味して、その内容の不平等な偏りと危険性を指摘したことによるのだろうし、新聞記者たちも、これは“改正"ではなく“改定"なのだと気づいたからではなかったか。 広辞苑によれば、改正は「改めて正しくすること」、改定は「従来のきまりなどを改め定めること」とある。つまり、改正は「従来よりよくすること」であり、改定は「良し悪しに関係なく、変えること」だ。 だから、「安保反対運動」は、「改正阻止」ではなく「改定阻止」といわれたのだ。 ところで、現在の憲法論議はどうだろう? 現在のあらゆる新聞は「憲法改正」と書く。ぼくは、残念ながら「憲法改定」という見出しを、最近の新聞紙上で見かけたことがない。もし今も「憲法改定」と書いている新聞が存在するなら、教えてほしい。 このことに、ぼくは引っかかるのだ。 その新聞社が「今の日本国憲法は正しくないから、正しい方向へ変えるべきだ」との社論を持っているのなら「改正」でもいいだろう。新憲法草案を社として発表したことのある読売新聞社や、ことあるごとに“憲法改正"を叫ぶ産経新聞社であれば、「憲法改正論議高まる」などと見出しに打つことは、それなりに理のあることだろう。 しかし、ほかの新聞社やテレビ局のニュースなどはどうなのか? 朝日新聞も毎日新聞も東京新聞だって沖縄の2紙だって、やはり憲法論議に関しては「改正」の2文字を使っているではないか。 だからぼくは問いたい。 「あなたの社は、社論として『憲法改正』をすべきだと考えているのですか?」 「現行の憲法は正しくないのだから、正しい方向へ変えるのがいいとお考えですか?」と。 少なくとも、ぼくは「憲法改正」という言葉を使ったことはない。むろん、他人の文章を引用したりする場合は使うけれど、自身の文章の中では絶対に使わない。「憲法改定」か「改憲」とする。 日本語が乱れているという。こんな根本的な、日本の進む方向を決定づけてしまうような事案にさえ、きちんともとの意味通りの言葉を使わないのであれば、「日本語の乱れ」は決定的であろう。 新聞やテレビが圧倒的に「改正」という言葉を使う以上、それに日常的に接する読者や視聴者は、いつの間にか「正しくないものは正しい方向へ変えるべき」と刷り込まれていくのは当然だろう。 新聞やテレビが、世論を「改正」へ誘導しているのだ。 マスメディア各社は世論調査で「憲法改正賛成が反対を上回った」などと報じる。しかし、そのような方向に読者や視聴者を、意識してか無意識でかは知らないけれど、引きずっていっているのは、マスメディア自身であると言わざるを得ない。 少なくとも、客観的な記事を書くのであれば、憲法に関しては「改正」ではなく「改定」とすべきだとぼくは思う。 このように書けば、「重箱の隅をほじくるような議論だ」と、例によってネット右翼諸氏から批判されるかもしれないが、これは決して重箱の隅ではなく、とてつもなく大きくて重要なことだと思うのだ。 |
たしかに「憲法に関しては「改正」ではなく「改定」とすべきなのだろうが、現在の自民党は現憲法は「GHQの押し付け憲法」と言ってはばからなかったのだが、少なくとも2012年の憲法改正草案はまさに現憲法からすれば「壊憲」案であったことは言うまでもない、とオジサンは思う。
【参考】
60年安保闘争のころ安倍晋三は首相官邸内で母方の祖父である当時の岸信介首相の膝に抱かれていたという。
一方同じころ同年齢の志位和夫は父親の肩車から国会前のデモの様子を見ていたという逸話がある。