ク・ビョンモ「ウィザード・ベーカリー」を読了しました。
今年の<創批青少年文学賞>です。
創批>(2003年までは<創作と批評社>だった)は韓国を代表する出版社のひとつで、これまで萬海文学賞等の権威ある文学賞を主催してきました。その<創批>が昨2008年<創批青少年文学賞>を新たに創設したのですが、それは当然今日の韓国の出版界・文学界の状況をにらんでのことでしょう。
端的に言えば、1990年代以降の社会の変化にともなう、文学の多様化・読者ニーズの多様化ということです。
私ヌルボが、その第1回受賞作のキム・リョリョン(金呂鈴.1971~)「ワンドゥギ」を読んだのは昨年のことです。8月、教保文庫に行ったら、これがイチ押し、という感じで平積みされていました。
【「ワンドゥギ」の表紙】
その「ワンドゥギ」はとても読み応えがあって一気読みしました。
さらに今回の第2回受賞作のク・ピョンモ(具竝模.1976~)「ウィザード・ベーカリー」も好評でベストセラーの上位にランクインしていたので、さっそく注文して読んだというわけです。
「ウィザード・ベーカリー」は「ワンドゥギ」に比べ少し読むのに苦労しましたが、どちらも、韓国の現在のヤングアダルト(YA)小説、そして青少年を取り巻く社会を語るにあたって取り上げるに足る優れた作品だというのが率直な感想です。
※キム・リョリョン、ク・ピョンモはどちらも女性です。(名前もペンネーム。)
今回はその2作品を、ヌルボなりの感想も含め、2回に分けて紹介します。
「ワンドゥギ」の主人公は17歳。高3の少年で、<ワンドゥギ>はその名前です。母親はなく、父親は<ナンジェンイ(난쟁이)>=小人症の障碍者で、当然経済的に苦しい中で生活しています。勉強はできませんが、ケンカでは負けません。
担任の<糞トンジュ>は一人暮らしで、それもよりによって隣りの建物のオクタプパン(옥답방.屋塔房)に住んでいています。ワンドゥギは、教会に行って、「そのウザったい先生を殺してください」などと神に祈ったりもしていますが、その後先生はワンドゥギに、「おまえのお母さんはベトナム人の女性で、今は・・・・」などと告げます。
※「ナンジャンイ」(ナンジェンイと同じ)といえば、韓国の現代文学史を語る上で抜かすことのできない、趙世熙(チョ・セヒ)の「小人が打ち上げた小さなボール(1978)」(난장이가 쏘아올린 작은 공)を思い起こします。
【「ワンドゥギ」の登場人物。左端がワンドゥギ、その右が母。右から3人目が父、2人目が担任の<糞トンジュ>】
父子家庭、外国人移住労働者、混血の少年、障碍者等々というと、困難な中でけなげに生きる弱者たちを温かく描く、涙溢れるような作品ではと思われるでしょうが、この小説はそんな<湿っぽさ>ではなく、物語はスピード感のある筆致で軽やかに展開します。
主人公ワンドゥギは世間に対して怒りや反抗を暴発させることなく、ケンカのパワーをキックボクシングに昇華させます。なぜか優等生女生徒のユナもワンドゥギに彼に関心を寄せますが、ベタついた関係(?)には陥らず、逆境にありながらもワンドゥギは健全で、着実に大人へと成長してゆきます。
このように、この小説は、読者の社会的弱者とその生活に対する先入観を破る、新鮮な魅力があります。さまざまな差別と偏見の象徴的存在ともいうべき立場の主人公ワンドゥギからして、ふつうの少年として描かれていることにも共感を覚えます。
ある韓国のブログに、こんな批評がありました。「ケンカは日陰、キックボクシングは日向と見ると、「ワンドゥギ」は日陰にいる主人公が日向に出る過程を希望的に描いている」、その通りです。さらに続けて、「しかし現実はそうではない。ワンドゥギのように凄絶な環境に置かれている子どもたちは日向に向かうことどころか、生存を心配しなければならないほど生活が厳しいばかりだ」。
現実と虚構との関係性、この小説で表現されるような<希望>のもつ現実的な力をどう見るか、で否定的な評価を下す人もいるようですが、私ヌルボとしては、グローバル化時代の今の韓国社会の一端を知るという<ためになる>小説だったし、それ以上に、おもしろく、爽快な読後感の得られた当たりの本でした。
今の日本社会の状況、日本の青少年のおかれている状況と共通するところは多いと思います。もし日本語に翻訳されたら多くの読者の共感と感動をよび起こすのではないでしょうか。
→ 韓国のYA小説「ワンドゥギ」と「ウィザード・ベーカリー」を読む(2) に続く。
今年の<創批青少年文学賞>です。
創批>(2003年までは<創作と批評社>だった)は韓国を代表する出版社のひとつで、これまで萬海文学賞等の権威ある文学賞を主催してきました。その<創批>が昨2008年<創批青少年文学賞>を新たに創設したのですが、それは当然今日の韓国の出版界・文学界の状況をにらんでのことでしょう。
端的に言えば、1990年代以降の社会の変化にともなう、文学の多様化・読者ニーズの多様化ということです。
私ヌルボが、その第1回受賞作のキム・リョリョン(金呂鈴.1971~)「ワンドゥギ」を読んだのは昨年のことです。8月、教保文庫に行ったら、これがイチ押し、という感じで平積みされていました。
【「ワンドゥギ」の表紙】
その「ワンドゥギ」はとても読み応えがあって一気読みしました。
さらに今回の第2回受賞作のク・ピョンモ(具竝模.1976~)「ウィザード・ベーカリー」も好評でベストセラーの上位にランクインしていたので、さっそく注文して読んだというわけです。
「ウィザード・ベーカリー」は「ワンドゥギ」に比べ少し読むのに苦労しましたが、どちらも、韓国の現在のヤングアダルト(YA)小説、そして青少年を取り巻く社会を語るにあたって取り上げるに足る優れた作品だというのが率直な感想です。
※キム・リョリョン、ク・ピョンモはどちらも女性です。(名前もペンネーム。)
今回はその2作品を、ヌルボなりの感想も含め、2回に分けて紹介します。
「ワンドゥギ」の主人公は17歳。高3の少年で、<ワンドゥギ>はその名前です。母親はなく、父親は<ナンジェンイ(난쟁이)>=小人症の障碍者で、当然経済的に苦しい中で生活しています。勉強はできませんが、ケンカでは負けません。
担任の<糞トンジュ>は一人暮らしで、それもよりによって隣りの建物のオクタプパン(옥답방.屋塔房)に住んでいています。ワンドゥギは、教会に行って、「そのウザったい先生を殺してください」などと神に祈ったりもしていますが、その後先生はワンドゥギに、「おまえのお母さんはベトナム人の女性で、今は・・・・」などと告げます。
※「ナンジャンイ」(ナンジェンイと同じ)といえば、韓国の現代文学史を語る上で抜かすことのできない、趙世熙(チョ・セヒ)の「小人が打ち上げた小さなボール(1978)」(난장이가 쏘아올린 작은 공)を思い起こします。
【「ワンドゥギ」の登場人物。左端がワンドゥギ、その右が母。右から3人目が父、2人目が担任の<糞トンジュ>】
父子家庭、外国人移住労働者、混血の少年、障碍者等々というと、困難な中でけなげに生きる弱者たちを温かく描く、涙溢れるような作品ではと思われるでしょうが、この小説はそんな<湿っぽさ>ではなく、物語はスピード感のある筆致で軽やかに展開します。
主人公ワンドゥギは世間に対して怒りや反抗を暴発させることなく、ケンカのパワーをキックボクシングに昇華させます。なぜか優等生女生徒のユナもワンドゥギに彼に関心を寄せますが、ベタついた関係(?)には陥らず、逆境にありながらもワンドゥギは健全で、着実に大人へと成長してゆきます。
このように、この小説は、読者の社会的弱者とその生活に対する先入観を破る、新鮮な魅力があります。さまざまな差別と偏見の象徴的存在ともいうべき立場の主人公ワンドゥギからして、ふつうの少年として描かれていることにも共感を覚えます。
ある韓国のブログに、こんな批評がありました。「ケンカは日陰、キックボクシングは日向と見ると、「ワンドゥギ」は日陰にいる主人公が日向に出る過程を希望的に描いている」、その通りです。さらに続けて、「しかし現実はそうではない。ワンドゥギのように凄絶な環境に置かれている子どもたちは日向に向かうことどころか、生存を心配しなければならないほど生活が厳しいばかりだ」。
現実と虚構との関係性、この小説で表現されるような<希望>のもつ現実的な力をどう見るか、で否定的な評価を下す人もいるようですが、私ヌルボとしては、グローバル化時代の今の韓国社会の一端を知るという<ためになる>小説だったし、それ以上に、おもしろく、爽快な読後感の得られた当たりの本でした。
今の日本社会の状況、日本の青少年のおかれている状況と共通するところは多いと思います。もし日本語に翻訳されたら多くの読者の共感と感動をよび起こすのではないでしょうか。
→ 韓国のYA小説「ワンドゥギ」と「ウィザード・ベーカリー」を読む(2) に続く。