ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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76年前の「その国」と現在の「この国」

2012-05-11 20:06:18 | 北朝鮮のもろもろ
 崇高な理念を掲げて樹立された<この国>
 <作家>は、「ユートピアが現実のものとなりつつある国」との熱い共感を<この国>に抱いていました。
 一方、<この国>に対する非難は非常に激しく、それは「破廉恥きわまりないほど」と彼は書いています。
 <作家>は、旧知の間柄だったこの国の作家が病の床にあると聞き、見舞いの目的でこの国を訪れます。重病の作家は到着の翌日会えないままに亡くなりますが、<作家>は当地の作家同盟の賓客として、この国の各地を約2ヵ月間見てまわります。

 帰国後、<作家><この国>の旅行記を出版します。
 以下は、その内容の一部を略述したものです。

[A]
 公園等ではアコーディオンの伴奏で歌を歌っている人たちやバレーボールをやっている人たちがいる。楽しそうな雰囲気である。少し離れたところに室内競技場もあって、人々は将棋やゲーム等を楽しんでいる。野外劇場では、多くの人が演劇を鑑賞している。
 みな身なりはきちんとしているし、誠実さや礼儀が感じられる。


 ・・・大多数の国で、ふつうにあるような光景でしょう。予告しておくと、このような「ふつうの(orそれ以上に好ましい)」記述があることに注目!なのです。

[B] 
 若者たちによる整然とした行進は何時間も続いた。「私はこんなに目覚ましい光景を想像だにしなかった。・・・これらの若者をつくりだすことのできる国と制度にどうして感心しないでいられようか。」

 
 ・・・このような好意的・肯定的な記述だけではなく、批判的な感想が後になるにつれ多くなっていきます。

[C] 
 商店の前で、開店を待つ人たちが長い列をつくっている。
 しかし、品物はほとんどがっかりさせるような粗悪なものである。しかし選択の余地はないのである。ちっとも未練を感じさせないあの過去は別としても、他に比較するものをもたない彼らは、与えられたものに満足しなくてはならない。要は、人々に可能な範囲において幸福であると信じ込ませることである。他のどこの国の人間よりも・・・。こうしたことは、細心に外部とのあらゆる接触を妨げることによってはじめてできるのである。いわば、彼らの幸福は希望と信頼と無知によってつくられているのである。 

[D]
 異常な画一というか一致というか、そんなものが民衆の服装にまで現れている。と同様に、もしも人々の精神を見通すことができれば、そこにもひとしく画一的なものが潜んでいるのじゃないかと、ふと考えさせられたほどである。
 住宅も同様である。同じように粗末な家具、同じように指導者の肖像があるが、他のものは完全に何もない。

[E]
 人々は、すべてのことに一定の意見しかもてない。だが人々は皆非常によく訓練された精神の持ち主となっているので、こうした画一主義も平気なものとすらなっている。しかもこのような精神の鍛練は、ずっと幼い子どもの時代から始められる

[F]
 批評精神はほとんど完全に喪失している。批評は、告発や忠告(食堂のスープはよく煮えていないとか・・・)以外には、またこれこれのことは「基準にかなう」ものかを問うこと以外には存在しない。論議しているのは、基準そのものについてではなく、この作品やあの身振り等がこの神聖な基準に一致するものであるか否かを知ることである。基準の範囲を一歩でものりだした批評は許されないのである。

[G]
 彼らにとっては、この国以外の国々はすべて、夜の闇につつまれているのである。つまり若干の破廉恥な資本家を除くと、あとのすべての人間は闇の中でもがいているように考えられているのである。

[H]
 歓迎会等では、指導者のための乾杯がくり返される。彼の肖像はいたる所にみられる。どんなに惨めなむさ苦しい部屋にも。工場の事務室にある大きな絵の真ん中には演説をしている彼の姿が描かれている。両側には政府の幹部たちがずらりと並んで拍手している。

[I]
 「今日この国で要求されているものは、すべてを受諾する精神であり、順応主義(コンフォルミスム)である。そして人々に要求されているものは、この国でなされているすべてのものに対する賛同である。のみならず、為政者たちが獲得しようとして努めているものは、この賛同が諦めによって得られた受動的なものではなく、自発的で真摯なものであり、さらにそれが熱狂的なもののように望まれているのである。そして、何よりも脅威に値することは、この要求が達せられていることである。
 また他方、ほんのわずかな抗議や批判さへも最悪の懲罰を受けているし、それに、すぐに窒息させられているのである。
 私は思う。今日いかなる国においても、たとえヒットラーのドイツにおいてすら、人間がこのようにまで圧迫され、恐怖におびえて、従属させられている国があるだろうか。」

[J]
 作家は、優遇に対する感謝のメッセージを指導者に送ろうとして郵便局に立ち寄る。「私はここから貴方に心から・・・」と書き始めると、翻訳者は「貴方」だけでは不十分で、前に「労働者の先導者」とか「民衆の主である・・・」というような言葉をつけることを提言した。「こんな馬鹿馬鹿しい話はないと思った私は、指導者はそのような阿諛追従を軽蔑する人に違いないと抗弁した。が、いくら言い争っても問題にならない。」(結局、作家は我を折ってしまう。「電文に関するかぎり一切の責任は負えないと声明して。」

[K]
 「あれだけの努力を尽くし、あれだけの年月を経たからには、彼ら民衆も少しは頭をもたげてきたことだろう、とわれわれは期待していた。-だが、彼らの頭はいまだかつてこれほどまでに低くかがめられたことはないのである。」


 ・・・冒頭でわざと書きませんでしたが、<この国>とはソヴィエトで、<作家>アンドレ・ジイドです。(近年の表記はジッドがふつう。) そして彼の旧知の作家とはゴーリキーのことです。

            
   【1937年発行の岩波文庫版では「ソヴエト旅行記」と表記されています。】
 
 このジイドのソヴィエト訪問は1936年夏。帰国後著した「ソヴィエト旅行記」は大きな反響をよびました。
 とくに左翼系の人々は彼をさまざまに批判しました。「一部しか見ていない」「敵を利する」「変わりつつある社会を、長い目で見るべし」等々。
 これらの批判に対して、ジイドは続けて「ソヴィエト旅行記修正」を発表します。「修正」といっても、内容は反省や自己批判ではなく、さらに具体的な資料もあげた上でソヴィエトの体制批判を記したものです。
 その内容を一部抜粋して略述します。

[L] 
 批判者の示す資料は彼らに与えられた数字。その旅行も、相手が見せようとしたものだけに過ぎない。

[M]
 「出世の秘訣は犯罪の密告だ。・・・やがて人はあらゆるもの、あらゆる人に、心を許さなくなる。無邪気な子供の言葉が君を破滅させることも出来るのだ。」

[N]
 「ソヴエト連邦内を仔細に歩き廻った人たちは、・・・一歩大都会を去って、普通ツーリストが旅行する経路から離れたら、たちまち幻滅したはずだと言っている。」

[O]
 「ソヴエト連邦で僕等が見るものすべて陽気なのは、この国では陽気でないものがさっそく、胡散くさく思われるおそれがあるからであり、寂しそうなようすをしたり、さびしさを外に出したりすることが、非常に危険だからだ。」

[P]
 「今日、ソヴエト連邦で、「反対派」と呼ばれているものは、実は、自由批判と、自由思想でしかないのだ。スターリンは、賞讃だけしかうけつけない。彼は喝采しない者を、すべて敵だと認める。」

[Q]
 「仏領赤道アフリカを旅行したとき、誰かに「案内されて」いる間は、すべてがほとんど素晴らしく目に映った、といったことを私はすでに書いたことがある。私がはっきり事物の姿を見はじめたのは、総督が回してくれる自動車におさらばして、単身徒歩で、この国を歩き回り、半年の時日をかけて、原住民たちに直接接触しようと思ったそのときからである。」


 ・・・ジイドが仏領アフリカに赴いて植民地支配を厳しく批判した「コンゴ紀行」を出版したのが1927年。その時は右翼の側から「植民統治の恩恵」や「ジイドの非政治的虚論」を持ち出した非難が多かったそうです。そしてこの時は左翼の側から同じような非難が・・・。ジイドとしては、プロパガンダの文を期待する(強く求める)政治権力の誘いを厳しく拒否する姿勢に変わりはありません。
 そして最後の文章が次の[R]です。

[R] 
 「ソヴエト連邦は、僕等が期待したもの、彼自身が約束したもの、彼自身がまだ斯くありと見せかけようとしているものでは、既になくなってしまった。彼はあらゆる僕等の希望を裏切った。僕らが若し、希望を失いたくないと思ったら、余所へその希望を移すより他に仕方がない。
 然し、僕等はお前から眼をそむけはしない、光栄ある、そして痛ましいロシアよ、最初、お前は僕等のために模範になってくれることが出来たが、今や悲しいかな、お前は僕等に見せてくれるのだ、革命といふものが、どんな砂の中に填(はま)り込んでしまひ得るものかを。」


 ここまで「ソヴィエト旅行記」と「ソヴィエト旅行記修正」の内容をいろいろ紹介しました。
 その意図がどこにあるかというと、本ブログの趣旨からきっとお察しのように、76年前の「その国」ソビエトと、現在の北朝鮮があまりにも似ている、ということです。
 今個別には書きませんが、上記の各文の下線を付けた部分は、北朝鮮にもそのままあてはまることです。
 北朝鮮の体制が、<スターリニズム>と、戦前日本の<天皇制ファシズム>と、朝鮮の伝統的な<儒教による支配体制>の混合であるとはしばしば指摘されている(?)ことですが、今「ソヴィエト旅行記」を読み返して、ここまで共通点があるとは思いませんでした。
 そして1936年のソヴィエトと現在の北朝鮮という両者を隔てた年数の差を考えると、言葉を失うほどです。人々は、あるいはわれわれは、あるいはとくに政治に理想を求めてきた(主に「左翼」の)人々は、一体歴史から何を学んできたのか・・・?

 私ヌルボが、以前1度読んだことはあるものの、詳細は覚えていなかった「ソヴエト旅行記」を読み直し、さらに今はレア本で横浜市立図書館では館内閲覧のみになっている「ソヴィエト旅行記修正」にも目を通したきっかけになったのは、柳美里「ピョンヤンの夏休み」(講談社)を読んだからです。
 その中に、牡丹峰(モランボン)や大同江を散策した時の、平和で和やかな人々のようすが描かれています。そして柳さんは、彼ら市民が「サクラ」であるはずがない、と記しています。
 この箇所を読んで、私ヌルボが思い出したのがジイドの「ソヴィエト旅行記」だった、ということです。具体的には、先にあげた[A]に書かれている部分です。

 [A]にみるような平和で健康的で、幸せそうな光景と、[B]、あるいはとくに[C]以下のような国家体制とは決して相容れないものではないようです。
 このブログ記事で、ヌルボがまず記しておきたい点がそのことです。(2番目が、上述の70年以上隔てた2国の体制の相似、いや酷似。)

 この問題は、最近4月15日の「太陽節(金日成誕生日)」を期して北朝鮮に取材に出向いた多くのジャーナリストの報道姿勢や、その報告記事の内容にも関係しています。
 その件については、別記事にします。(たぶん。)

※柳美里の作品は、感性とか情念といったものを拠り所としたものなので、それを政治的・社会的なモノサシをもって非難しようという気は毛頭ありません。

※宮本百合子は1937年「文藝春秋」2月号で「ジイドとそのソヴェト旅行記」を発表し、ジイドを批判しています。全文は、青空文庫で読めます。→コチラ
 作家ジイドの生涯を貫く最も著しい特質、純粋な誠実を自他に求める情熱への自覚的献身の欲求が、今度のソヴェト旅行では、かえってジイドの現実的理解を制約する力となっていることは、実に意義深い我々への教訓であると思う。(中略) ところが、一方に告白されているような政治的、経済的無識が彼の現実を見る目を支配しているのであるから、ジイドは基本的なところで先ず自己撞着に陥り、観念の中で、心象の中で、把握している新社会の存在が、その本質に於て、違った土台の上に建っている経済的・政治的・文化的現実であることが、具体的にわからなかったように見える。ジイドは、自分がコンゴーを観た観かた、どこでも、何にも目を奪われず、常に絶対に誠実であろうとする自己の主観的な常套にのみ固執し、それに意識を奪われて大局を見誤っている。
 ・・・大局を正確に把握することがいかにむずかしいかを物語っている文章です。
コメント (2)
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