読み書きができるということ[その1]
= 文字を知れば、人生も世界の見え方も変わる =
はい、始めるよ。みんな席についてね。
やっぱり教科書に沿ってた授業よりも、その合間にテーマ学習っぽい授業をやる方が楽しいね。君たちはどうですか?
今日は、まず30年くらい前に別の高校でやった日本史の授業をほぼそのまま再現してやってみます。テーマは「読み書きができるということ」。皆さん、高校生だと、いや小学生でもみんな読み書きができるのはあたりまえと思っているでしょ? ところが・・・という話です。長くなりそうなので今回と次回の2回に分けることにします。
まず、プリントを1枚配りますから読んでみてください。あ、冒頭部分だけ筆者が原稿用紙に書いたそのままのコピーが印刷されてますから、とりあえずそれを見て見てみましょう。
一見して、どういう人が書いたと思いますか? 小学生? たしかに、率直に言って上手な字じゃないですよね。
これはぼくが参加したある研究会で配布された資料集の中の文章です。なんということなく読み始めたんですが、その内容に引き込まれて、これだけですごく感動したんですよ。それでぜひ生徒諸君にも読んでほしいと思ったわけです。
で、書いた人は小学生とかじゃないですよ。先を読んでいってください。年齢も書いてあるよね。そう、藤岡喜美さんという方ですが、この作文を書いた時が68歳ですよ。タイトルの「識字学級」はわかりますか? 読み書きができない大人に文字を教える学級。藤岡さんは1918(大正7)年生まれなんですが、9歳の時にお母さんが亡くなって、その後は炊事や洗濯、子守り奉公などで忙しくて全然小学校に通ったことがないのですよ。それで字も書けないまま何十年も過ごすのです。
君たちは「その気になればいつでも勉強できたんじゃないの?」と思うかもしれない。でもね、ほとんど100%の人が読み書きできることが前提で動いてる日本の社会で、大人なのに字を知らないということがどんなに恥ずかしく、精神的な圧迫があるかはふつうの人にはわからない。だから、たとえば役場や病院に行ったら「ここにお名前を書いてください」とか言われるじゃないですか。そうするとごまかすしかないわけですよ。「眼鏡を忘れてきたので・・・」とか「指を怪我したので・・・」と言って代わりに書いてもらう。
そんなふうにして長年文字を避けて暮らしてきた人が「よし、自分も文字を習うぞ」と決心することは、幼稚園や保育園などで文字を習い始めた子どもとは全然比較にならないほどの覚悟を要することなんです。
作文の中で藤岡さんはその最初の時のことを書いてますね。読んでみましょう。
わすれもしない(昭和)52年6月20日、ともだちや先生にさそわれて、しきじ学きゅうで、生まれてはじめてエンピツをとりました。まず私は、自分の名前もかけませんというと、先生のおどろいたような顔を、きのうのように思い出します。
こうして藤岡さんが識字学級に入ったのが59歳の時です。やはり、仲間の存在が大きいかもしれませんね。名前の前に「高知県同教」とありますが、「同教」ってわかりますか? 地方自治体の同和教育研究会のこと。同和教育とは、被差別部落に対する差別をなくすことを目的とした人権教育。明治初期の四民平等政策や大正時代の水平社の所でやりましたね。それから島崎藤村の小説の・・・、そう、「破戒」でも。とくにそうした被差別部落の人たちの中に初等教育をちゃんと受けられなかった人が多いので、その組織内に識字学級が置かれているんです。高知県では1970年にスタートした・・・って、ずいぶん遅かった感じですよね。
研究会の場で聴いた識字教育担当の先生の話では、それまでずっと文字や筆記用具を避けてきた人が初めてエンピツを持つと手が震えるんだそうです。横棒1本引くにもマス目から大きくはみ出したりして・・・。君たちはひらがなの勉強を始めた頃の記憶はありますか? ぼくはほとんど憶えてないけど、小さい子の書く字を見るとけっこうザツな書き方もありますね。「ま」の字の最後を逆に巻いたり、「ほ」の字の右側を「ま」にしちゃったりとか。ぼくが苦手だったのは「を」の字だね。そうそう、高校生の君たちの書いたひらがなにもたまに首をかしげるのがあるよ。「い」か「り」か見分けがつかなかったり、「や」かと思ったら「か」だったり。「れ」と「わ」と「ゆ」の3通りに読める字を見た時にはウームとうなりましたよ。
識字学級で勉強を始めてしばらく経ったある日、藤岡さんは歯医者に行きます。受付でいつものように「目がみえんき、書いてください」と言うんですね。すると「備え付けの眼鏡を使ってください」と言われる。それで藤岡さんはしかたなく「いっしょうけんめい、はじめて」自分の名前を書きます。
まっていたら、藤岡喜美さん、と、よんでくれました。自分でかいた字がちゃんと、つうようしたことが、うれしくて、うれしくて、なみだが出てきました。
君たちは外国の人と英語で話したことがありますか? あ、君ある? うれしかったでしょ? ぼくも初めて独学してた朝鮮語が初めての海外旅行で北朝鮮に行った時、現地で通じてすごくうれしかったですねえ。しかし、藤岡さんが自分が書いた名前が通用した時の喜びははるかに大きかったんじゃないかなあ。
受付の人はまさかこの人が字が読めないとは全然思ってもみないし、もちろんうれしくて涙が出たという気持ちもわかるわけはない。皆さん、この落差を考えてみてね。いや、感じ取ってほしい。藤岡さんという個人のこのエピソードに彼女の人生だけでなく、日本の近代史の中でなおざりにされてきた問題が凝縮されているように思います。
こうして文字を習い始めた藤岡さん、テレビを見たり手紙を書いたりすることが本当にうれしくて、「生きがいをあたえてくれました」と記していますね。
識字学級の遠足の時には「生まれてはじめて、しのまねごとが出きました」と、次のような詩を作文の中に書いています。
えんそく
やすいけいこくへ
しゅっぱつ
バスにゆられながら
まどごしにながめる
モミジのあざやかさ
山はまっかに
もえている
私の心は
ふうせんのように
高く上る
うきうき、ふわふわ
たのしい一日でした
おそらく、文字を知っていると文字が溢れている街の景色だけではなく、自然も含めて世界の見え方も違ってくるのかもしれませんね・・・。
さて、皆さん。ここまでが約30年前の授業のほぼ前半です。
この1990年という年はたまたま国連で「国際識字年」として指定された年だったんです。
ということで、後半は世界に視野を広げて考えてみます。そして現在、つまり2020年代の日本と世界の識字をめぐる問題も考えてみることにします。
→ 読み書きができるということ[その2] = 99%と、取り残された1% =
= 文字を知れば、人生も世界の見え方も変わる =
はい、始めるよ。みんな席についてね。
やっぱり教科書に沿ってた授業よりも、その合間にテーマ学習っぽい授業をやる方が楽しいね。君たちはどうですか?
今日は、まず30年くらい前に別の高校でやった日本史の授業をほぼそのまま再現してやってみます。テーマは「読み書きができるということ」。皆さん、高校生だと、いや小学生でもみんな読み書きができるのはあたりまえと思っているでしょ? ところが・・・という話です。長くなりそうなので今回と次回の2回に分けることにします。
まず、プリントを1枚配りますから読んでみてください。あ、冒頭部分だけ筆者が原稿用紙に書いたそのままのコピーが印刷されてますから、とりあえずそれを見て見てみましょう。
これはぼくが参加したある研究会で配布された資料集の中の文章です。なんということなく読み始めたんですが、その内容に引き込まれて、これだけですごく感動したんですよ。それでぜひ生徒諸君にも読んでほしいと思ったわけです。
で、書いた人は小学生とかじゃないですよ。先を読んでいってください。年齢も書いてあるよね。そう、藤岡喜美さんという方ですが、この作文を書いた時が68歳ですよ。タイトルの「識字学級」はわかりますか? 読み書きができない大人に文字を教える学級。藤岡さんは1918(大正7)年生まれなんですが、9歳の時にお母さんが亡くなって、その後は炊事や洗濯、子守り奉公などで忙しくて全然小学校に通ったことがないのですよ。それで字も書けないまま何十年も過ごすのです。
君たちは「その気になればいつでも勉強できたんじゃないの?」と思うかもしれない。でもね、ほとんど100%の人が読み書きできることが前提で動いてる日本の社会で、大人なのに字を知らないということがどんなに恥ずかしく、精神的な圧迫があるかはふつうの人にはわからない。だから、たとえば役場や病院に行ったら「ここにお名前を書いてください」とか言われるじゃないですか。そうするとごまかすしかないわけですよ。「眼鏡を忘れてきたので・・・」とか「指を怪我したので・・・」と言って代わりに書いてもらう。
そんなふうにして長年文字を避けて暮らしてきた人が「よし、自分も文字を習うぞ」と決心することは、幼稚園や保育園などで文字を習い始めた子どもとは全然比較にならないほどの覚悟を要することなんです。
作文の中で藤岡さんはその最初の時のことを書いてますね。読んでみましょう。
わすれもしない(昭和)52年6月20日、ともだちや先生にさそわれて、しきじ学きゅうで、生まれてはじめてエンピツをとりました。まず私は、自分の名前もかけませんというと、先生のおどろいたような顔を、きのうのように思い出します。
こうして藤岡さんが識字学級に入ったのが59歳の時です。やはり、仲間の存在が大きいかもしれませんね。名前の前に「高知県同教」とありますが、「同教」ってわかりますか? 地方自治体の同和教育研究会のこと。同和教育とは、被差別部落に対する差別をなくすことを目的とした人権教育。明治初期の四民平等政策や大正時代の水平社の所でやりましたね。それから島崎藤村の小説の・・・、そう、「破戒」でも。とくにそうした被差別部落の人たちの中に初等教育をちゃんと受けられなかった人が多いので、その組織内に識字学級が置かれているんです。高知県では1970年にスタートした・・・って、ずいぶん遅かった感じですよね。
研究会の場で聴いた識字教育担当の先生の話では、それまでずっと文字や筆記用具を避けてきた人が初めてエンピツを持つと手が震えるんだそうです。横棒1本引くにもマス目から大きくはみ出したりして・・・。君たちはひらがなの勉強を始めた頃の記憶はありますか? ぼくはほとんど憶えてないけど、小さい子の書く字を見るとけっこうザツな書き方もありますね。「ま」の字の最後を逆に巻いたり、「ほ」の字の右側を「ま」にしちゃったりとか。ぼくが苦手だったのは「を」の字だね。そうそう、高校生の君たちの書いたひらがなにもたまに首をかしげるのがあるよ。「い」か「り」か見分けがつかなかったり、「や」かと思ったら「か」だったり。「れ」と「わ」と「ゆ」の3通りに読める字を見た時にはウームとうなりましたよ。
識字学級で勉強を始めてしばらく経ったある日、藤岡さんは歯医者に行きます。受付でいつものように「目がみえんき、書いてください」と言うんですね。すると「備え付けの眼鏡を使ってください」と言われる。それで藤岡さんはしかたなく「いっしょうけんめい、はじめて」自分の名前を書きます。
まっていたら、藤岡喜美さん、と、よんでくれました。自分でかいた字がちゃんと、つうようしたことが、うれしくて、うれしくて、なみだが出てきました。
君たちは外国の人と英語で話したことがありますか? あ、君ある? うれしかったでしょ? ぼくも初めて独学してた朝鮮語が初めての海外旅行で北朝鮮に行った時、現地で通じてすごくうれしかったですねえ。しかし、藤岡さんが自分が書いた名前が通用した時の喜びははるかに大きかったんじゃないかなあ。
受付の人はまさかこの人が字が読めないとは全然思ってもみないし、もちろんうれしくて涙が出たという気持ちもわかるわけはない。皆さん、この落差を考えてみてね。いや、感じ取ってほしい。藤岡さんという個人のこのエピソードに彼女の人生だけでなく、日本の近代史の中でなおざりにされてきた問題が凝縮されているように思います。
こうして文字を習い始めた藤岡さん、テレビを見たり手紙を書いたりすることが本当にうれしくて、「生きがいをあたえてくれました」と記していますね。
識字学級の遠足の時には「生まれてはじめて、しのまねごとが出きました」と、次のような詩を作文の中に書いています。
えんそく
やすいけいこくへ
しゅっぱつ
バスにゆられながら
まどごしにながめる
モミジのあざやかさ
山はまっかに
もえている
私の心は
ふうせんのように
高く上る
うきうき、ふわふわ
たのしい一日でした
おそらく、文字を知っていると文字が溢れている街の景色だけではなく、自然も含めて世界の見え方も違ってくるのかもしれませんね・・・。
さて、皆さん。ここまでが約30年前の授業のほぼ前半です。
この1990年という年はたまたま国連で「国際識字年」として指定された年だったんです。
ということで、後半は世界に視野を広げて考えてみます。そして現在、つまり2020年代の日本と世界の識字をめぐる問題も考えてみることにします。
→ 読み書きができるということ[その2] = 99%と、取り残された1% =
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