テレビ、ホームこたつ、ストーブ、冷蔵庫、洗濯機、電話、車、クーラー・・・。私が生まれた当時、家にはなかった。あるのは火鉢とへっついさんのみ。かろうじてプロパンガスのバーナーはあったよな。練炭火鉢が初めて家に来た頃を覚えてるくらいだし。
牛もいた。ほんの幼少期だったから、たまらなく怖かったのを覚えている。鶏もいた。鶏は好きだった。よく抱っこをしたし、鶏の社会にもいじめがあり、一匹だけがいじめられ、トサカをつつかれ千切れそうになるのを、かばうために抱っこして避難してやったりもした。
それから上記の品は何年かに一つずつ我が家の必需品となった。
思えばほんの数年間のことだったんだな。
それから家族構成も変わり、時代も大きく変わった。子供のとき、大人たちの会話に入っていけるようになるのだろうかという、大人になることへの不安は、いつごろからなくなったのだろう。けれども今も小学生の頃の漠然とした不安は鮮明に覚えている。
成長するにつれて、どうやらテレビのニュースや新聞は理解できるようになり、大人としての消費行動もとれるようになったものの、薄給の身では思うもの好きなものを右から左に購入できない。優先順位に則して、けれどもそれが実現できた時の成就感がたまらなく嬉しくもあった。
今はあの頃の渇望感に苛まれることはまずない。それはもう欲しいものは手中にしたからか、はたまた諦めるということを知ったからか。結論。今はもう欲しいものはないが6割。はなっから諦めるということを悟ったのが4割くらいかな。新しいもの、高価なものを追えば際限ないからここらへんでいいや。
宇宙旅行?とんでもない。あれはもうお金を使うところがない人の究極のお金のはかせどころ。いいえ、そうじゃないよ、宇宙開発技術を発展させるために必要な事業、衛星技術のため?壊してしまった地球から脱出して火星移住するため?いやいや宇宙から敵国を攻め、地球を独占したい技術開発のため?
こんな現実、誰が想像できた?
私が生きている間にどんな世界がみられるんだろう。
誰も知らない。