なのに、DNAの違いも大きいですが、人は如何ようにもなれるのです。正しくは如何ようにも変わってしまうのです。
家庭で人間の根っこが出来、初等教育で若芽が伸び、あらゆる外部からの影響で幹を伸ばし、やがて大樹となっていきます。広義に言えば教育も洗脳の一種と言えるかもしれません。母国語や算数は教えないと身に付きません。自然科学は別ですが、そこにも宗教観の入り込む余地はあるのです。
海外では教育に宗教が大きく関わってくることがあるようです。日本では公立の学校では狭義の宗教に基づく教育を学校では行いません。
原始、人間は目に見えない何か、自然の偉大さへの畏怖、自然現象は霊力が影響している、強いては支配していると感じるのは自然な事だったのでしょう。アニミズムの世界です。人間が創り出した世界ですね。飼い犬が拝むようなポーズをとっているなんて、聞いたことないしね。
宗教の規範に拘束される日常は私にはかなりしんどいです。
自分を律することができる人を尊敬します。まして他人のために行動できる人を尊敬します。それは、 たぶん、私は親に ”人のためになる事をしなさい。人に喜んでもらう人間になりなさい。人に尊敬される人間になりなさい”とは教育されてこなかったからかもしれません。そう言えば私も子供に、自分の進みたい道、好きなことをやれ、とは言ってきましたが、人に尊敬される人間になれ、感謝される人間になれ、とは言ってきませんでした。悪いことはするな、とは言ってきましたが・・