さて次は54番延命寺に
向かっていきましょう。
ここも南光坊と同じ今治市内です。
で、市内をくるっと回っていきますと、
前方の高台に城の天守閣が見えてきました。
それがこれ。
先達さんから
「え~皆さんの左に見えている
お城はなんていう城でしょうか」
とクイズが出ました。
「え~今治城かなあ」とみんなが言ってます。
まあ、この辺りは最近
よく来ている場所なんですが、
観光地はほとんどめぐっていません。
なのでこういう城も行ったことがないし、
まったく知らないんですね。
で、先達さんから上がった回答が、
「実はあの城は個人のものなんです。
周りにいろいろとある櫓は
なんとマンションで、
家主が天守閣に住んでいるそうです。」
うヒャー、すごい家ですねえ。
マンションの名前は
「城山ハイツ」というそうです。
ただ見学は家なので
中には入れないそうで、
外から見るだけにしてくださいとのこと。
ネットでいろいろ調べていたら、
今の家主は40歳。
その祖父が建てたものらしいです。
この城の中の石垣には
鬼か幽霊の手形がある
と言われています。
ふーん、なんかお寺より
神秘的かもしれませんな。
とか言ってるうちに、
お寺につきました。
駐車場にバスを止め、
のどかな景色の中、
猫に見守られながらお参りに向かいます。
この寺は、行基が不動明王を
本尊として開いたことが
きっかけとなり、
嵯峨天皇の勅願によって
空海が再興したお寺だと言われています。
不動明王が本尊なので、
お参りをするときに言う本尊御真言が
「のうまく さんまんだ ばざらだん
せんだ まかろしゃだ そわたや
うんたらた かんまん」と長いのだ。
でもしっかりとお参りしましたよ。
この寺には「長寿の心得」があります。
ところで、この寺には
そんな本尊の他に
「近見太郎、近見次郎、近見三郎」
という名の三つの鐘の
物語があります。
まず最初の太郎は
海の中に沈んだといわれています。
で、参道横の山の上に
今もある鐘が「近見次郎」です。
実はこの鐘は太平洋戦争の時に
金属供出で、差し出されることに
なっていました。
しかし、では旅立とうといった日に、
この金は姿を消してしまったのです。
どうやら住民がこっそり
持ち帰っていたようです。
そのことを知らなかった住職が、
終戦後鐘を突くようにしようと
そろえたのが「近見三郎」で
拝殿のそばにありました。
それがこれ。
熊野古道を歩くと、
たくさんのお寺が金を供出していました。
この鐘楼は鐘が釣るしてあるから
こそバランス的によく、
風にも強いとされています。
だから鐘が亡くなったために
バランスを保つために
石をつるしてある鐘楼もありましたねえ。
また大きな鐘を作っておきながら、
戦争のために一度も付くことなく
銃弾か飛行機か武器になって
消えていったという
巨大な鐘も四天王寺にありましたねえ。
ここまで四国遍路をまわった中で
そんな話はあまり聞かなかったのですが、
四国ってあまりそういう供出って
なかったのかなあ。
で、ここの絵ですが、
どこにしようか悩みました。
鐘楼もいいかなあ。
池に移るお寺もいいかなあと悩みましたが、
ここはこの山門を
書いてみることにしました。
この山門も特徴があって、
これは今治城にあったものを
ここに移してきたものだそうで、
作ったのがあの三重県の上野城を作った
藤堂高虎なんだそうです。
絵に描きますと、
ここはバックの山の木々が
多かったですねえ。
しかも今の季節らしく
葉っぱが黄色になっていたり
している木もありました。
ほんとはねえ、真っ赤な紅葉を
書いてみたかったのですが、
ここでは見つからなかったです。
さあ、では次に行きましょう。
続く
四国のお参りも
6回目の参加になります。
今回は愛媛県の第55番「南光坊」から
第46番「浄瑠璃寺」を遍路する
10ヵ寺のツアーです。
気温は寒いけれども、
天気はまずまずの様子。
しっかりと準備をして
出かけましょう。
今回のバス集合地点は
天王寺となります。
以前、天王寺だとすいていたので
そうしたのですが、
今回はほぼ満員の状態で
揺られていくことになりました。
男女割は男性2割程度。
やはり、若干恒例の女性連中が
多くなっています。
だから、何となくバスの中も
結構にぎやかにやってはります。
最近は、いろいろとそういう状況も
わかってきたので、
首藤さんとdoironの二人は
イヤホンで音楽を聴いたり、
首藤さんは新聞をdoironは文庫本を
広げながらバスの時間を過ごします。
え~っと、今は今治辺りまで行くので、
もしかしたらしまなみ海道を行くのかなあ
と思ったら、やはりこれまでと同じく
明石海峡大橋を渡り、
淡路島経由で四国に入っていきます。
なのでもう景色もすっかり見飽きたしね。
バスの中でのんびり過ごしていきます。
最初の頃に比べて、
往復の経路が長くなっています。
この時はだいたい5時間くらいかけて
最初の目的寺に着くという感じでしょうか。
今回は、いつもなら昼食で
どこかの食堂に寄るのですが、
さすがに10寺になると、
ちょっと効率よく動かないと
いけませんので、
途中で積み込まれた弁当をいただいて、
バス中でいただきながら
進んでいくことになりました。
あ、そうそう行きのバスの中では、
向こうで納経を記載してもらう
納経帳と掛軸、そしてその納経代を
支払っておきます。
納経帳300円、掛軸500円を
寺の数だけ渡しておきます。
今回は10寺ですから
8000円を先に渡しておきます。
これがねえ、
意外に経費が掛かるんですよねえ。
88カ所回るだけで、
なんと7万400円なんです。
団体割引ってないのかねえ。
あと高齢者割引とか、
JAF割引とかねえ。
今回もほぼ全員の納経帳と
10本くらいの掛軸を
添乗員さんが集めてくれはります。
まあ、それはそれで
大変なんやろうけどね。
掛軸は大きなリュックに、
納経帳は大きなバッグに詰めて
2人の添乗員さんが
寺に着くや否や先導を
先達に任せて一心不乱に
納経所へと運んでいきはります。
普通のお寺だったらいいんですけど、
山手のある大変なところでは
かなりハードにやってはるようです。
さあ、ではそういう準備も終えて、
最初のお寺である
55番「南光坊」に到着です。
ここは今治に浮かぶ
大三島に大山祇神社が、
船に乗ってお参りすることになるので、
岸に別当寺として建てられたものだそうです。
おお~これは友ヶ島と淡島神社の
話とよく似ていますねえ。
8坊あったものが長宗我部の兵火で焼かれ、
南光坊だけが焼け残ったものだそうです。
本尊はちょっと変わった
「大通智勝如来」だそうだ。
ここは神社の別当寺だから、
お寺の景色もちょっと変わった所があるので、
それを絵にしてみた。
どうですか?ちょっと変わった所が
わかりましたか?
そうです。この寺には狛犬が
置かれています。
しかも大きく体をのけぞった
特徴的な狛犬がね。
右側の「阿型」の狛犬も
そんな感じでおかれていました。
弘法大師を日本一の書聖としていた
川村氏の話なんかも
この寺には関連しており、
寺内には「筆塚」なんかも
置かれていました。
いやあ、わかっていたら
四国の絵をかきつつ
ダメにしてしまった面相筆なんかを
持ってきておさめておけばよかったかなあ、
まあ、でもまたそういう
お寺もあるだろうから、
これからも注意しておきますかね。
続く
我が家には車が2台ある。
一台はdoironの活動車で
もう一台はミセスの軽自動車だ。
この軽自動車がかなり年季が入っている。
もう12年乗っており、
距離も12万キロと
地球を3周できる距離をこなしている。
でもねえ、車屋さんの友達もいて
丁寧に案内もしてくれるので
メンテナンスはきっちりとしており
オイル交換も致命的に忘れたこともないし、
その他の必要部品も
かなりきわどいことはあっても
最終的にはきちんと交換等しているので、
車の動きそのものには
具合の悪いところはない。
まあ行ってみればエンジン音が
ちょっと大きいかな?って程度だ。
12年で12万キロというのは、
まあまあ乗っているほうだろう。
そう、義理の親が御坊にいたころに、
半ば介護のために
毎週一回通いつつ、
買い物、家の用事などを
手伝っていたというのも
距離が伸びた要因だな。
で、先日村の友達から
13万キロ乗っていた軽自動車が
走行中に突然停止して、
もうエンジンがお払い箱になった
という話を聞いた。
まあ、そんなこともあるんやねえ。
で、彼も車を買い替えて、
信号待ちの時にエンジンが
停止するような車に
乗るようになったら、
燃費が飛躍的に上がった
なんて話も聞いたりもした。
そんな話を耳にし、
ミセスの気持ちも
変わってきたようである。
今の車は、ラベンダー色の
かわいい車でミセスのお気に入り
(ラべちゃんと呼んでいた)
でもあるのだが、
いよいよかつての親と同様に
介護の始まりそうな年代になってきており、
突然走行中に泊まったりする
こともあると考えたら、
ぼちぼち買い替えるか
という気持ちになってきたようである。
ではどんな車に買い替えるか。
今度はそんな気持ちで
世の中を走り回っている
軽自動車をかなり興味をもって
見回すようになってきた。
ああ~あの車もいいなあとか
値段はどれくらいするのかな
とかいろいろリサーチも始めたのだ。
でもねえ、軽自動車って結構高いね。
小排気量の普通自動車のほうが
安かったりするのだからねえ。
それでもうちの家は、
軽自動車を普通車の陰に
止めるような特殊な車庫なので
軽自動車を止めるだけで
精いっぱいなので
普通車を買うというわけにはいかない。
そういう理由から、
やはり軽自動車を買わざるを得ないのだ。
車種選びには「いいなあ」と
思った車で近所の人が
あまり乗っていない車を選ぶことにした。
今度はこれにしようかな、
と思っていたら同じものを
近所の人が買ったということもあり、
再検討に入ったということもあった。
そして、その結果、
ミセスが選んだ車がこれ。
ダイハツの赤いキャスト、
略して赤キャス。
購入にあたっては、
実はこれまでと違った形で
買うことにした。
それが、最初3年間はリースで借り、
のちに残金を払って
買い取るというシステム。
これだと、若干トータルの
支払金額が安くて済む
という結果が出たので
そうすることにした。
とりあえず、新年を迎えて
しばらくすればこの車がやってくるので、
どこかにお祓いにでも行ってこようかな、
と思っているところなのである。
大阪市内の御堂筋が
今年も電飾飾りをしている。
大阪の都市ブランドの向上と
観光誘客促進を目指しているそうだ。
何色ものLEDが
約3キロにわたって続いているそうで、
先日難波で忘年会の時に
早めに行ってずっと歩いてみた。
うわあ、きれいだねえ。
確かに色とりどりで鮮やかだ。
でも、車を運転している人には
邪魔にならんのかな
というのがちょっと心配かなあ。
まあ、でも明るい都会の景色の中を
歩いていると、幸せ感が膨らむよねえ。
久しぶりに歩いてみると、
まわりの景色もちょこちょこと変わっている。
そうそうあのスポタカが
いつもの場所に
もうなくなってちょっと寂しいねえ。
1年以上たつのかな。
近隣の施設に移転したそうです。
そしてそのあたりから見えるのが、
あのグリコの看板。
これがねえ、創設以来何度も進化しているそうで、
いまではバックの景色なんかも
大きく変わるそうです。
じっと見てますと、
砂漠をピラミッドを背景に
歩いていたりすることもあるのでした。
こんな感じ。
その下の道頓堀川沿いも
歩くところもあって、
まあよく頑張って補強したものですね。
で、この御堂筋の電飾はLEDなんですが、
電気代はどれくらいだと思いますか?
まあ、この辺は資源保護の
環境整備と相まって、
いろいろと問題視される部分だ。
この電気があったらもっと
自然にやさしく
できるんじゃないかとかね。
それを電気代から考察してみよう
とする人は多い。
なので、まあ主催者側も
以前はホームページで
その電気代のことに触れていた。
以前のもうちょっと短かったころの
電気代は約15000円/日くらい
だったから、少し長くなった今だと、
だいたい一日2万円くらい
ではないですかねえ。
まあ大体かなり電気を使う
家庭の1ヵ月分くらいかなあ。
LEDの発明って偉大ですねえ。
まあこうして照明をすることで、
こんなdoironでも
2回訪ねてきたりしているから、
効果的にもまあまあな
ところじゃないですかね。
せっかくだからこんな場の近くで
忘年会をしようとなったくらいですから、
まあまあ経済効果も
少しはあるんでしょう。
それに暗い路地をネクタイに
首絞められて寒々と歩くことを考えたら
精神的にも前向きな力も沸くってもんですしな。
さて、その忘年会ですが、
最近はかなり減りました。
働いていたころは10回以上、
二けたの忘年会があり、
しきれない部分は新年会に
となったのですが、
今のところ7つしか入っていません。
もう5つこなしました。
なのであと2つ。
体のことを考えたらこの辺が
限界ですかねえ。
忘年会ごとにミセスの
心のイルミネーションが、
青黄赤と変わって行きますが、
今年はどうやら黄色どまりで
終わりそうです。
この熊野大社方面が見える
見晴らし台は
和歌山朝日夕日100選ですね。
見晴らしのいいところに
座って食事にしましょう。
まずは湯を沸かしてとやってますと、
ベンチに座っているお姉さんから
声がかかりました。
そこのキムタクに似たかっこいいお兄さん、
「どっから来られたんですか?」
「あ、はい今日は車で来て伏拝王子からです」
「どこまで歩かれるんですか」
「え~っとねえ、今日は大社に行って
熊野古道結願なんです」
「全部歩かれたんですか」
「あ、そうですねえ。
経路をたしたら琵琶湖から
歩いていることになります」
「そうですかあ」
「お宅はどこから?」
「私は千葉から来ています。
昨日は湯の峰に泊まって、
今日はこの古道を歩いてます」
おお~、千葉からとは
遠いところからですねえ。
千葉と和歌山がよく似た地名であることに
驚いたでしょうねえ。
この道が世界遺産なんで
きっと味わいに来はったんでしょうねえ。
外国人といい、関東からの人といい、
すっかり熊野も有名に
なりましたねえ。
途中、山道を誰にも会わずに
一日かけて超えてきた日も
あったりしたので、
まさかここがこんなに大勢の
人でにぎわっているなんて
全く予想もできませんでしたね。
おっ、湯が沸きました。
今日のご飯はおにぎり二個とみそ汁です。
う~ん、外で食べる飯は最高ですねえ。
幸せにしてたら、
さっきのお姉さんが出発していきはりました。
「気を付けて~」
さあ、ではdoironも片づけて
最後の坂道を下っていきましょう。
階段になった急な坂を下っていきますと、
元の道に合流します。
道標の数値も「74」まで来ました。
この道標もあと一つですねえ。
古い石像があったり、
昔の石畳の道があったり、
紅葉が輝く道を下っていくと
やっと住宅地に出てきました。
この住宅地の先に見えてきた山が、
もう熊野大社の敷地内です。
でも待てよ、
もう一つ王子があったはずです。
どこかなあと思いつつ歩いていくと、
おお~滝尻王子から続いてきた
番号道標の最後の一つ、
75番の道標がありました。
そしてその前にあったのが
「祓殿王子跡」です。
資料によっては「祓所王子跡」
とも言われています。
熊野大社のすぐ横で、
昔は古道を歩いてきた人が
ここで旅の汚れを払い、
心身をきわめたところですね。
doironもここにしっかりお参りをして、
服装を祓い、
さあいよいよ熊野大社の中へと
入っていくことにしましょう。
古道を歩いている間に
4人の親と愛犬を亡くし、
いまは夫婦二人でひっそりと
家を守っています。
でも4人の親は最後の最後まで
看取ることができましたし、
愛犬も腕の中で静かに
なくなっていきました。
なので、寂しいということもありますが、
やるべきことを
ちゃんとし終えたという
気持ちもあります。
熊野を歩いているときは、
自分が命の縁を歩いたという記憶も相まって、
人生の中で命の重さを
しっかりと感じた年月でもありました。
それが僕にとっては
熊野の再生信仰につながる
出来事だったんでしょう。
熊野大社には祈る場所が5カ所あり、
それとなく順番が決められています。
まずは中央にある
スサノオノミコトの第3殿
これは来世をつかさどります。
そこから左にハヤタマノオオカミの第2殿
(前世をつかさどります)、
そして左端のフスミノミコト第1殿
(現世をつかさどります)、
そして右へ移り
アマテラスオオミカミのあと
右端の結びの神・払いの神を
お参りします。
しっかりと祈った後です。
その時にまた不思議な出来事があったんです。
こういうことはたまにあります。
親父の葬式の時に流れた天女のような雲、
伊勢神宮に参ったときに
急に吹いた突風で幕が
跳ね上がったこと。
なんか不思議な力を感じる出来事でした。
今回起こったそれは、
それぞれに順番通りに参って、
山門のところで社殿全体を
見渡した時に起こったのでした。
とても不思議な雲が突然表れていました。
それがこれです。
一本の線の両側に、
羽のように舞う雲の姿。
神々の石が空に浮かんで
漂っているようでした。
あんな羽根のような雲は
初めて見るものでした。
今も、そしてこれから先も
doironは変わらず一生懸命
生きていくでしょう。
それをまるで励まして
くれているような素晴らしい雲が、
この熊野の答えなんだと
教えられたような
気がした結願の日なのでした。
今回はこんなコースを歩きました。
ここまでdoironの
熊野古道シリーズを読み続けてくれた皆さん、
といってもこんな邪魔臭いブログを
全部読んだ人はいるかなあ。
まあ、そんな皆さんのご健康を祝し、
このシリーズを一旦終えましょう。
でもこの後も速玉大社、
那智さんも行く予定ですし、
湯の峰温泉にも絶対入りに
行きたいと考えてますので
その都度紹介していきましょう。
熊野のご愛読、ありがとうございました。
この王子跡に咲くこの花のことは
結構話題になることが多いそうです。
今年も咲きました
ネットから
「キイジョウロウホトトギス」
みたいなニュースがよく流れるそうです。
残念、ちょっと季節が外れてましたね。
さあ、では次を目指してゆきましょう。
こういう茶畑なんかもありますねえ。
番号表はもう69番まで来ました。
たしか、滝尻から始まった
この道標は75番が最後でしたね。
頑張っていきましょう。
このあたりから道は山道へと入っていきます。
あのカエンタケの生えていた
水呑王子あたりの道と同じ
「蘇生の森」と名づけられています。
この道に咲いていたのが、
意外にもこんな花。
リンドウです。
林道にリンドウって、
意外じゃないですかねえ。
でも熊野街道、季節の違いは
あるけどここに来るまで
一回も見かけることのなかった花です。
この辺りには沢山咲いていましたねえ。
道はこの先もシダの咲く
静かな山道を進んでいきますねえ。
この辺の道は昔からの
道なんでしょうと思っていたら、
昔は伏拝から大社にかけては
両側松並木で広く
石畳の道だったそうです。
ところどころに残る石畳が
かろうじてその面影を
とどめて居るそうです。
道の先の方に橋が見えてきました。
写真を撮りましょう。
はあはあ。
タイマー設置後10秒以内に超高速移動です。
そしてここが三軒茶屋跡です。
跡です、といっても
ここで青空市場風に
商売をされている人もいましたねえ。
かつては茶屋が三軒あって
とてもにぎわっていたそうです。
ここの掲示板にはこの先は
大社までトイレがないと
書かれてあったので
慌てて用を済ませます。
そのトイレの方に向かう道が、
高野山に向かう
「小辺路(果無街道)」
の入り口ですね。
ここは昔の大きな交差点に
なっていたそうです。
この道標が昔からのもので、
熊野のほうからくると
「右 こうや十九里半
左きみい寺三十一里半」
と刻まれています。
紀三井寺はそう、
先日訪ねた西国33所の一つですねえ。
距離を見ると、
そうかあ、ここからだと
紀三井寺より高野山のほうが
ずっと近いんですねえ。
熊野に参った帰りには、
ここから山を越えて
高野山に参る人も多かったそうです。
いやあ、昔の人は大変だったようですなあ。
さて、ここから道は広くなっています。
こういう石垣の道を
一人かみしめるように歩くdoiron。
こんな木の根道のような
ところもあります。
きっと昔の人はこの道を歩きながら、
さあいよいよ熊野詣だあ
と心がはずんだでしょうねえ。
72番、73番と
どんどん上っていきますと
そのあたりにこんな看板が立っていました。
「ちょっと寄り道」とかいた看板です。
そう、ここから左のほうに
上がっていきますと
見晴らし台があるそうです。
そこが、この道を歩き続けてきて、
初めて大社のある「大斎原」の
大鳥居が見える場所に
出ていくのです。
えっちらおっちら上がっていきますと、
こんな広場に出てきます。
左の林の向こうには
「熊野川」が流れ、こんな紅葉のある所から
前方に大きな鳥居が見えてきました。
おお~あれが熊野だ。
ここまで多くの山々を眺め、
熊野はまだか、熊野はまだか
といいつつ歩き続けた旅人が、
ここでようやく初めての
熊野の本殿を眺めることになるのです。
長かったなあ。
doironも4年近くかけて
よくここまで来たものです。
どの道も今振り返れば
思い出いっぱいで、
前に大社を見ながら
ここまで歩いてきた自分の姿を
いくつもいくつも振り返ってしまいます。
今からもう10年もすれば
年齢的にもこんなことはできないかもしれません。
よくあの時に頑張って歩いたなあと、
きっといい思い出になるでしょうね。
続く
ふうふうと坂道を上がってきて
ようやく伏拝王子のところに
たどり着いたのですが、
実は前回車に乗せてもらったのは、
そこを通り過ぎてもう少し
発心門側の先のところだったので、
とりあえずは道をつなぐために
そこまで行っておきましょう。
道は高台を通っていますので
景色はなかなかのものです。
この日は天気も良かったので、
右手には果無山脈が見えています。
果無(はてなし)とは面白い名前ですねえ。
行けども行けども
果てしなく山道が続くようで、
北アルプスとかよりも
ずっと奥深い山のような気がします。
和歌山、奈良の県境の山々で、
ブナ林やシャクナゲなどの
高山植物の宝庫らしいです。
ここから見るとちょうど
中央手前にある山が、
この山脈の「地元富士」と呼ばれている
「百前森山」。
見ていなかったんですが、
案内によると連続ドラマ
「ほんまもん」に何度も出てきた
山のようです。
なおも、発心門の方へと
戻るように歩いていくと、
やがてこんな畑のところに
出てきました。
そう、ここが前回あの車に
乗せてくれた男の人が
働いていた場所です。
またいてはったらあの時の
お礼を言おうと思っていたのですが、
残念ながら無人でした。
で、ふと横を見ると、
こんな小さな地蔵さんが
立っています。
いやあ、あのとき暗くなりかけた山道で、
不安におびえるdoironを
あんなに親切に草刈り機の
のこぎりと闘いながらでも
道の駅まで送ってくれた男の人は、
もしかしたらこの地蔵さんだった
のかもしれませんよ。
たぶん、空海や役行者が
地方を錫杖した時には
こんな逸話を残していくに
違いありませんな。
そこでまあまた道がつながりましたので、
道をUターンして
大社方面に向かって
歩き始めましょう。
すると左側に「伏拝王子」へ
と向かう山道がありますので
カキの木を見ながら
入っていきます。
左手に大きな休憩所が見えてきました。
昼も近いので大勢の人が休んでいます。
いやあ、こんなにたくさんの人が
熊野古道にいてるのは初めてです。
おっ、ここでは湯の峰温泉の
温泉水で入れた
「温泉コーヒー」なるものを
売っています。
いやあ、どんな味でしょう。
めちゃ興味がわきましたが、
何となく敬遠してしまいました。
そんな休憩所の右に
「伏拝王子」への登り口がありましたので、
入っていきましょう。
これが王子の石碑。
そしてその横には
和泉式部の供養塔がありました。
あの堺に「和泉式部宮」がありましたねえ。
このとき和泉式部に関連して
こんな話があります。
伏拝王子まで来て
さあいよいよ熊野大社にお参りだ
というときに彼女は生理になったそうです。
そもそも昔はこういう血の絡む
女性は嫌われておりました。
そのため和泉式部は
「はれやらぬ 身の浮雲の たなびきて
月のさわりと なるぞかなしき」
とうたったそうです。
こんな身では熊野に参れぬという嘆きです。
するとその夜式部の夢の中に
熊野権現が表れて
「もろともに 塵にまじわる 神なれば
月のさわりも なにかくるしき」とうたい、
参詣が可能になったということです。
まあ、たぶん熊野比丘尼などの
熊野古道のことを歩いて
知らせまわる人々が
こういう話を織り交ぜて
熊野権現のありがたさを
解いていったんでしょうねえ。
さあ、これであと
大社までに参る王子は、
たった一つ。
「祓所王子」のみとなりました。
そこへ向かっていきましょう。
休憩所のほうへと
降りていきますと、
その道に赤い小さな花が咲いていました。
これはキチジョウソウです。
ちょっと珍しい花ですね。
で、この道ではもう一つ有名な
花が咲きます。
それが「キイジョウロウホトトギス」です。
もう季節的に花は終わっていましたが、
こんな種をつけていました。
続く。
初めて命に係わる病気に出会ってから、
趣味としていたマラソンを
トレーニングとして打ち込むスポーツから
日々のトレーニングのスポーツに変え、
新しい趣味として
歩き回ることをし続けてきた。
きっかけは、
過去の長O君の熊野古道案内で、
実際に自分でやり始めたのが、
病後の2013年3月に
家の近所にあるという
「小栗街道」を歩いた時以来のことになる。
それから、ついつい足を延ばし
各地や山を歩いてきた。
そして歩くことで、
ランニングやバイクで
気が付かなかったことが
たくさんあることに気が付き、
それを学んでいるうちに、
こうしてゆっくりと
世間を見て回ることの楽しさに
はまっていったというのが
本当のところだろう。
ああ~、ここにこういう石があるのは
こういう意味があったんだ。
祠にはこんな思いが込められていたんだ。
あるいはこの施設の陰には
こんなに暑い思いが
込められていたんだ。
自分が生きていた周りには、
こんなことがあり、
こんな景色や言葉が残り、
こんなに人々を支えていたんだ。
そんな思いがどんどん自分の中に
積み重なってゆきました。
そしてそんな歩きの一つ、
熊野古道歩きが今回ついに
一つの結願を迎えるのです。
ずっとつなげば琵琶湖にまで
つながっていく道を歩いてきて、
ついに「熊野大社」へ到着します。
再生信仰が一つの結論を迎えるわけです。
琵琶湖から伏見まで歩いた
炎天下の夏、
淀川を眺めながら歩き続けた淀川完歩、
大阪再発見の小栗街道、
和歌山の人々に触れた紀州路歩き、
そして2回目の病後に
ハラハラ体験した中辺路。
これらが全部つながって
熊野大社参拝となっていくわけですね。
前回は、もう結願かと思っていたのに、
あとわずかのところで時間切れ。
なので今回ようやく目標を
達成するわけです。
それでは大社から二つ目の王子である
「伏拝王子」から最後の歩きを
始めていきましょう。
まずは朝イチに大社近くの
駐車場につきそこからバスに乗って、
奥熊野本宮の道の駅までバスで行きます。
それがここ。
前回は道を聞いた男の人が
バスの時間まで間に合うからと、
軽四の貨物に草刈り機と一緒に
揺られながら送ってくれた道の駅です。
ここから、車に乗ったところまで
この道を上っていきます。
さあもういきなりの急階段を
上っていきますよ。
朝イチに車でやってきて、
バスを降りたらいきなりの
ハードウォークですから、
息が上がります。
あまりハードにやりすぎると、
熊野につく前に浄土についてしまいます。
休憩しつつ登っていきましょう。
こんな急坂や階段を
ゆっくり上っていきます。
あ、最近は田舎にもこういう
太陽光発電が増えましたねえ。
売電しやすくなったからでしょうねえ。
これでもかこれでもかと登っていきますと、
こんなシイタケ栽培畑も横切っていきます。
あ、「星の井戸」というのがあります。
ここは標高250mで
井戸の深さは16m。
この井戸の中に入ると、
散乱光がなく、目の感度も上がるので
昼間でも星が見えるそうです。
いやあまあ、そんなことは試せませんよ。
ポンプもついているしね。
でも昔はそういうこともあったのでしょうねえ。
井戸の底の整理に入って
底から見上げたら、
井戸の出口にシリウスが輝いていたとかね。
あっ、そういえば今夜は
ふたご座流星群の流星が飛ぶ日やね。
後で見てみよう。
そしてミカン畑なんかを通って、
ようやく上の道に出たら
遠くに案内人の大きな声が
聞こえてきました。
この辺りは、熊野古道の山案内人
なんかがたくさんの人々を連れて
古道歩きをしているようですねえ。
ちょっと道を離れた林の中のほうから、
この辺にはあまり会わないような
標準語の案内なんかが聞こえています。
あそこが伏拝王子跡のようですねえ。
続く。
八甲田はやはり青森県民の山ですねえ。
郊外にデデーンとそびえていました。
いつか夏の気候のいい時にでも
行けたらいいなあ。
そしてこの施設の横に
浮かんでいるのが
あの青函連絡船の案内船です。
ではこの施設に次に歩いて
行ってみましょう。
船の名前は「八甲田丸」といいます。
もう船としては就航しておらず、
内部をいろいろ改造して、
当時の船のことを学べる施設になっています。
有料なんですが、
まあせっかくここまできたんですから
入っていきましょう。
まずは入り口で船長さんが
案内してくれます。
帽子が小さくて・・・。
当時船の中には物産展もあって
こんなおばさんが店を出していたそうです。
こ、これは当時この船に
現れた恐怖のオーメンおじさんです。
首、回りすぎやろー。
こ、こんな酔っ払いおじさんも、
なんかどこかで見たような・・。
いろんな当時のものや、
船のグッズがあちこちに展示されています。
案内を読んでみると
いろんな船が走っていたようですねえ。
覚えていると言ったら
「羊蹄丸」かなあ。
それと昭和20年の終戦間際に
アメリカ軍に襲われ、
350人以上の死者を出しています。
まあ、真珠湾でのアメリカ人
3600人の十分の一なんですけどね。
それにしても安倍さんも
ここへ行くのですね。
まあ、違う意味での
「ニイタカヤマノボレ」ですね。
きっといい話で「トラトラトラ」と
帰ってきてほしいですね。
この八甲田丸に社内には、
今も電車が積まれたままです。
いやあ、こんな感じで
電車を運んでいたんですねえ。
ちょっとびっくりしましたね。
それにしても船って大きいんやねえ。
あ、でもどうなんでしょう。
当時、電車で青森についた乗客は、
電車ごとこの船に乗ったのでしょうかねえ。
いやあ、その辺のことは
よくわかりませんでした。
さあ、そうしてこのいろいろと
教えられた船から、
下船するころになって
雨が降り始めました。
まあ、ほとんどの観光が終わった後で
よかったですねえ。
この後は青森空港に向かい、
夜の飛行機で帰阪です。
左右二列のJAL飛行機。
そうそう昔はあまりパイロットの
メッセージなんかも聞けなかったけど
このごろはよくしゃべりますねえ。
折に触れアナウンスが入ってくるので
なんとなく安心感がありますねえ。
あっというまの三日間。
もう親も犬も迎えに行くことはありません。
ご近所留守番を頼んだ
ご近所にお土産を届けて旅は終わりました。
今回の旅では、
東北の様々な鉄道事情を見ました。
地方のJR、頑張っている三陸鉄道、
豪華な北海道新幹線。
そして、宮古や久慈、八戸といった
あまりよることのなさそうな
街の様子も見てきました。
まだ、地域では熱心な
復興作業も行われていましたねえ。
また、青森出身の芸術家たちの
息吹にもゆっくり触れることのできた、
なかなかいい旅だったかな。
みちのく夫婦旅これで終わりです。
棟方志功はこんな作品の作者。
まあ、これは有名ですね。
作品群がいくつか置かれてましたが、
まあこの後行く「棟方志功館」でも
見られるでしょう。
木を彫って作った群が
とても素敵でした。
そうやねえ、雪国の景色の中で
ほのかな明かりを放つ
作品だったように思います。
そしてこれが奈良美智の作品。
う~ん、なんか見たことあるでしょう。
いけずそうな子どもが
描かれてますねえ。
子どものいろんな生活環境を
想像してしまうし、
ああ~自分は自分の子どもを
ちゃんと育ててよかったなあ、
なんて想像もしてしまいますねえ。
画面に潜む見えない世界が、
自分の頭の中に広がっていきます。
いろんな製品がある中で、
この美術館の中で
カメラ撮影可能なのが、この犬です。
奈良さんの作品ですが、
どことなく人間臭さを感じますねえ。
高さが10mくらいある巨大作品です。
ほかにも特別展もやってるようでしたが、
この常設展で十分楽しい美術館でしたね。
そうしてゆっくりと時間を過ごした後は、
またまた巡回バスを待ちます。
おお~来ました。
巡回バスは「ねぶたん号」という
名前だったんですねえ。
これに揺られて、
次に行くのが棟方志功館です。
これは結構長い間乗りましたねえ。
青森市内をグルリンと回って、
いい市内観光ができました。
そして雪の降り積もる
日本庭園のある記念館に到着です。
え~、あまり雪の降ることの
少ない大阪人は、
入り口からこんな遊びをしています。
そうして中へ入っていきますと、
やはりここも撮影はだめですねえ。
残念ながら板画や様々な
彼の作品を紹介することが
できないのが残念です。
様々な記録映画もいろいろあって、
別室でそんな彼の活動を
詳しく見ることができました。
まあ興味のある人はネットなんかでも
多く特集されたりしていますので
参照してみてください。
さあ、この辺で時刻はお昼です。
次の青函連絡船の見学を考えて、
一度青森駅周辺にバスで戻ります。
このとき食べた昼食が、
これも楽しみにしていた
「のっけ丼」
という食事です。
こういう魚屋さんが
いっぱい並ぶ店でご飯と
食券を買います。
そして店を回りつつ、
そのご飯に載せる「具」を
買って載せていきます。
結局1000円で作った
のっけ丼がこれ。
う~ん、海産物も新鮮だし、
いろいろとバリエーションがあって
楽しかったな。
イクラっ子がおいしかったなあ。
尿酸値上がるなあ。
ここで、地元の店のおっちゃんに
ちょこっと取材をしてみましたら、
やっぱりここでも
ご当地丼ということで
結構人気だとのこと。
いやあ、たぶん青森弁で
そういう風に言っておりました。
そこで、もう一つ質問をしてみました。
この辺は歩いていて、
神社仏閣、地蔵さんが少ないね
というと、どうやら
お寺の一杯立つ通りもあって
「寺町」と呼んでいる場所が
あるそうです。
そやねえ、やっぱりこちらでも
葬祭は行われるしね。
でもねえ、地蔵さんは非常に少ないとのこと、
「大阪だったら村のはずれごとに
あったりするんやけど」とかいうと
驚いてはりましたな。
さあ、では昼食も終わったので
観光を続けましょう。
次に歩いて行ったのは「青森県観光物産館」
アスパムという建物です。
高さ76mのピラミッドの断面型の施設です。
いろいろとおみやげ物もあったのですが、
ここは何といっても上部の展望台ですねえ。
有料ですが行ってみましょう。
エレベータを降りると、
展望所が365度広がってます。
え~5度は余分ですが。
遥かなる海のかなたに、
おお~、あれが竜飛岬かあ・・・
て残念ながら見える位置関係ではありません。
展望所からは北海道も
小さく見えていましたよ。
続く