この「色絵 牡丹孔雀文 大皿」は、昨日、骨董市で買ったものです。
表面
表面の中央部分の拡大
中央部分に鳥が描かれていることはわかったのですが、一見したところでは、
何の鳥なのか分かりませんでしたけれども、拡大してみますと、孔雀が2羽描かれているようです。
高台内に「蔵春亭西畝造」の銘があります。
高台内銘の拡大
ところで、上の写真からも分かりますように、この大皿の高台内には「蔵春亭西畝造」という銘が描かれています。
「蔵春亭」銘のものにつきましては、私は既に1点所蔵していて、以前、それは2021年5月15日に紹介しているところです(「色絵 梅樹鳥文 ビールジョッキ」として紹介)。
それで、この大皿を手に入れれば、「蔵春亭」のものは2点所蔵することになるな~と思って買い入れたわけです。
もっとも、「色絵 梅樹鳥文 ビールジョッキ」の銘は「蔵春亭三保造」であり、この大皿の銘は「蔵春亭西畝造」ですから、両者の銘は厳密には異なりますが、いずれも「蔵春亭」銘であることには違いありません。
なお、「蔵春亭」のことにつきましては、「色絵 梅樹鳥文 ビールジョッキ」の紹介のところでも紹介しましたが、「有田町歴史民俗資料館・有田焼参考館 研究紀要第1号(1991)」に詳しく書かれています。
この研究紀要には、知北 万里氏の「蔵春亭ー歴代当主にみえる進取の気風ー」という論文が載せられているんです。
その論文の詳細はここでは省略いたしますが、次に、その内のほんの一部分を紹介したいと思います。
「 蔵春亭の焼き物には「蔵春亭三保造」、「蔵春亭三保製」、「崎陽好三保造」、「日本三保」、「礫山隠士山畝」、「蔵春亭西畝造」など数種類の銘がみられる。昌保(注:3代目蔵春亭。明治11年没)の使用したこれらの銘は製作者を示すサインではなく、トレードマーク(商標)としての意味をもつ。・・・ (P.2~3) 」
「 昌保は山畝と号し、三保助と名乗ったことから「三保」の文字が使用された。一方、与平(注:3代目蔵春亭昌保の末弟で4代目蔵春亭。3代目が亡くなってから後を継いだのではなく、両者は同時期に活躍している。むしろ、4代目は3代目よりも早く亡くなっている。明治4年没)は西畝と号したことから「西畝」の文字が使用された。同時期に活躍した二人であるが、これらの銘からどちらが携わった製品であるかを知ることができる。伝世する「蔵春亭」の製品には、ほとんど「三保」の銘が用いられており「西畝」のものは少ない。これは与平が、蔵春亭の経営のほかにも事業を興していたこと、また長崎支店にいて製造以外の仕事を担当し、直接製造に関わることが少なかったためと考えられる。短命であったことも理由の一つであろう。 (P.3) 」
以上のことから、この大皿は、肥前・有田で幕末~明治初めにかけて作られたものと思われます。
生 産 地 : 肥前・有田
製作年代: 江戸時代末期~明治初め
サ イ ズ : 口径25.4cm 高さ3.7cm 底径15.0cm
有田の伝統を引き継いでいる絵皿ではありますが、同時代の九谷皿と共通の雰囲気も感じますね。
やはり、時代が反映されているのだと思います。錦光山、さらには、陶胎七宝にも通じる感覚です。
蔵春亭西畝造の与平さん、かなりの実業家であったようですが事故のために早世されたとありました。健在ならば明治を代表するような人物だったのかも知れませんね。
でも書かれた寸法を見て 家にある皿鉢を計ったら口径が40㎝でした。
このお皿は華やかで美しいですね。
中央部の孔雀のところが 白い部分が多いせいでしょうか
見た人に印象深く残るような気がします とは素人の感想です。
↓の『色絵 梅樹鳥文ビールジョッキ』これ素敵ですね。
外の柄が透けて見えるほどの薄さで これでビールを飲みたいです。
ところが、一昨日の骨董市では、西畝銘のものが2点も売られていました。同じ骨董市の中でも、それを売っていた業者は異なっていたわけですけれど、多分、それを仕入れてきた先は同じだったのかもしれませんね。
それが、売り出す際には、一人の業者はA円で売り出し、もう一人の業者はA円×2+αで売り出したのですね(^_^)
油断も隙もありませんね(><) たまたま安く買えてよかったです(^-^*)
幕末・明治になりますと、新しい消費者のニーズに応えるため、伝統を引き継ぎながらも、新しい技術の向上にも努めるようになったのですね。
そのような志向は、全国に波及していったのかもしれませんね。
「蔵春亭西畝造の与平さん」は、この「研究紀要」では、事故死ではなく、病死だったようですね。そして、おっしゃるとおり「かなりの実業家であったようです」ね。
その辺のことにつきましては、この「研究紀要」には次のように書かれていました。
「明治4年(1871)に与平は40才で病没するが、後に与平の死を知った大隈重信が「モシ、久富翁死セズ今ニ活動ヲ続ケシナランニハ、恐ラク三菱以上ノ事業ヲナセシナラン」と言ったという逸話が残されている。」
こちらでは、皿鉢料理というものには馴染みがないので分かりませんが、そちらは長崎に近いですから、馴染みがあるのですね。
多分、この皿は、ヨーロッパへの輸出品だったのだろうと思います。その点で、異国情緒あふれる長崎の面影も宿しているのでしょうね(^_^)
『色絵 梅樹鳥文ビールジョッキ』もご覧いただきありがとうございます(^_^)
確かに、これでビールを飲みたくなりますよね(^-^*)
ところが、現実には、ホント、薄作りなんです。薄過ぎて、危なっかしくて、割れるのではないかと心配が先にたち、おちおち飲んでいられないのです(~_~;)
私が貧乏性なために安心して使えないのかもしれませんが、私の感覚からすると、これはビールジョッキではないのかなと思うわけです。
でも、ヨーロッパの貴族にとっては、そんな貧乏性な感覚はないでしょうから、普通に、ビールジョッキとして、普段使いをしていたのかもしれませんね、、。
これ染錦と言うよりは赤絵で、上絵だけの物でしょうか?それであれば染錦よりは1工程少なくなりますが、それにしても大皿~随分と手間がかかったと思います。
ご指摘のとおり、これには染付が使用されていません。上絵だけのものです。染錦よりも一工程少なくなっていますね。
しかし、江戸後期の物とは違い、生地も薄作りで、造形も厳しく、江戸前期の輸出伊万里全盛の頃のような様相を呈しています。
また、赤や青の色絵具や黒の線を描いた色絵具も盛り上がっていたり、全面にビッシリと絵を描いたりと、材料費や手間賃を惜しまずに作っていますね。
ヨーロッパに向けて輸出し、外貨を獲得しようとする意気込みがひしひしと伝わってきますね(^-^*)