Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

染付 木葉陽刻文 変形皿

2021年04月23日 10時47分56秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 木葉陽刻文 変形皿」の紹介です。

 これは、平成6年に(今から27年前に)、東京で買ったものです。

 

表面

 

 

木葉文部分の拡大

表面の文様からは大根のように見える文様は、実は木葉文様なんです。

拡大して見ますと、葉脈が陽刻されていますので、それと分かります。

 

 

裏面

高台内の銘:角福

 

生 産  地: 肥前・有田

製作年代: 江戸時代前期

サ イ ズ : 口径;15.7×14.2cm 底径;9.2×8.0cm

 

 

 なお、この変形皿につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で既に紹介しているところですので、次に、その紹介文を再度掲載し、この変形皿の紹介とさせていただきます。

 

 

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        <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー140 古伊万里様式染付木葉陽刻文変形皿 (平成21年10月1日登載) 

 

    

 一見、大根が描かれているのかなと思われるが、よ~く見ると、大根と思われる部分の内側には木の葉の葉脈が陽刻されており、木の葉が描かれていることが分かる。また、高台も、円形に削り出されたのではなく外形に合わせた形の糸切り細工の付高台にするなど、いろいろと芸が細かく、初期様式を脱却した観がある。

 次に、ちょっと長くなるが、初期様式にふれた記述を引用してみたい。

 

 「ここで、初期伊万里と呼ばれている、伊万里焼初期の染付について述べておきたい。その染付の説明に入る前にお断りしておきたいのは、初期伊万里の時期区分の設定のしかたである。人によっていろいろと解釈はあろうが、筆者は開窯した1620年代から、ヨーロッパ向けの輸出物焼造が本格化する万治2年(1659)までの、およそ40年間の伊万里焼を初期伊万里と呼ぶこととしている。なぜこのように区分するかというと、万治2年をもって、オランダ東インド会社から注文を受けた磁器は、景徳鎮窯の万暦様式を母型とするもので、ここに古染付を出発点においた初期様式とはまったく様式の違う高級な万暦様式(ヨーロッパでは、現在でもキャラックと呼ぶ一群の様式で、古染付よりもさらに古い万暦年間(1573~1619)に景徳鎮が完成した代表的民窯の一様式)が加わったことにより、伊万里焼の主製品は、様式の二重構造をもつこととなり、初期伊万里に代わってこうした輸出物が製品の主役をなすにいたったからにほかならない。その結果、1660年以後、初期伊万里様式は下層の様式となって脇に引き下がることとなった。この境をなす1659年をもって、伊万里焼は盛期を迎え、初期様式を脱皮したと考えている。」
(「世界をときめかした伊万里焼」(矢部良明著 角川書店 平成12年刊)P.30)

 

 以上の記述からすると、この小皿は1660年以後に作られたということになろう。しかし、まだなんとなく初期様式を漂わせるところもあるので、1660年をそれほど離れない時期に作られたのではないかと思っている。

 また、この小皿がどこの窯で焼かれたかであるが、その点については、

 

 「ところで、初期伊万里の陶工たちは、「中国様式で染めあげた日本最初の磁器」という基本方針を守り、多くの窯はおおむね同様の作風のものを焼いていたから、いまとなっては、遺品の一つ一つをとりあげて、その焼造窯を特定することは難しくなってしまった。それでも、例えば山辺田窯のように、その染付山水図大鉢は独特であることから、遺品と焼造窯を結び付けることに、そう躊躇いを感じなくとも済むものもある。しかし中小の作となると、窯の判定は難しい。」
「世界をときめかした伊万里焼」(矢部良明著 角川書店 平成12年刊)P.33)

 

 とあり、初期様式を脱却した直後の状況についても同じようなことが言えるので、この小皿がどこの窯で焼かれたかの判定は難しいと思う。

 なお、この小皿が、どのような陶工によって作られたかであるが、

 

 「山辺田窯ではこの焼きの甘い大皿を作った窯で多数の色絵大皿の素地が一緒に出土した。まさに1644年から50年頃の間に、染付大皿(図17)生産と色絵大皿(図19・20)の製作がこの窯の目玉として異なる陶工によって推進されたに違いない。染付大皿を成形したのは朝鮮系の陶工であり、色絵大皿を作ったのは中国からの最先端技術を身につけた陶工であたと考えられる。有田のこの時期の窯は登り窯という、焼成室が15,6も連なり、全長60メートルを越す大規模な窯であった。共同窯であり、一つの窯元は2,3室の焼成室を所有した。そのため技術的に異なる集団によって作られた異なる製品が同じ登り窯で出土してもまったく不思議ではない。」
「将軍と鍋島・柿右衛門」(大橋康二著 雄山閣 平成19年刊)P.56~57)

 

ということであり、このことは、山辺田窯のみならず、他の窯においても同様であったであろうから、この小皿は、中国からの最先端技術を身につけた陶工集団によって作られたものと思われる。

 もう少し具体的に言うと、

 

 「また『柿右衛門文書』では長崎で中国人からと記されるが、この頃から1650年代頃にかけて、色々な技術が中国的に変わるのである。しかも景徳鎮の技術だけでなく、青磁については明時代最大の青磁窯であった龍泉窯の技術が導入されていること(図23)、製品をみてもわからないような窯詰めの道具までが中国的に変わることから、複数の中国の技術者が有田に来たことが推測できる。1639年以来わが国は鎖国に入っていたから、基本的に外国人の行動は自由ではなかったはずである。有田に中国の陶工が入ったとしても、記録に残せることではなかったに違いない。
 また、この時期に中国人陶工が有田に来たのは中国南部の窯業地帯が内乱に巻き込まれ、疲弊したからと考えられ、もっとも陶工が海外流出しやすいときであったからである。」
(「将軍と鍋島・柿右衛門」(大橋康二著 雄山閣 平成19年刊)P.75~76)

 

とあるように、中国人技術者とその指導の下にあった陶工集団によって作られたということであろう。 

 

 江戸時代前期     長径:15.7cm   高台長径:9.2cm

 

 

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*古伊万里バカ日誌73 古伊万里との対話(葉隠れの小皿) (平成21年9月筆) 

登場人物
  主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
  葉 隠 (古伊万里様式染付木葉陽刻文変形皿)

 

 

・・・・・プロローグ・・・・・

 すっかり秋めいてきて、朝晩は肌寒いほどである。
 主人は、「秋」→「サンマ」→「大根オロシ」と連想し、なんぞ、「大根」でも描いてある古伊万里はないものかとあたりを見渡したところ、書棚の中にそれらしいものを発見し、さっそく対話をはじめた。

 


 

主人: すっかり秋めいてきた。秋といえばサンマだな~。昔は、サンマが獲れ過ぎたようなときは値段が暴落し、安く沢山手に入ったもんだ。そんな時は焼いたサンマに大根オロシをドッサリ盛って食べたもんさ。もっとも三匹も食べるとウンザリしたけどね。最近では、出荷調整なんかをしているせいか、サンマの値段の暴落というようなことはなくなったので、そんなこともなくなったな。
 ところで、「サンマ」といえば「大根オロシ」を連想するので、「大根」を描いてあると思ってお前に出てもらったんだが、よく見ると、「大根」を描いてあるんじゃないんだよね。近くでよ~く見ると、木の葉の葉脈が陽刻されているので「大根」じゃないことがわかるんだよね。外枠の部分だけ染付で描いてあるから、少し離れた所から見ると、丸々と太った「大根」が描かれているように見えるんだよね。丸々と太った「大根」を1本そのまま描いたり、半分だけを描いたというように見えるんだよね。

葉隠: すみません。だますつもりはないんですが・・・・・。

主人: そうそう、お前を見ていて、今、思ったんだが、お前は「擬態」を使ってるんじゃないの?

葉隠: いやいや、そういうつもりもありませんよ。だって、「擬態」を使っても、私には何のメリットもありませんから・・・・・。

主人: まぁ、そう硬いことを言うなって! そんなに厳密な意味で言ってるんじゃないんだから・・・・・。
 例えばだね、お前に松茸料理でも盛ったと考えてみよう。我が家では、現実には、とても松茸料理というような高価なものをお前に盛ることは出来ないんだけれど、話の上では盛ることが出来るからね。話の仮定として、お前に松茸料理を盛ってお客に提供したと考えてみよう。お客は、最初は「大根」が描かれていると思っていたんだが、松茸料理を食べていくに従って、「あれっ! 大根じゃなくて木の葉が描いてあったんだ!」と驚くじゃないの・・・・・。「食欲の秋」が進行するにつれて、「木の葉の舞い散るうら悲しい秋を演出していたんだ」と気付くかもしれないね。なかなか憎い演出をしてるなってね。

葉隠: なるほど。私の身を守るために擬態を使っているんじゃなく、私を使用している人を驚かせるために擬態を使っているということですか。でも、やっぱり、「擬態」ということにはまだしっくりきませんね。

主人: だから、そう硬いことを言うなって言ってるだろう! だいたい、誰も、お前のことをとって食おうなどと思っていないんだから、お前が「擬態」を使う必要などないことはわかっているんだもの・・・・・。
 わかった。まっ、それじゃ、「葉隠れ」ではどうだ。文字どおり、葉ッパが隠れているからな。お前は、さしずめ、銘、「葉隠」というところかな。

葉隠: そうですね。それならわかりますね。「銘」まで付けてくれてありがとうございます。(ニコニコ)

主人: でもね~、「木の葉の舞い散るうら悲しい秋」とか「葉隠」などを連想すると、ちょっと、今は、暗い気持ちになるんだよ。
 というのは、古伊万里関係では有田皿山の代官だった山本神右衛門重澄という人物が有名だけど、その子の山本常朝という人物はその著書(実際は口述書)の「葉隠」で一般的に有名だよね。その「葉隠」の記述の中で、「武士道は死ぬ事のみと見つけたり」という趣旨の一節が特に有名なので、「葉隠」→「死」を連想してしまうんだ。この前の9月8日に可愛いペットのチャチャに旅立たれたばかりなので、今は、暗い気持ちになるんだよ。

葉隠: そうでしたね。ご愁傷さまでした。チャチャ君のことを思い出させてしまってすみません。

主人: だいたいね、「可愛いお前たちには「死」なんか考えられないから、愛玩対象物にはすべて「死」などということはないと錯覚してしまうんだよ。愛玩対象物でも動物には「死」というものがあるよいうことは「頭」ではわかっているんだけどね・・・・・。でもね、時の経過とともに、だんだんと暗い気持ちも晴れていってくれているよ。

葉隠: だんだんと心が晴れてきてくれてよかったです。
 ところで、私達が破損したり盗難にあってなくなってしまったとしましたら、ご主人は、チャチャ君の死の時と同じように悲しんでくれますか?

主人: 同じようには悲しまないね。だって、お前達は、破損しても補修すれば残るし、盗難にあってなくなっても、いずれ再会出来るかもしれないからね。その点、動物は死んでしまうと動かなくなるからね。動物ではなくなるものね。その差がはっきりしているもの。
 話は変わるけれど、私の場合は、人間の・近親者の死の時よりもペットの死の時の方が悲しく感じたのはどうしてだろうね。人間の・近親者の死の時は、いろんな想い、感情が入り混じり、時には計算までが入り込んで複雑な心境になるが、ペットの死の時は、単純に純粋に溺愛の対象を失った悲しみだけを感じるからなのだろうか・・・・・?
 なんか、今日は、連想ゲームみたいになってしまった。また、ちょっと暗い話になってしまった。スマン 


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4 コメント

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Dr.Kさんへ (遅生)
2021-04-23 13:11:14
左端の葉にチョコンと軸がついていますが、あとは大根そのものですね。
塗りつぶした部分との対比が見事です。
中国人技術者の指導で、こんな大胆な絵の皿がつくられたのですね。
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こんにちは (つや姫日記)
2021-04-23 15:34:03
またまた大胆な絵ざらですね。

ちょっと現代的と言いますか
絵手紙の絵を見ているようです。

何故 人はペットの死に際して
多くの人が涙するのでしょうね。
みなさん そうおっしゃいます。
返信する
遅生さんへ (Dr.K)
2021-04-23 16:00:40
大根、そのものに見えますよね。
やはり、本当は大根を描いているのでしょうか、、?
塗るつぶした部分は大根の葉っぱにも見えますしね、、、。

古染付を出発点とした初期様式のものとはちょっと違った雰囲気を感じますね。
そんなところから、中国人技術者の影響が案じられますね。


そうそう、昨日紹介しました「染付 鳥文 アワビ形皿」は、湖東焼のようです。
その根拠につきましては、昨日の記事に追記しました。
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つや姫日記さんへ (Dr.K)
2021-04-23 16:12:30
この皿の文様は、具象なのか抽象なのか分かりませんね。
現代的なのかもしれませんね(^_^;
なるほど、言われてみれば、絵手紙の絵に似ていますね(^-^*)

ペットの死は悲しくなりますね。それに、年をとってきてから亡くなられますと、若い頃よりも更に悲しく感じるようです。
年寄りは、ペットの死なれると、再度その悲しさを味わいたくないので、もうペットは飼わないという方が多いようです。
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