Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

摂関家の中世ー藤原道長から豊臣秀吉までー

2024年07月04日 20時17分09秒 | 読書

 「摂関家の中世ー藤原道長から豊臣秀吉までー」(歴史文化ライブラリー521)(樋口健太郎著 吉川弘文館 2021年(令和3)4月1日第1刷発行)を読みました。

 

 

 

 先日、「極楽 征夷大将軍」(垣根 涼介著 文藝春秋 2023年7月25日第2刷発行)という歴史小説を読んだわけですが、その中で、鎌倉幕府末期の頃は、朝廷が持明院統と大覚寺統の二つの皇統に分かれていたというようなことが書かれていました。

 私は、不勉強で、皇統が分かれていたというようなことを知りませんでしたので、鎌倉時代以前にもそのようなことがあったのかなかったのかを知りたくなりました。

 それで、今回は、歴史小説ではなく、歴史書を読んで、その辺を勉強してみようと思ったものですから、この本を借りてきて読んだわけです。

 そうしましたら、室町幕府発足以前にも、何回か、皇統が分かれていた時期はあったのですね。でも、そのような時期には争いが起こりますが、紛争が解消され、結局は統一されてきたようですね。

 ただ、皇統が分かれていたといっても、皇位は交互に継がれていたようですね。南北朝時代のように、二つの皇統が迭立し、それぞれに天皇がいたわけではなかったようですね。そういう意味では、南北朝時代は特異な存在だったわけですね。

 また、南北朝時代は何時まで続いたのかについても、先日読んだ「極楽 征夷大将軍」(垣根 涼介著 文藝春秋 2023年7月25日第2刷発行)という歴史小説では、「・・・三代目将軍の義満により南朝も消滅し、・・・」(P.549)と、簡単に書かれているのみでしたので、その辺も、もう少し詳しく知りたいな~とも思いましたので、この本を借りてきて読んだわけです。

 ということで、今回は、少々、歴史の勉強のために読んだものでした。


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8 コメント

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Dr.Kさんへ (遅生)
2024-07-05 08:37:54
今回は歴史書なのですね。
しかも、興味深い摂関家。
小説とはまた違った面白さがあると思います。
まったく初歩的な質問です。
皇統が二つになった場合、摂関も二系統になったのでしょうか。それとも、一摂関が二皇統に仕えたのでしょうか。
もう一つの疑問です。秀吉、秀次は関白になって、それまで公家がやっていた仕事を彼らはこなしたのでしょうか、それとも名前だけもらって箔をつけたにすぎなかったのでしょうか。
この本ではどう書いてあったのでしょう。
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Unknown (ぽぽ)
2024-07-05 12:39:02
Kさんへ
Kさんは日本史好きなんですね!(^^)
私も学生時代は日本史を選びましたが、
もはやほぼ覚えておりません笑
それでも横文字よりは断然頭に入ってきます。
私は皇統が分裂するとかは何となく聞いたかなと思う程度です。
でもこういった制度ってそりゃ揉めるよなって思います(^^)
世界的にも多そうですよね。
でもそれを再び戻してきっちり今日まで繋げているのが、いかにも日本人らしく誇らしいことなのではと思います(^^)
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遅生さんへ (Dr.K)
2024-07-05 15:14:37
この本では、「平安時代初期の皇位継承は、皇位継承資格をもつ皇子を一人に絞らず、皇位は兄弟間で継承されることが多かった」と書かれていました。「この結果として、この時期には皇位継承資格をもつ者が拡大し」、「皇位継承をめぐる政変が続発し、政権は不安定化した」とのことでした。
ただ、「古代の天皇は、きわめて大きな権限をもち、政治的判断を要求されたので、それまでの天皇は成人になってから皇位を継承するのが通例であった」ため、天皇の職務を代行する摂政という地位の存在は普通は必要がなかったので、その頃はまだ摂関家という存在はなかったと書かれていました。

皇統については、「仁明天皇以降、皇位継承は直系継承が基本とされていたのだが、10世紀後半、冷泉天皇は病弱で、弟の円融天皇に譲位したため、この後皇統が冷泉皇統と円融皇統の二つに分立し、天皇は 両統から交互に即位するようになった」ということですが、この時点でも、まだ、摂関職の父子承継が行われる摂関家という存在はなかったように書かれていました。

従いまして、この本で取り上げられた皇統が二つに分かれた場合の例では、まだ摂関家が存在していませんでしたので、二つの皇統と摂関家との関係には触れられていませんでした。

次に、豊臣秀吉は、「従来の藤原摂関家とは異なる豊臣摂関家を創出し」「それを秀次に譲った」わけですが、これにつきましては、この本には次のように書かれていました。

「こうした秀吉の関白就任は一見突飛に見えるが、本書では、平安末期以来、摂関家が武家と一体化していったこと、南北朝期以降は、摂関家の存在意義が模索され、将軍家の公事師範として将軍家に接近したこと、そして戦国期以降は天皇との関係を希薄化させた摂関家がしだいに武家化し、将軍家との関係をさらに強めて一体的な存在になったことを見てきた。こうした流れから見れば、摂関家は中世を通して武家との一体化、あるいは武家化を進行させてきたのであり、逆に武家が関白になるのも自然な流れであったといえるだろう。戦国時代には、関白は朝廷の政務・儀礼にも関与しなくなっており、近衛龍山(前久)がいうように、もはや五摂家より、天下人である秀吉にこそふさわしい地位になっていた。つまり秀吉の関白就任とは、中世摂関家の一つの終着点だったのである。(P.239~240) 」
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ぽぽさんへ (Dr.K)
2024-07-05 15:41:03
私は特に日本史が好きだったわけではないんです。
古伊万里のコレクションをするようになって、「古伊万里は、豊臣秀吉の朝鮮出兵のおり、朝鮮半島から連れてこられた李三平が、、、」というくだりがよく登場しますので、その辺のことを勉強するうちに戦国時代のものを読むようになったわけです。
そして、その延長でいろいろと歴史物を読むようになったわけです。
そのようなわけなものですから、私の場合は、骨董の分野と同じく、極めて気紛れで、分野も狭く、バラバラで、まとまりません(~_~;)

皇位継承とか王位継承という問題は、世界的に発生しますよね。離合集散はつきものですよね。
その点、日本の場合は、それをなんとかまとめ、何千年も継承させているのですからたいしたものですよね。
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Dr.Kさんへ(弐) (遅生)
2024-07-05 17:12:54
>平安末期以来、摂関家が武家と一体化していったこと、南北朝期以降は、摂関家の存在意義が模索され、将軍家の公事師範として将軍家に接近したこと、そして戦国期以降は天皇との関係を希薄化させた摂関家がしだいに武家化し、将軍家との関係をさらに強めて一体的な存在になったことを見てきた。

なるほど、摂関家は生き残るために武家の方へ接近していったのですね。武家の側でも、摂関家を利用して箔をつけたのでしょう。
細川幽斎が、武士でありながら公家文化の最高峰、古今伝授の大役を担ったのは、公家と武士との文化的交流があったからなのですね。、関ケ原合戦で籠城した時、その超教養が幽斎自身を救うことになったのはとても興味深いことだと思います。
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遅生さんへ(その2) (Dr.K)
2024-07-05 20:58:56
そのようですね。「摂関家は生き残るために武家の方へ接近していった」ようですね。なかなか、世の中の泳ぎが上手だったのですね(^-^*)

遅生さんは、博学ですよね(^_^)
「細川幽斎が、武士でありながら公家文化の最高峰、古今伝授の大役を担った」とか「関ケ原合戦で籠城した時、その超教養が幽斎自身を救うことになった」ということは知りませんでした。
今度、細川幽斎に関する本を見つけたら、読んでみようと思います(^-^*) 
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Unknown (pada)
2024-07-06 16:18:18
南北朝時代は苦手な分野ですが、要は天皇が二人いたと言う事なんですね。ただどちらかが滅び~一方だけが残ったのではなく、結果的には統合されたと言う事で、この話し合いは、中々有意義な事だと思います。中国の場合の北宋南宋は北宋が滅んで、その分家が南宋を立てたと言う事でありますので一寸同じように思ってましたが大違いです。歴史はややこしいです。
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padaさんへ (Dr.K)
2024-07-06 20:07:29
南北朝時代は複雑で解りずらいですよね。
理解するのも面倒なので、これまで避けて通っていました(笑)。
今回、気が変わって調べる気になりました(~_~;)

南北朝時代になってから、途中、一旦、形式的に北朝が消滅して、南朝方が京に入ったり、また追い出されたり、再度入京したりと、何度か入京を繰り返していましたが、その間も、ずっと講和の話し合いが持たれていたのですね。
結局は南朝側が皇位を譲ることになって一本化されたのですね。
まっ、皇統が分かれ、それぞれに天皇が同時に存在したわけですね。
これまでですと、皇統が分かれると、争いごとが起こり、その結果、一本化されることが多かったわけですが、南北朝時代の場合は、その間、同時に二人の天皇が存在してしまったわけですけれども、話し合いで平和裏に一本化されたわけですね。
もとはと言えば、同一王朝内での出来事ですよね。
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