Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

染付 牡丹文 小壺

2021年12月12日 17時30分29秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 牡丹文 小壺」の紹介です。

 もっとも、この「染付 牡丹文 小壺」につきましては、以前、令和2年(2020)6月10日にも、やはり「染付 牡丹文 小壺」として既に紹介し、多くの方からコメントもいただいたところです。そして、「これは茶入れではない。単なる小壺である」とか、「いや茶入れである」とかのコメントが寄せられ、おおいに盛り上がったところです(^_^)

 そんな経過もありますので、わざわざ再度取り上げる必要もないのですが、ただ、今回、再度紹介しようと思いましたのは、前回の令和2年(2020)6月10日の紹介の際は、「この小壺は『茶入れ』として作られたのかもしれない」として紹介したのですが、その後、内側を良く洗ってみましたら、内側にかなりの墨の汚れがあることが分かりましたので、この小壺の前所有者は、「筆立て用」とか「筆洗い用」の文房具として使用していたことが分かりましたことから、小壺の内面の写真を追加して再度紹介しようと思ったからです。

 前回の紹介とほとんど同じになってしまいますが、ご容赦ください(^_^;

 

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 これは、平成31年の3月に、骨董市で買ったものです。

 見た瞬間、「小さいのに、なかなか丁寧な作りだな~。茶入として作られたのかな~」と思い、即、購入したものです。

 

大きな牡丹の花の面

(大きな牡丹の花は2輪描かれています。これは、その内の1輪です)

 

 

小さな牡丹の花の面

(小さな牡丹の花は2輪描かれています。これは、その内の1輪です)

 

 

底面

 

 

 ところが、随分と汚れていましたので、家に帰ってから水洗いしましたところ、口縁に疵(ニュー)が出現しました(><)

 

 

 疵の部分を拡大しますと、次のようになっています。ニューの1本は肩口近くにまで達しています(><)

 ちょっとガッカリはしましたが、私は、「茶入」として実用に供するわけではなく、鑑賞するだけですから、これくらいの疵は、「小壺」として見ている分には支障がないかなと思っています。 

 

 

 ところで、その後、内側を良く洗ってみましたら、下の画像にありますように、内側にかなりの墨の汚れがあることが分かりました。また、この汚れは、かなりよく洗っても落ちないようです。

 この小壺の前所有者は、この小壺を、「筆立て用」とか「筆洗い用」の文房具として使用していたことが分かりましたので、再度紹介することにしたものです。

 

小壺の内面

 

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代中期 

(前回の紹介の際は、当初、江戸中期としましたが、寄せられたコメントに接し、江戸後期に変更したところです。ここで、再度江戸中期に変更いたします。節操がなく申し訳ありません(~_~;) )

サ イ ズ : 口径;2.2cm 胴径;5.4cm 高台径;2.7cm 高さ;5.4cm


色絵 角徳利

2021年12月11日 14時15分14秒 | 古伊万里

 今回は、「色絵 角徳利」の紹介です。

 これは、これまでのコレクションの中での一番のお気に入りです(^_^)

 私の好みが分かるかもしれません(^-^*)

 なお、この「色絵 角徳利」につきましては、既に、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で紹介しているところです。

 つきましては、その際の紹介文を、次に、再度掲載することをもちまして、この「色絵 角徳利」の紹介とさせていただきます。

 

 

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         <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー247  伊万里色絵角徳利               (平成30年12月1日登載)

 

 華やかである。艶やかである。

 花見の時にでも使われたのであろうか。晴れの席にでも使われたのであろうか。

 容量としては、口いっぱいにまでいれると、約1リットル(約5.5合)入る。少し少な目にして5合入れとして使ったのであろう。

 残念ながら、窯疵まで含めると、満身創痍という状態ではあるが、よくぞ残ってくれたと感謝している。

 

 

松竹梅文の面
注口の口縁の約三分の一ほどが欠けていたが、自分で補修した。
注口の下辺の角部分に本焼の際に出来たと思われる大きなソゲが見られるが、
その部分を厚く緑釉で塗り、覆い隠している。

 

 

松竹梅文の面の左面

 

 

松竹梅文の面から見た上面

 

 

山水文の面(松竹梅文の面の反対面)
右端の真ん中、下端の真ん中辺りに窯疵のニューがあるが、そのニュー部分
に緑釉を厚く塗ってそれを覆い隠している。

 

 

山水文の面の左面
右上隅にソゲ
があるようで、その部分を厚く緑釉で塗り、ソゲと思われる部分
を覆い隠している。

 

 

山水文の面から見た上面
把手の左側の下部のキノコの先端に2mmほどの欠けがあったが、その部分は自分で
補修した。

 

 

底面
底面のニューは、漂白剤で綺麗にするまでは気付かなかったものである。
真ん中には、本焼の際に若干ニューが生じてしまったようで、それを緑釉で覆い隠したようであるが、
その後、ニューはだんだんと広がってしまったようである。
左上方にもニューが生じている。

 

生産地: 肥前・有田

製作年代: 江戸時代前期~中期

サイズ: 把手ともの高さ;16.5cm

           角部分の大きさ

      縦14.2cm 横(上)12.0cm×(下)11.7cm 奥行(上)8.7cm×(下)7.7cm 

      底径11.7cm×7.7cm

 

 


 

追 記(H30.12.3)

 この記事をアップして直ぐ、酒田の人さんが、ご自身で所蔵している、栗田美術館作成の豪華図録・「伊万里」(定価80.000円也)から、この色絵角徳利の類品が載っているかどうかを探してくれました(^-^;
 その結果は、その豪華図録にはこの色絵角徳利の類品は載っていなかったということでした。
 しかし、この色絵角徳利の把手と良く似た把手を持つ「伊万里染付山水図角瓶」が載っていることを教えてくれました。
 多分、私は、以前、その「伊万里染付山水図角瓶」の把手を見ていて、その印象が強かったので、栗田美術館にも、この色絵角徳利の類品があったものと錯覚したのだろうと思います(-_-;)
 ちなみに、その「伊万里染付山水図角瓶」は、先日、栗田美術館を訪れた際に見てきています。 

 なお、この豪華図録・「伊万里」に載っている「伊万里染付山水図角瓶」の解説では、「把手」は「摘み」としてあり、その「摘み」は、「松の摘み」となっています。
 私は、これを、「古木にキノコが生えた状態」と思い込んでいましたが、「老松に松葉」が正解と考えます。
 従いまして、この色絵角徳利の把手(摘み)につきましても、形としては「老松に松葉」としてご覧いただければ幸いです。

 

 

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*古伊万里随想48  色絵角徳利             (平成30年12月1日登載) (平成30年11月筆)     

 

松竹梅文の面 山水文の面
 

 先月(平成30年10月)のこと、私がいつも行っている古美術品交換会に古伊万里色絵角徳利が登場した。

 なかなかの名品である。「確か、栗田美術館に類品があったな~!」との思いが頭をよぎる。

 しかし、注口の口縁の約三分の一ほどに欠けがあり、汚れも酷く、底部など特に酷く、漂白剤に漬けても綺麗な姿を現すかどうかも分からない状態である。
 そんな状態の物であるし、最近では古伊万里も安くなってしまっているので、それほど高額にならないで落札されるであろうと高を括ってセリに臨む。
 セリに臨んだ皆も思いは同じだったようで、それほど高い値段でもないところで私が付けた値段が最高値となった。「やれやれなんとか手に入るか」と安心した。

 ところが、売主が、「そんな安い値段では売れない!」と主張。
 売主も、その角徳利の良さを十分に承知していたわけである。

 私としてはガッカリである。やっと手に入ると思ったのに・・・・・。
 しかし、このような物は滅多に出て来ないものであり、ここで逃したら、もう永久に手に入らないだろうと思うと、なんとしても手に入れたいとの思いが強くなるばかりである。

 そこで、私は、食い下がりに出る。売主に、「あといくら出せばよいのか」と。
 しかし、私の買いたい値段と売主の売りたい値段とには開きがありすぎ、話はまとまらない。

 そうこしているうちに、古美術品交換会の会長が、「それでは、売主の売りたい値段と買主の買いたい値段の中間をとって〇万円で決着させてはどうか」と提案。
 双方、それでよしとなり、やっと私が入手できることとなった(^-^;

 喜び勇んで帰宅し、さっそく、バケツに水を張り、その中に角徳利を沈め、漂白剤を入れ、漂白作業にとりかかる。

 2~3日経ってバケツの中から取り出すと、だいぶ綺麗になっていた(^-^;
 でも、良いことばかりではなかったのである(><)

 欠けは、注口の口縁部分だけばかりかと思っていたが、把手部分の「キノコ」の先端に2mmほどの欠けもあったことが分かったのである。
 また、何個所かの本焼の際に生じた窯疵が、厚い緑釉で覆い隠されていることもわかった。しかし、本焼きで生じた窯疵を色絵の緑釉等を厚く塗ってその疵を上手に覆い隠すことは、古伊万里ではよくやられていることなので、これは、疵ではなく窯疵に属するから問題ではない。むしろ、この角徳利が本物の古伊万里であることの証明にもなろう。
 更には、汚れが酷かった時には気付かなかったが、底部にニューが出現した。しかし、この程度のニューは、私にとっては許容範囲内である。

 疵等の全容が分かったので、今度は、注口の口縁部分の欠けと把手の「キノコ」部分の小さな欠けの補修作業にとりかかることに・・・・・。

 私も、昔は、よく欠けた部分の補修をしていたが、最近では、欠けのある古伊万里を買ってきていないので(無疵の物のみを買ってきているわけではなく、欠けのある物も買ってはきているが、既に補修済みの物を買ってきているからである)、補修作業は久しぶりである。

 先ずは「下地」作りからスタートする。私の場合は、昔は、「下地」作りに白セメントを使って行っていた。だが、これだと、硬化するまでに時間がかかるし、せっかく出来上がったかな~と思っても、接着力が弱いので、剥げ落ちる場合があるという欠点がある。

 これについては、最近、ブログ「野良仕事・ガラクタ・骨董・マニアの独り言」の管理人のpadaさんが、パテを使用していることを知ったので、私もそれを使って「下地」を作ってみようと思いたち、さっそくホームセンターに・・・・・。しかし、店内を捜しても、具体的にはどんな物なのか良く分からない(><)

 それで、いったん家に戻り、padaさんにメールをし、教えてもらってから再度来店することに。
 幸い、padaさんは、ご丁寧にも写真まで添えて教えてくれたので、再度ホームセンターに赴き、目的のパテを手に入れることが出来た。

 初めてのパテ使用による「下地」作りだったが、上手にはできなかったけれども、なんとか、出来上がった。

 その後、十分に硬化したところで水彩絵の具で色を塗り、ちょっと見には疵が分からない程の状態とした。最初にしては、まぁまぁの出来であろう(^^;

 補修が終ると、今度は、この角徳利の類品が展示してある栗田美術館に行き、その類品と対面したくなる。

 そこで、今月(平成30年11月)の中旬のこと、お天気の良い日を見計らい、早く類品と対面したく、また、栗田美術館に行くのは久しぶりなので、いそいそと、ルンルン気分で向かう。

 ところが、栗田美術館の駐車場に到着し、以前とは何か状況が違っていることに気付く。

 広い駐車場には車が少なく、ガラ空き状態なのである。土曜日なのに・・・・・。
 昔、故栗田館長さんがご存命の頃は、土曜日ともなれば、かなりの数の観光バスも訪れ、相当数の車が駐車していたものである。
 また、駐車場脇にある大きな「世界陶磁館」という名前の二階建ての建物の一階部分は土産売り場になっていて、そこには、常時、多くの人が訪れていたものであるが、その「世界陶磁館」という建物は閉鎖されていて閑散としている。
 それに、館の敷地内に入れば、入ってすぐ右側にある大きな売店も開店休業状態で、ほんの一部のスペースのみで細々と営業を続けているにすぎない。
 食事をとったり休憩したりすることが出来た、古民家を移築して作った「栗田山荘」も閉鎖中であり、「無名陶工祈念聖堂」(ここにも展示スペースがあった)も閉鎖中である。
 大きな展示スペースを持つ「陶磁会館」という二階建ての建物に至っては、二階部分が或る団体のイベント用に貸し出されていて、その二階部分には古伊万里が展示されていないのは勿論であるが、入室さえ出来ない状態になっていた。

 ということで、総体として、入館者は少なく、閑散とした状態であり、以前と比べて、展示スペースが減少していて、展示品数も少なくなっていることに気付いたのである。

 結局は、お目当ての角徳利の類品とは対面することもなく終わってしまった。

 この角徳利の類品が栗田美術館に存在していたと思ったのは私の記憶違いなのだろうか・・・・・。もともと、この角徳利の類品は栗田美術館には所蔵されていなかったのであろうか・・・・・。
 或いは、展示スペースが減少したため、この角徳利の類品は、現時点では収蔵庫にでも収納されていて、見ることが出来なかったのだろうか・・・・・。故栗田館長さんは、所蔵品は全て展示するという方針だったので、それは考えられないことだけれども・・・・・。

 わざわざ栗田美術館まで出向いたわけであったが、結局は、この角徳利の類品と対面出来なかったことに加え、栗田美術館がすっかり勢いをなくしてしまっていることを知り、落胆し、暗澹たる気持ちで家路についた。

 

 


 

追 記(H30.12.3)

 この記事をアップして直ぐ、酒田の人さんが、ご自身で所蔵している、栗田美術館作成の豪華図録・「伊万里」(定価80.000円也)から、この色絵角徳利の類品が載っているかどうかを探してくれました(^-^;
 その結果は、その豪華図録にはこの色絵角徳利の類品は載っていなかったということでした。
 しかし、この色絵角徳利の把手と良く似た把手を持つ「伊万里染付山水図角瓶」が載っていることを教えてくれました。
 多分、私は、以前、その「伊万里染付山水図角瓶」の把手を見ていて、その印象が強かったので、栗田美術館にも、この色絵角徳利の類品があったものと錯覚したのだろうと思います(-_-;) 
 ちなみに、この「伊万里染付山水図角瓶」は、先日、栗田美術館を訪れた際に見てきています。

 なお、この豪華図録・「伊万里」に載っている「伊万里染付山水図角瓶」の解説では、「把手」は「摘み」としてあり、その「摘み」は、「松の摘み」となっています。
 私は、これを、「古木にキノコが生えた状態」と思い込んでいましたが、「老松に松葉」が正解と考えます。
 従いまして、この色絵角徳利の把手(摘み)につきましても、形としては「老松に松葉」としてご覧いただければ幸いです。

 

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色絵 花鳥文 ミルクポット

2021年12月10日 19時15分41秒 | 古伊万里

 今回は、「色絵 花鳥文 ミルクポット」の紹介です。

 これは、幕末から明治にかけて輸出されたものだろうと思っています。

 普通、このミルクポットの他にティーポット、シュガーポット、カップ&ソーサーを加えたセットものとして輸出されていたものと思われます。このミルクポットはそのセットものからの離れものだろうと思います。

 セットものの紹介でしたら資料的にも価値があり、紹介する意義もありますけれど、ミルクポットのみではチョットという感じではありますが、「伊万里ではこんな物も作っていました」という意味で紹介することにしました(^_^;

 

 

正面(仮定)

 

 

正面から右に約90度回転させた面

 

 

正面から左に約90度回転させた面

 

 

正面の裏側面

 

 

上からみた面

 

 

底面

 

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代末期~明治時代

サ イ ズ : 高さ;10.5cm


銹釉染付 窓抜鷺文 大皿

2021年12月09日 13時05分13秒 | 古伊万里

 今回は、「銹釉染付 窓抜鷺文 大皿」の紹介です。

 なお、この「銹釉染付 窓抜鷺文 大皿」につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で既に紹介しているところです。

 しかし、この大皿につきましては、その後、「どうも、これは、偽物を掴ませられたのではないだろうか。騙されたな。恥ずかしいな」との思いが強くなり、「恥を晒すことになるから、これは、もう、二度と紹介しないことにしよう」と思っていたところです。

 ところが、先日、故玩館館主の遅生さんとのブログでのやりとりの中でこの大皿のことが話題となり、遅生さんから是非紹介してほしいという要望が出され、了解してしまったところです。

 そんな経緯から、次に、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で紹介しましたこの「銹釉染付 窓抜鷺文 大皿」につきましての紹介文を再度掲載し、この大皿についての紹介とさせてはいただきますが、この大皿は、いわゆる「贋物」であることをご了知いただきたく存じます。

 

 

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         <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー225  伊万里銹釉染付窓抜鷺文大皿      (平成29年2月1日登載)                      

 

表面

 

 

裏面

 

 

側面

 

 

「図鑑 伊万里のすべて」(光芸出版 昭和50年5月20日初版第1刷発行」)
の著者野村泰三氏鑑定の箱書

 

 

 この大皿には、「図鑑 伊万里のすべて」(光芸出版 昭和50年5月20日初版第1刷発行」)の著者野村泰三氏鑑定の箱書が付いている。
 この箱書が本物かどうかは知らないが、参考にはなる。

 この箱書に依ると、この大皿は「吸坂焼」となっている。
 「吸坂焼」については諸説があり、加賀藩第二代藩主前田利常が瀬戸その他から陶工を招き、吸坂村(現加賀市吸坂町)において茶器類を焼かせたのが始まりであるという説があった。
 そして、その廃窯年代にも諸説があり、元禄初年の古九谷の廃絶以前あるいは同時に絶えたという説があった。

 この箱書も、そうした説を根拠にしたようで、生産地を「吸坂」とし、製作年代を「貞享~元禄」としている。

 以前は、この手の物は、「吸坂焼」とか「古九谷吸坂手」と言われていたものである。

 ところが、その後、この手の物の陶片が有田の古窯跡から出土することから、伊万里に移籍されるようになった。

 それで、今では、この手の物は伊万里銹釉に分類されるようになり、また、製作年代も「貞享~元禄」よりも古く位置付けられるようになっった。
 この大皿の造形をみても、1/3高台に近く、初期伊万里に近い作りであることが分かる。 

 

江戸時代前期    口径:28.9cm  高さ:6.1cm  高台径:10.8cm 

 

 

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追 記 (H31.2.1)

 この記事をアップした後、この大皿は、現代作の物に特殊な塗料のようなものを塗って古色を出し、古い本物のように工作したのではないかという思いが強くなってきました。
 ここに、その旨を追記したいと思います。

 

 

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*古伊万里バカ日誌153  古伊万里との対話(吸坂手の大皿)(平成29年2月1日登載)(平成29年1月筆)

登場人物
  主 人 (田舎の平凡なご隠居さん)
  吸 坂 (伊万里銹釉染付窓抜鷺文大皿)

 

・・・・・プロローグ・・・・・

 主人は、前回同様、まだ買ってきたばかりで押入れにも入れずに身近に置いてある大皿と対話を始めた。

  


 

主人: これまでは、原則として、我が家にやってきた順番に登場してもらって対話をしてきたんだが、今回も、特別に、我が家にやってきたばかりのお前と対話をすることにした。

吸坂: どうして、諸先輩を飛び越して登場させるんですか?

主人: 先月登場させた柿右衛門人形(:このブログでは、昨日登場させた「色絵 男子立像」)も我が家にやってきたばかりで登場させたわけだが、柿右衛門人形もお前も、入手の際及び入手してから後の経緯について、ちょっと劇的な出来事があったので、その興奮が冷めないうちに、生々しいうちに対話をしておこうと思ったからだよ。

吸坂: まずは、入手に際しては、どんな劇的な出来事があったんですか。

主人: うん。まっ。劇的と言っちゃ大袈裟だが、私にとってはちょっとした出来事ではあったね。
 お前のことは、或る古美術品交換会(以下「交換会」という。)で買ったんだ。先月登場させた(:このブログでは、昨日登場させた)柿右衛門人形を買ったのも、この交換会だったので、続いての掘り出しを狙って、柳の下の二匹目のどじょうを狙って、当日は意気込んで向かって行った。武者ぶるいをしながら向かって行った(笑)。
 当日の競りも終わりの頃になって、案の定というか遂にというか、お前が盆の上に載せられて回ってきた。その交換会では、事前に、競りにかける物を木製の四角い浅いトレイ(それを「盆」と称している)に載せて回覧させるんだ。
 皆さん、お前に注目したね。「おっ! いい物だ」ってね。しかも、お前には、「野村泰三」氏鑑定の箱書まで付いていたからね。

 

表面

 

 

裏面

 

 

側面

 

 

「野村泰三」氏鑑定の箱書

 

 

吸坂: 「野村泰三」氏とは何者ですか?

主人: 一般的には知られていないが、古伊万里の世界では有名な方なんだよ。「図鑑 伊万里のすべて」(光芸出版 昭和50年5月20日初版第1刷発行」)という本を出しているんだ。

 

 

 私も、この本を買ってきて随分と勉強したもんだよ。私の持っている本は、「昭和55年10月20日初版第四刷」というものだから、私が実際にこの本で勉強したのは、それ以降ということになるね。

吸坂: そんな有名な方の箱書まで付いていたのでは、皆さん、「物」も本物と信じるんでしょうね。

主人: いや、いや、そんな箱書を信じるのは初心者であって、この交換会に来ているようなベテランは信じないね。むしろ、そんな箱なんかないほうがいいと思っている人が多いよ。

吸坂: どうしてですか?

主人: まず第一に、野村泰三氏が鑑定を誤ったということが考えられるからね。第二には、全くの別人が野村泰三氏の名前を使って箱書をしたということが考えられるだろう。第三には、箱書は野村泰三氏の正しい箱書かもしれないが、中身の大皿は偽物にすり替えられているということが考えられるからだ。
 そんなことで、ベテランは、箱書などは信用せず、「物」そのもので判断するわけだ。まっ、参考にはするがね。

吸坂: わかりました。

主人: それで、いよいよお前が競られることになった。私も、私の手の届くものであるのなら是非手に入れたいと思い、気構えた。気合十分でね。
 幸い、発句(競りのスタートの値段)が安かったので、「これなら私の手に届きそうだ!」と思い、真っ先に槍を入れた。しかし、皆さんも狙っていたようで、次々と槍が入り、激しい競りとなってきた。
 しかし、その動きも、一定の額に達したとたん、ピタリと止まってしまった。その時の相場に達したというのだろうか・・・・・。そこで、すかさず私がそれに上積みした槍を入れ、私の落札と決まった。
 そんなことで、目出度く私が競り落としたわけで、周りの方達からも、「良い物を買いましたね」、「今日一番の買い物でしたね」等と称賛され、鼻高々となり、有頂天となった。天国にでも昇った気持ちだった(^-^;
 ところが、喜びもそこまでだった(><)  喜び勇んで家に帰り、お前を雑巾でゴシゴシ擦って(こすって)いたら愕然としたね(><)  天国から地獄へ突き落される思いだった(><)
 私は、古伊万里を買ってくると、まず水洗いをし、メラミンスポンジで洗ったり、ちょっと汚れの酷い所は、強くしぼった雑巾でゴシゴシ擦ってその汚れを落としたりしているんだ。そして、もっと汚れの酷い物は漂白剤に漬けることにしているんだ。
 何時ものように、まず水洗いをし、メラミンスポンジを使って更に汚れを落とし、高台付近の汚れがちょっと酷いので、その辺を強くしぼった雑巾でゴシゴシ擦っていたら、ナント、雑巾に赤茶色い色が付着してきたんだ(><)  色落ちするんだよ(><)  本焼きした釉薬の銹釉が布で擦った程度で色落ちすることはあり得ないじゃないの(><)  私は、「やられた!! 偽物を掴まされた!!」と思い、それまでの喜びも何処へやら、地獄へ突き落された気分になった(><)
 で、お前のことにはもうかかわらないことにしよう、永久にお蔵入りにしてしまおうと思ったんだが、ちょっぴり未練もあったので、その辺の事情をブログに書いたら、二人の方から次のようなコメントが寄せられた。嬉しかったね(^-^;

 

Aさんからのコメント
 本物の場合でも、更に良くみせようとして細工を施す場合があります。
 唐津焼に漆を載せ、より古く見せている物に出会ったことがあります。化けの皮を剥い だら、より良いものが出現しました。
Bさんからのコメント
 磁器の場合は、古色を付けたところで価値が増すわけでもありませんのに、ベテランの業者さんほど、靴墨なんかで高台あたりに色付けしたがるようですね。なんとも悪しき風習といいましょうか・・・・・。
 今回もそのようなケースではないでしょうか? 単純に「よく汚れている」ということも考えられますね。

 

 これらのありがたいコメントに接し、私は、お前を単純に偽物と決め付け、お蔵入りさせることを思い留まった。私は、これまでに、本物をより良くするための細工が加えられたというケースに遭遇したことがなかったからだ。
 ただ、お前の場合も、より良くするために細工が加えられているのかもしれないが、どんな細工が加えられているのか、その細工の方法が解明されなければ偽物ということにせざるをえまい。それで、とにかく化けの皮を剥ぐ必要があると考え、さっそくその作業にとりかかった。
 まずは、いつも行っている漂白剤漬けだ。しかし、二日間ほど漬けておいたが、ほとんど影響がない。やむなく、また、雑巾擦りに切り替え、ゴシゴシ作業を継続した。ところが、この作業はなかなか終らない。色落ちは高台付近だけではなく、裏面全体はおろか表面全体にも及んでいたからだ。
 3~4時間擦っていて、だいぶ色落ちもしなくなったが、疲れてきてしまった。というのは、その擦り作業は、力を入れて強く擦らないとならないからなんだ。それで考えたね。他に何か効率的な良い方法はないかと・・・・・。
 それで、以前、酷い汚れは、熱湯でグツグツ煮ると落ちるということを何かで読んだような気がしたので、さっそく、石油ストーブの上に大鍋を乗せ、大鍋の中に入れて4~5時間グツグツと煮込んでみた。しかし、この方法でも、何の変化もなかった(><)
 次いで、もしも、漆が塗られているのだとすれば、その漆を落とす方法はどうすればよいのかについてネットで調べてみたら、シンナーで落ちるらしいということが分かったので、シンナーを買いに走った。しかし、これまた、この方法でも何の変化もなかった(><)
 結局は、原始的な方法であるが、雑巾擦り以外に方法がないことを知り、その作業を更に3~4時間継続させ、ほぼ色落ちしないところまで漕ぎ着けた。

吸坂: それは大変でしたね。で、どんな細工がしてあったんですか?

主人: それがね。結局は良くわからなかったんだ。何を塗りつけたのか・・・・・。ただ、非常に上手な細工であったことは確かだね。何のためにこの細工をしたのかを知っていたなら、そのままにしておきたかったよ。 

吸坂: 何のためにそんな巧妙な細工をしたんでしょうね。

主人: これもはっきりとは分からないが、ほぼ色落ちしない状態となった段階で、私なりに判断して出した結論は、経年劣化で、特に、高台内及び高台付近のテリがなくなり、カセた感じになってしまっていたので、テリを生じさせるために細工を施したんではないかということだね。カセた状態は、高台内及び高台付近が一番ひどかったので、その辺を特に厚く塗り、ついでに、裏・表全体の銹釉部分にも薄く塗ったようだね。

吸坂: どうしてそんなことをしたんでしょうかね。

主人: カセた状態を補修し、より良い状態に見せようと、より完璧に近い状態に見せようとしてやったんではないかと思っているよ。私は、そんなことをする必要はないと思うんだがね。

吸坂: 分かりました。それでは、私は、偽物ではないということですね。 

主人: 今のところ、そう思っている。この件に関し、ブログでコメントを寄せてくださったお二人には大変に感謝しているよ。

吸坂: ところで、私の名前は「吸坂」となっていますが、どうしてですか?

主人: それはね、お前のような手は、以前は古九谷吸坂手とか吸坂焼と呼んでいたんだ。ところが、有田の山小屋窯などから陶片が出土するので、伊万里に移籍されたんだ。伊万里に移籍されるようになって久しいが、今でも古いコレクターは古九谷吸坂手とか吸坂焼と呼んでいるので、そのような経緯を考慮して「吸坂」としたんだよ。

 

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追 記 (H31.2.1)

 この記事をアップした後、この大皿は、現代作の物に特殊な塗料のようなものを塗って古色を出し、古い本物のように工作したのではないかという思いが強くなってきました。
 ここに、その旨を追記したいと思います。 

 

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色絵 男子立像

2021年12月08日 13時47分31秒 | 古伊万里

 今回は、「色絵 男子立像」の紹介です。

 この「色絵 男子立像」につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で、既に紹介しているところです。

 つきましては、次に、その時の紹介文を再度掲載することをもちまして、この「色絵 男子立像」の紹介とさせていただきます。

 

 

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        <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー224  伊万里柿右衛門様式色絵男子立像    (平成29年1月1日登載)

 

 古い埃だらけの箱の中には汚らしいボロボロの布が突っ込んであり、そんな状態の箱の中に入っていたものである。

 この人形自体も薄汚く汚れていた。それを見て、磁器の人形ではなく、陶器の人形に人工的な工作を施して古い人形に見せかけた物ではないかと思ったほどである(-_-;)

 その後、漂白剤に4~5日漬けておき、その間、毎日、小型のタワシと歯ブラシでゴシゴシ洗っていたら、随分と奇麗になった。

 

漂泊前の前面

 

 

漂白後の前面

全体的にだいぶ奇麗になった。しかし、眉毛が少し薄くなってしまった。

 

 

漂白前の背面

 

 

漂白後の背面

全体的にだいぶ奇麗になった。しかし、頭髪がだいぶ薄くなってしまった。

 

 

漂白前の、特に汚れの酷かった部分(顔面、首筋、胸の辺り)の画像

 

 

漂白後の、特に汚れの酷かった部分(顔面、首筋、胸の辺り)の画像

だいぶ綺麗になった。

 

 

水洗い後の底部

底部は特に汚れが酷く、茶色っぽくなっていて磁器には見えな
いほどだったので、漂白剤に漬ける前にとりあえず水洗いした。

 

 

漂白後の底部

水洗い後とさほど変わらない、、?

 

 

漂白後の右側面

 

 

漂白後の左側面

 

 

空気穴(右袖の下部)

中が中空になっているため、焼成時に中の空気が膨張して破裂しないようにするために、空気穴を設けている。

 

 

空気穴(左袖の下部)

中が中空になっているため、焼成時に中の空気が膨張して破裂しないようにするために、空気穴を設けている。

 

 

 漂白剤に4~5日漬けておき、その間、タワシや歯ブラシでゴシゴシ洗っていたわけではあるが、それ以上には奇麗になりそうもないので、それ以上の洗浄作業は止めることにした。

 或る程度は奇麗になったが、時代の汚れはどうしようもないようである。

 350年近く経過しているので、止むを得ないところもあるが、保存状態が悪かったのであろう。
 表面は磁器のテリのようなものが失われ、艶がなくなっている。

 しかし、釉剥げ、特に前面の赤の釉剥げが酷いが、疵もなく、その程度で済んだのは幸いであった(^-^;
 「よくぞご無事で!」 と言いたい。

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代前期(寛文時代)1670~1700年代(寛文末~元禄)

サ イ ズ : 高さ;28.5cm

 

 

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*古伊万里バカ日誌152  古伊万里との対話(柿右衛門人形)(平成29年1月1日登載)(平成28年12月筆)

 

登場するものたち
  神 様 (古伊万里の神様)
  主 人 (田舎の平凡なご隠居さん)
  柿 男 (伊万里柿右衛門様式色絵男子立像)

 

・・・・・プロローグ・・・・・ 

 主人は、先日、ものすごく汚れた古伊万里の人形を買ってきたようである。
 その汚れを落とすため、何日間か漂白剤の中に漬けて置いたが、その汚れもだいぶ消え、なかなかに美しい姿を現わしてきたようである。
 嬉しくなった主人は、元旦の記念すべき日に、その人形と対話を始めた。

 

 


 

 

主人: お前のことは、つい先日、何時も行っている古美術品交換会で手に入れたんだ。

柿男: そうでしたね。劇的な出会いでしたね。 

主人: そうだった。意外な出会いだった。
 その古美術品交換会は、言っちゃ悪いが、どうも、古伊万里に関しては、良い物が登場して来ないんだよね。ちょっと良い物かなと思うと、疵がひどかったり、発色が悪かったりで、欠点ばかり多く、言うなればガラクタばっかり登場してくるんだよ。
 ところで、私の行っているその古美術品交換会では、競りにかける物を木製の長方形の浅いトレイ(そのトレイのことを「盆」と言ってるが)に乗せ、座っている参加者の前を通過させるんだ。参加者は、自分の前に来た「盆」に乗っている物をじっくりと事前に観察しておいて、その物が競りにかけられた時に競りに参加するという方法で行っているんだ。
 先日も同じような感じだった。どうせまたガラクタばっかり登場してくるんだろうとの先入観から、「盆」に乗った物をよく見もしないでいたら、急にお前が競りにかけられたんだ。びっくりしたね。慌てたよ!
 私は、何時も、競り人の対面の位置に座っているので、競りにかけられた物とは一番遠い所にいるわけで、座っている位置からは、競りにかけられた物の詳細が分からないんだよね。だが、遠目ながら、形・色から判断し、一目見て、「これは本物だ!」と直感したね。
 でも、ここからは詳細がわからない。例によって疵がひどかったりの欠点だらけなのかもしれない。とにかく近くで見なければ、と思い、競り人の所まで急いで歩いて行ったんだ。
 ところが、近くで見てガッカリだった。ほこりだらけの古い箱が付き、その箱の中には薄汚いぼろぼろの布切れが突っ込んであり、お前はといえば、古く見せるために全面的に人工的に汚くよごされているように見えたんだ。お前の底部なんか、茶色っぽくなっていて、とても白磁の素地のようには見えなかった。新しい物を古く見せて売るための条件が揃っていたんだよ。私は、うっかりして事前に「盆」に乗って回ってきた時点で見ないでしまったんだが、事前に「盆」に乗って回ってきたお前を見た皆さんも同じように思ったんだろうね。「これは、新しい物を古く見せかけるように工作した偽物だ、と・・・・・」

 

前面
 

 

背面
 

 

特に汚れの酷かった部分(顔面、首筋、胸の辺り)
 

 

 結局、誰も槍を入れる者(競りに参加する者)がいなかった。私も参加するのは止めようかなと思ったんだが、事前に見逃していながらも、遠目ながら、お前を見た第一印象が「本物」だったし、競り人も、「奇麗に洗えば良くなるかもしれないよ!」と言うので、参加してみようかなという気になった。それで、「発句の値段でなら買ってもいいが」と言ったところ、競り人は、「それは駄目です。でも、それに千円乗せてくれるなら落札としますよ」ということなので、発句の値段でも、発句に千円乗せた値段でもたいした変わりはないし、その申し出を承諾したんだ。私としては、それはカケでもあったが、ハズレた場合には、そのお金はドブに捨てたと思って、また、夢を買ったと思って、買うことに決断したわけだ。

柿男: 複雑な心境のもとで手に入れたんですね。

主人: そうなんだ。晴れ晴れとしなかったね。だってね、私が落札者と決まった時の周りの目は、「あいつは目の見えないやつだな! ダマシの罠にまんまと引っかかったよ! 可哀相に! 憐れなやつよ!」と語っていたものな。交換会会場から自宅に戻る車の中でも沈んだ気持ちで運転していたよ(><)
 それで、自宅で、さっそく、とりあえず、底部を水に濡らし、タワシでごしごし洗ってみた。そうしたら、なんと、茶色っぽい色が消え、白磁の素地が現れてきたんじゃないの! 嬉しかったね(^-^;  とりあえずボデーは「本物」ということがわかったからね。

 

水洗い後の底部
 

 

 あとは、どれだけ原形をとどめているかだからね。どれだけ人工的な工作が加えられているかだからね。
 ただ、人工的に加彩が施され、その上に全体的に何かが塗られてコーティングされているとした場合、もしも油性のものでコーティングされているとすれば、漂白剤に漬けただけでその汚れは落ちるのだろうか・・・・・等と、次から次へと疑問が湧いてくるんだよ。
 しかし、色々と考えていてもしかたがないしね。一つ一つ作業をしていくほかないものね。それで、とりあえず、漂白剤の中に漬けておくことにしたんだ。

柿男: それでどうなりましたか?

主人: 幸いなことに、だんだん汚れが落ちてきたんだよ。どうやら、あまり人工的な工作は施されていないらしいことがわかってきたんだ(^-^;  漂白剤に漬けておくだけで十分なことがわかってきた。毎日、漂白剤の中に漬けたままで、小型のタワシや歯ブラシでゴシゴシ洗っていたら、随分ときれいになったよ。
 ただ、頭髪の部分の黒の釉剥げと眉毛の黒の釉剥げ、それと、着物の赤い部分の釉剥げが目立つようになってしまった(><)
 だが、どうやら、この部分の釉剥げは、かなり前からあったんだと思う。そこを、かなり前に加彩して補修し、釉剥げがわからないようにしたんだと思う。そして、今回、漂白剤に入れられたことによって、再度、釉剥げが出現したんだと思う。それでも、髪の毛と眉毛の部分の黒の加彩は、それほど酷い結果を招いていなかったようだが、着物の前側の赤の加彩はまずかったね。その赤の加彩がだんだんと周辺にも薄く滲んできてしまって、全体をより一層きたならしくしてしまっていたんだね。
 でも、考えてみれば、お前が作られたのは寛文(1661~1672年)頃1670~1700年代(寛文末~元禄)だから、もう350年三百数十年近くも前なんだよね。作られてから350年三百数十年近くも経てば、状態は悪くなるわね。特に、お前は人形だから、単に飾られていただけではなく、手に取って近くで眺めたり、さすったり、こすったりした人もいただろうから、長い間には釉剥げも生じるわね。
 そうそう、私が、当初、お前には、古くみせるために、人工的に全体的に油性の物でコーティングされているのかなと思ったのは、手に取って眺めたり、さすったり、こすったりした際の人の手脂だったんだね。長い間での手脂の累積が、全体的に油性の物でコーティングしたように見せていたんだね。
 なお、所々に、シミのようなものが残ってしまった。これは、いくらゴシゴシやっても消えないんだ。何か化学的な処理をすれば消えるのかもしれないが、まっ、古いシミのようなものは、古さを証明する勲章のようなものだから、これはそのままにしようと思っている。
 ところで、幸いなことに、お前には疵がないことが判ったんだ。人形の場合は、たいてい、首が折れ、それを接着剤のようなもので継いでいるケースが多いんだが、それもないんだよね。嬉しかったね(^-^;

 

漂白後の前面
全体的にだいぶ奇麗になったが、眉毛が少し薄くなった。
 

 

漂白後の背面
全体的にだいぶ奇麗になったが、頭髪がだいぶ薄くなった。
 

 

特に汚れの酷かった部分(顔面、首筋、胸の辺り)の漂白後の画像
だいぶ奇麗になった。
 

 

漂白後の底部
水洗い後とさほど変わらない、、?
 

 

柿男: そうそう、ご主人は、柿右衛門人形の本物を見たことがあるんですか?

主人: もちろんあるさ。あちこちの美術館で見ているが、特に、栃木県にある栗田美術館では何度も見ているね。栗田美術館には、最近こそ足を運ばなくなってしまったが、栗田館長さんがご存命の頃はよく行ったもんだよ。そして、そこで柿右衛門人形も見てきていたからね。
 それに、特に、柿右衛門男子人形に関しては、強烈な思い出があるんだ。

柿男: どんな思い出ですか。

主人: もう25年も前のことになってしまったが、ハリウッド女優のエリザベス・テーラーさん(2011年3月死去)が、1991年の9月にエイズ撲滅キャンペーンのために来日したことがあるんだよ。その時、栗田美術館にも来たんだ。
 余談だが、その際、私は、エリザベス・テーラーさんを1メートルくらいの至近距離で見ているんだ。至近距離だったので、ついつい顔をまじまじと見てしまった。そうしたら、顔じゅう産毛だらけだったことを覚えているよ。更に余談になるが、その時、エリザベス・テーラーさんはストッキングを穿かないで素足のままで靴を履いていたんだ。日本人には珍しいので、ついつい足の方にも気をとられて見てしまった。そこでも、スネ毛がいっぱい生えていたことを覚えているよ。その時に、日本人の女性と違って、白人の女性は毛深いんだな~と思ったね。
 ちょっと脱線してしまった。話を元に戻そう。
 その際、故栗田館長さんが、「エイズ財団」に百万ドルを寄付し、エリザベス・テーラーさん個人には、お前と同じくらいの1尺くらいの色絵の柿右衛門男子人形をプレゼントしたんだ。「これを私と思って連れ帰ってください」と言ってね。
 当時、エリザベス・テーラーさんは腰痛を患っていて、ヘリコプターで栗田美術館に来たんだが、腰痛のためもあり、当初はウカヌ顔をしていた。ところが、それらの寄付やプレゼントを受けたとたん、急に表情が明るくなり、ニコニコとし、元気になった。腰痛のことなどすっかり忘れてしまったかのようだった。エリザベス・テーラーさんの写真を撮っていた者のカメラをとりあげ、逆にそのカメラでその人の写真を撮ってやるというようなサービスぶりも発揮していたよ。よほど嬉しかったんだろうね。
 当時の新聞によると、栗田美術館に来る前日か前々日に、東京で自民党から1万ドルの寄付を受けたようだが、こんな田舎の美術館で百万ドルも寄付されるとは思ってもみなかったのかもしれないね。当時の為替レートは現在よりもずっと高かったから、相当な額になるからね。
 まっ、そんなことで、柿右衛門男子人形については、強烈な思い出があるわけなんだ。その時、「私も、いつの日にか、あのような、エリザベス・テーラーさんが貰ったような柿右衛門男子人形を手に入れたい!」と思ったものだよ。

神様: アルジよ!  アルジよ!  聞こえるか!

主人: ん?  今、なにやら、天の方から私を呼ぶような・・・・・。

神様: アルジよ。気が付いたか。私じゃよ。古伊万里の神じゃよ。

主人: ハハ~~~。

神様: アルジは、日頃より、古伊万里たちを愛してくれているようだな。古伊万里たちに代わって礼を言いたい。また、古伊万里の美を世界に向けて発信してくれているようで、感謝にたえない。 

主人: ハハ~~~。身に余る有り難きお言葉、痛み入ります。
 恐れながら、私は単に古伊万里が好きで、古伊万里に少々のめり込んでいるだけでして、古伊万里の神様から感謝されるなど恐れ多いことにございます。

神様: うん。それでよいのだ。
 ところで、今日は、アルジにお年玉を進呈するためにやってまいった。

主人: それはそれは重ね重ねの有り難きお言葉、天にも昇る心地にございます。

神様: アルジは、ず~っと、柿右衛門男子人形を手に入れることを願っていたな。今、そこにある柿右衛門男子人形は私からのお年玉だと思ってくれ。

主人: ハハ~~~。有り難き幸せにございます。終生の宝といたします。 

神様: これからも益々、古伊万里を愛し、古伊万里の美を世界に向けて発信してくれ。

主人: ハハ~~~。益々精進いたします。

神様: うん。さすれば、また、私からの更なる感謝の意もあるであろう。

主人: ハハ~~~。

 

 

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追 記(令和6年4月18日)

 ぽぽさんが、最近買ったという古伊万里に関する本を何冊か紹介していました。

 その中の1冊に、「古伊万里・柿右衛門・鍋島の系譜 肥前色絵の美」(佐賀新聞社発行)という本がありました。そして、その中に、この「色絵 男子立像」と大変似ているものが紹介されていました。

 それによりますと、この「色絵 男子立像」と大変似ているものは、今右衛門古陶磁参考館蔵のもので、その製作年代は18世紀前半となっていました。

 そうしますと、この「色絵 男子立像」の製作年代も18世紀前半とすべきものかもしれません(~_~;)

 私はこれまで、この手のものの製作年代を、栗田美術館の例に倣い、「寛文(1661~1672年)頃」と考えていましたが、どうも、もう少し新しいのかもしれません(~_~;)

 ちょっと、私は、この「色絵 男子立像」の製作年代を若干古くみてしまったようにも感じます(><)

 そこで、数少ない手持ちの資料の柴コレで調べてみましたら、この「色絵 男子立像」の製作年代は「1670~1700年代(寛文末~元禄)」辺りに位置付けるべきではないかと思いました。もっとも、柴コレにはこの手の立像の例は載っていなかったのですが、少し似た立体物から類推しました。

 従いまして、当面、この「色絵 男子立像」の製作年代を、江戸時代前期(寛文時代)よりは少し新しく、今右衛門古陶磁参考館蔵のものよりは古く、妥協点として、「1670~1700年代(寛文末~元禄)」と訂正したいと思います。それに伴い、上記文中の「寛文(1661~1672年)頃」を「1670~1700年代(寛文末~元禄)」に、「350年」を「三百数十年」に訂正したいと思います。

 なお、新たな信頼の出来る資料などが見つかった際は、更に訂正いたします。