滋野小学校は2度の移転を繰り返しました。
滋野小学校の北側には八幡神社があります。
神社のそばに泉がわいており飲料水とするため
学校まで鉄管で引いてきてありました。
滋野小学校が創立140周年を迎えることは昨日のブログでお話しました。今日は滋野小学校の移転に伴うお話です。滋野小学校は何度か移転しています。最初は「精業学校」として現在は小諸市になっている東漸寺の南側に設立されたそうです。その後手狭となり、国道18号線の赤岩の信号の北側の丘の上に移転となりました。
明治19年(1886)11月この「精業学校」の地に滋野地区にあった4つの学校が統合し、新たに「滋野小学校」が設立されました。私の父は大正2年生まれですが、生前に学校の西側にある大石沢川を渡って通ったという話を聞いたことがあります。学校には井戸がなく、大石沢川まで水を汲みに行くのが大変だったと言っていました。学校の窓にはガラスが入っていて、当時は珍しかったことから「ギヤマン」(ガラスのこと)学校と言われていたそうです。
その後大正14年(1925)11月、現在地に移転になりました。なぜこの場所になったのか詳しいことはわかりません。ただ学校の北側には地域の鎮守様である八幡神社があり、昔から豊富な湧水があったからだと言われています。私が子供の頃は湧水を鉄管で学校まで引いてきてあり、1年中きれいな水が飲めました。湧水の温度が一定のため、夏には鉄管に水滴がつき、冬にはもうもうと水蒸気が立っていたことを覚えています。
ここからは私の推測です。この地域は昔から水には苦労してきました。田んぼの水が確保できず水争いもたびたび起きていました。そんな中で八幡様の前の田んぼは水には不自由することはありませんでした。学校のすぐ南には村役場があり村の中心地でした。学校は八幡様のすぐ前にできましたので子供たちは八幡様に見守ってもらえます。そんな大切な田んぼをつぶして子供たちの学校を造ったのです。
こうしたことを考えると当寺の滋野村の皆さんが子供たちの教育にかけた思いには並々ならぬものがあったことがうかがわれます。村の人々にとって子供たちは希望の星でした。そうした子供たちを教育するにふさわしい環境を整えることに心血を注いでこられたのではないでしょうか。
私は140周年にあたり、子供たちにこうした先人たちの思いを伝えて行きたいと思います。