古代史で紹介し、廃番なので古代史CDで聴いてもらっている、スペインの女性ギタリストのマリア・エステル・グスマンですが、コレクションしているうちに変なCDが見つかりました。外盤ですが、音のバランスが悪いのです。
中低域から低域が盛り上がり、普通に再生すると中域から高域が不足してボンボンと鳴ります。『アルハンブラ宮殿の思い出』が収録されていたので、10代の時に日本で録音した『アルハンブラ宮殿の思い出(『タレガ賛歌』に収録)』と比較してみました。日本の録音は極めてオーソドックスで、実に教科書的な良さがあります。しかし今回の外盤は、冒頭からテンポの変化が激しく、明らかに意図的な改変が見られます。
良心的に解釈すれば、外盤は「宮殿に立ち降り、足早に中庭に向かい、そして魅了される心」という動きが込められています。しかし、日本での録音は、池の水の煌き、その光が反射するモザイクの壁面、そして滅び去ったイラム建築への郷愁などが、聴いているとイメージできるのです。要するに、芸術の本質である「想像力を刺激する」というやつです。外盤は、この想像力を否定され、押し付けられたイメージを受容するという苦痛を強いられます。作家と鑑賞者の間で、そのやりとりが本末転倒しているてのです。
マリア・エステル・グスマンという天才は、その天才に比して評価が低く、10月の来日(小田原公演)も知りませんでした。知っていたら駆けつけていたので、中古CDを法外な金額で買うはめになったのも、知らなかったことへの罰だと受け取っています。
天才は自分の天才を知っており、その重荷と栄光の間で揺れ動いています。僕の一年下の後輩は知りませんが、芸大合格者の半分を占めた「新美式」なる手法は、僕の前後でガラっと変わっているのです。新美式は僕が確立したのを知らないのです。自分で確立したから、自分で天才だと思えるのです。マリア・エステル・グスマンも、天才にしか分からない自負を持ち、それが世間で評価されない苦悩の中にあるのです。
外盤のジャケットはひどいもので、エステルの写真を下手な絵でイラスト化した駄作です。天才に不釣合なジャケットと盤質は、天才マリア・エステル・グスマンの苦悩をそのまま表しています。でも、マリア・エステル・グスマンは天才ですから、そのうち達観して、自分の才能に奉仕するという、天才の宿命を受け入れると思います。そうなれば、世間に対する変な迎合はしなくなるはずです。
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僕は日本人の演奏を余り書きませんが、頭から否定しているのではなく、良い演奏に出会わないだけです。93年の深夜にFMのオムニバスが流され、マリア・エステル・グスマンのシャコンヌに感動した僕ですが、その番組の始めの方にヴィヴァルディの『四季』がありました。流されたのは「冬」の部分でしたが、ヴァイオリンのソロは日本人の前橋汀子さんです。オケはスカラ座管弦楽団。これがまた良かったんですね。
でも、この録音のCDはいくら探しても見つかりませんでした。検索でも出てこない有様で、半ば諦めていました。しかし、再販でもされたのでしょうか。急にアマゾンに出るようになりました→こちら。オークションで中古があったので求めて聴いてみました。「冬」は暖炉の薪が燃え盛って弾けるような熱演です。オムニバスの選者は偉い。
ということで、視聴会用のCDを集めていますから、次回にはジュリーニ指揮のドボルザークの『新世界から』や、モニカ・ハジェットのバロックヴァイオリンなどと共に紹介したいと思います。でも、次回の試聴会はスーパーケルビムを持ち込みたいですね。その前に、ケルビムの板取図を完成させなきゃ orz。
追加
ということで、音道の1と2、板取の1と2を急遽アップしました。音道と板取をにらめっこすれば、余分な板や隅木に使う板がどれか分かると思います。なお、すべて12ミリ厚で作れるように、自作よりも首は太くなっています。
エフライム工房 平御幸
中低域から低域が盛り上がり、普通に再生すると中域から高域が不足してボンボンと鳴ります。『アルハンブラ宮殿の思い出』が収録されていたので、10代の時に日本で録音した『アルハンブラ宮殿の思い出(『タレガ賛歌』に収録)』と比較してみました。日本の録音は極めてオーソドックスで、実に教科書的な良さがあります。しかし今回の外盤は、冒頭からテンポの変化が激しく、明らかに意図的な改変が見られます。
良心的に解釈すれば、外盤は「宮殿に立ち降り、足早に中庭に向かい、そして魅了される心」という動きが込められています。しかし、日本での録音は、池の水の煌き、その光が反射するモザイクの壁面、そして滅び去ったイラム建築への郷愁などが、聴いているとイメージできるのです。要するに、芸術の本質である「想像力を刺激する」というやつです。外盤は、この想像力を否定され、押し付けられたイメージを受容するという苦痛を強いられます。作家と鑑賞者の間で、そのやりとりが本末転倒しているてのです。
マリア・エステル・グスマンという天才は、その天才に比して評価が低く、10月の来日(小田原公演)も知りませんでした。知っていたら駆けつけていたので、中古CDを法外な金額で買うはめになったのも、知らなかったことへの罰だと受け取っています。
天才は自分の天才を知っており、その重荷と栄光の間で揺れ動いています。僕の一年下の後輩は知りませんが、芸大合格者の半分を占めた「新美式」なる手法は、僕の前後でガラっと変わっているのです。新美式は僕が確立したのを知らないのです。自分で確立したから、自分で天才だと思えるのです。マリア・エステル・グスマンも、天才にしか分からない自負を持ち、それが世間で評価されない苦悩の中にあるのです。
外盤のジャケットはひどいもので、エステルの写真を下手な絵でイラスト化した駄作です。天才に不釣合なジャケットと盤質は、天才マリア・エステル・グスマンの苦悩をそのまま表しています。でも、マリア・エステル・グスマンは天才ですから、そのうち達観して、自分の才能に奉仕するという、天才の宿命を受け入れると思います。そうなれば、世間に対する変な迎合はしなくなるはずです。
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僕は日本人の演奏を余り書きませんが、頭から否定しているのではなく、良い演奏に出会わないだけです。93年の深夜にFMのオムニバスが流され、マリア・エステル・グスマンのシャコンヌに感動した僕ですが、その番組の始めの方にヴィヴァルディの『四季』がありました。流されたのは「冬」の部分でしたが、ヴァイオリンのソロは日本人の前橋汀子さんです。オケはスカラ座管弦楽団。これがまた良かったんですね。
でも、この録音のCDはいくら探しても見つかりませんでした。検索でも出てこない有様で、半ば諦めていました。しかし、再販でもされたのでしょうか。急にアマゾンに出るようになりました→こちら。オークションで中古があったので求めて聴いてみました。「冬」は暖炉の薪が燃え盛って弾けるような熱演です。オムニバスの選者は偉い。
ということで、視聴会用のCDを集めていますから、次回にはジュリーニ指揮のドボルザークの『新世界から』や、モニカ・ハジェットのバロックヴァイオリンなどと共に紹介したいと思います。でも、次回の試聴会はスーパーケルビムを持ち込みたいですね。その前に、ケルビムの板取図を完成させなきゃ orz。
追加
ということで、音道の1と2、板取の1と2を急遽アップしました。音道と板取をにらめっこすれば、余分な板や隅木に使う板がどれか分かると思います。なお、すべて12ミリ厚で作れるように、自作よりも首は太くなっています。
エフライム工房 平御幸