皇室の家紋の中にケルビムと蝶を見つける問題。まだ自己申告待ちですが、おそらくは2つとも分かった人はゼロなのでは。ケルビムについては、三笠宮に辿り着いても、そこから逆さまに見ている人が大半でした。カッバーラの基本は鏡像反転で見ること。鏡に映せば、見えなかったものも見えてくるのです。これは石膏デッサンで形を修正するときにも有効です。
常陸宮の蝶は、羽を広げた姿を真正面から見るという、90度回転させた視点が必要でした。不正解者は、蝶は上から見るものという先入観が邪魔したのです。このような先入観、決め付け、思い込み、見たいものしか見ないという願望、これらが素直な目を曇らせているのです。5分で見えなかったら、いくら考えてもダメなことが多いのです。
このように、読者の大半は「下手な考え休むに似たり」を実践したわけですが、おそらくは僕よりも生真面目なのです。僕は皇室の正式な名前も覚えていないし、秋篠宮の長男の名前も覚えようとしてもすぐに忘れるので、諦めて覚えないことにしています。三笠宮の亡くなった殿下も読み方を忘れて分かりません。僕は天才ですけど、名前と英単語と公式は天才的に覚えられないのです。覚えられたらハーバードでもどこでも行っています。
僕は、おそらくは子供の時の事故で脳の記憶領域に欠陥があり、それで日本を離れないで古代史の謎解きをするに至ったのです。これは日本にとって幸いです。NHKの大河ドラマの前身として、土曜日に『鉄砲小弥太』を放送していましたが、5才の僕は小弥太という字も認識していましたし、鉄砲を種子島と呼ぶことも理解できていました。ただ、鉄砲を撃つ場面は怖じけていました。いまだに覚えているのだから、記憶障害が起こったのは小学校に入ってからですね。
ところで、今回不正解だった読者から、どうやったら見えるようになるか、良い訓練方法はないかとメールがありました。これには直感力を鍛えるしか方法はありません。直感力を鍛えるのは、何事にも格付けや重み付けを与える目を養うのと同じです。今回の場合、秋篠宮を除くと、宮家の格付けとして三笠宮と常陸宮が抜きん出ています。他の宮家に目が向くことがそもそもの間違いの元なのです。また、デザインされた線や形にも重みの違いがあるのです。
僕は競馬でレイティングという言葉を使いますが、レイティングの正しいあり方は、デビュー戦を見ただけで、その馬の能力値を推理するというものです。もちろん、晩成血統の場合にはデビュー戦で負けることも多いのですが、レイティングを与える事で相馬眼を鍛えることになります。競馬と格付けは切っても切り離せないのです。
このような格付けの世界の代表が美術です。美術は、作品の放つ数々の要素を通して、作者の才能の輝きに価値を与えるのです。だから、売れているか売れていないかではなく、また世間的な評価が高いか高くないかでもなく、純粋に自分にとって価値があるかないかが自問されるのです。才能のない者が、才能のある者を直感で見抜いて、嫉妬したり邪魔する世界でもありますから、天才は常に孤独となります。
才能のない者は、才能ある者に道を譲ることでしか徳は積めません。才能ある者を証しすることで、才能ある者の先にある神を証しできるという、この悲しい現実が才能のない者の宿命なのです。しかし、現実には才能のない者の下克上が一般的です。でも、天才というのは、神を証しするのが宿命なので、才能のない者の下克上も世俗の醜聞に過ぎないのです。天才は神を見ているから天才なのですから。
では、直感力を鍛えるにはどうすればよいか?まず、計量という行為からやめましょう。特に料理では塩梅が大事ですから、調味料をスプーンで量るなど愚の骨頂です。塩加減や醤油加減は量らないで、手でさっと決めましょう。ご飯を炊くときも計量カップは使わずに、適当にお米を入れて適当に水位を決める。何度か失敗すれば塩梅は分かります。計量に頼るのは、生地やあんこやクリームを作るときだけですね。
頭の使い方としても、「こうでこうでこうなるから」という垂直式の考え方だけではダメです。仮説を立てて、「もしもこうならどうなるか?」という奥行き式の推論が必要です。加えて、二つ以上のものを比較する水平的な考察。これで三次元的な立体思考が育まれるのです。日本人は特に二つ目の仮説が苦手です。苦手だから、単に仮説にすぎない進化論をありがたがり、真理であるかのように信奉するのです。
垂直式の考え方は、学校で習ったことを金科玉条とする人に多く、僕のように学校の先生は馬鹿だからという顔をして立たされ坊主になった人は、二番目の仮説に長けているのです。学校は、未来の天才を馬鹿な教諭が潰す、本当にろくでもないところですからね。こんなところから立体思考が出てくるわけがありません。
ということで、物事を多角的に見られない人は、下手でも良いから絵を描いてみるのが良いのです。見えていないものは描けないし、それが自分の見ている世界の全てなのですから。自分の限界が見えるのが絵の恐ろしい所です。石膏像を逆さまにしたり後ろから描くのも、自分を別の観点に立たすという意味があるのです。立場を変えれば見え方が変化する。自分の立場に固執する人は、常に一方向からしか見えない(見たくない)ということですね。
エフライム工房 平御幸
常陸宮の蝶は、羽を広げた姿を真正面から見るという、90度回転させた視点が必要でした。不正解者は、蝶は上から見るものという先入観が邪魔したのです。このような先入観、決め付け、思い込み、見たいものしか見ないという願望、これらが素直な目を曇らせているのです。5分で見えなかったら、いくら考えてもダメなことが多いのです。
このように、読者の大半は「下手な考え休むに似たり」を実践したわけですが、おそらくは僕よりも生真面目なのです。僕は皇室の正式な名前も覚えていないし、秋篠宮の長男の名前も覚えようとしてもすぐに忘れるので、諦めて覚えないことにしています。三笠宮の亡くなった殿下も読み方を忘れて分かりません。僕は天才ですけど、名前と英単語と公式は天才的に覚えられないのです。覚えられたらハーバードでもどこでも行っています。
僕は、おそらくは子供の時の事故で脳の記憶領域に欠陥があり、それで日本を離れないで古代史の謎解きをするに至ったのです。これは日本にとって幸いです。NHKの大河ドラマの前身として、土曜日に『鉄砲小弥太』を放送していましたが、5才の僕は小弥太という字も認識していましたし、鉄砲を種子島と呼ぶことも理解できていました。ただ、鉄砲を撃つ場面は怖じけていました。いまだに覚えているのだから、記憶障害が起こったのは小学校に入ってからですね。
ところで、今回不正解だった読者から、どうやったら見えるようになるか、良い訓練方法はないかとメールがありました。これには直感力を鍛えるしか方法はありません。直感力を鍛えるのは、何事にも格付けや重み付けを与える目を養うのと同じです。今回の場合、秋篠宮を除くと、宮家の格付けとして三笠宮と常陸宮が抜きん出ています。他の宮家に目が向くことがそもそもの間違いの元なのです。また、デザインされた線や形にも重みの違いがあるのです。
僕は競馬でレイティングという言葉を使いますが、レイティングの正しいあり方は、デビュー戦を見ただけで、その馬の能力値を推理するというものです。もちろん、晩成血統の場合にはデビュー戦で負けることも多いのですが、レイティングを与える事で相馬眼を鍛えることになります。競馬と格付けは切っても切り離せないのです。
このような格付けの世界の代表が美術です。美術は、作品の放つ数々の要素を通して、作者の才能の輝きに価値を与えるのです。だから、売れているか売れていないかではなく、また世間的な評価が高いか高くないかでもなく、純粋に自分にとって価値があるかないかが自問されるのです。才能のない者が、才能のある者を直感で見抜いて、嫉妬したり邪魔する世界でもありますから、天才は常に孤独となります。
才能のない者は、才能ある者に道を譲ることでしか徳は積めません。才能ある者を証しすることで、才能ある者の先にある神を証しできるという、この悲しい現実が才能のない者の宿命なのです。しかし、現実には才能のない者の下克上が一般的です。でも、天才というのは、神を証しするのが宿命なので、才能のない者の下克上も世俗の醜聞に過ぎないのです。天才は神を見ているから天才なのですから。
では、直感力を鍛えるにはどうすればよいか?まず、計量という行為からやめましょう。特に料理では塩梅が大事ですから、調味料をスプーンで量るなど愚の骨頂です。塩加減や醤油加減は量らないで、手でさっと決めましょう。ご飯を炊くときも計量カップは使わずに、適当にお米を入れて適当に水位を決める。何度か失敗すれば塩梅は分かります。計量に頼るのは、生地やあんこやクリームを作るときだけですね。
頭の使い方としても、「こうでこうでこうなるから」という垂直式の考え方だけではダメです。仮説を立てて、「もしもこうならどうなるか?」という奥行き式の推論が必要です。加えて、二つ以上のものを比較する水平的な考察。これで三次元的な立体思考が育まれるのです。日本人は特に二つ目の仮説が苦手です。苦手だから、単に仮説にすぎない進化論をありがたがり、真理であるかのように信奉するのです。
垂直式の考え方は、学校で習ったことを金科玉条とする人に多く、僕のように学校の先生は馬鹿だからという顔をして立たされ坊主になった人は、二番目の仮説に長けているのです。学校は、未来の天才を馬鹿な教諭が潰す、本当にろくでもないところですからね。こんなところから立体思考が出てくるわけがありません。
ということで、物事を多角的に見られない人は、下手でも良いから絵を描いてみるのが良いのです。見えていないものは描けないし、それが自分の見ている世界の全てなのですから。自分の限界が見えるのが絵の恐ろしい所です。石膏像を逆さまにしたり後ろから描くのも、自分を別の観点に立たすという意味があるのです。立場を変えれば見え方が変化する。自分の立場に固執する人は、常に一方向からしか見えない(見たくない)ということですね。
エフライム工房 平御幸