平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

藪の中

2012-10-28 06:02:26 | Weblog
 SNSで、モロゾフが安藤美姫との関係を暴露したと怒りの日記が立てられたので、芥川龍之介の『藪の中』を読んで頭を冷やすように誘導しました。

 『藪の中』は、芥川龍之介の王朝物の最後の作品で、三人の当事者の証言が咬み合わないという内容から、真相が分からないことの象徴的な言葉として使われるようになりました。また、作者の意図を離れての真相探しがブームになり、多くの研究書が書かれたようです。

 芥川はなぜ、『藪の中』を最後に王朝物をやめたのか?また、『藪の中』のテーマは何だったのか?この問いに対する答えは一つしか無いのですが、当時の時代背景もあって、真相探しを是とする人は多かったようです。

 では、先の二つの疑問に対する答えは何か?読者に考えさせる問題としても良かったのですが、今日は画廊への搬入があるし、来週は画廊へ日参しなくてはならないので忙しく、答えを書くことにしました。その答えとは「絶望」です。

 三人の証言が咬み合わないことから、三人は保身のために嘘を言っているとする解釈もありますが、それでは「助かろうとしない三者」の動機が成り立ちません。三人はなぜ、自分が犯人だと証言して罪をかぶろうとしたのか?特に、前科者の多襄丸(たじょうまる)が、自分が殺したと白状する理由がなくなります。

 従って、三者に共通する心情を探せば、それは「絶望」しかないことに気が付きます。多襄丸は捕まった時点で未来はないし、それなら格好良く自分語りしたい。被害者の妻はすべてを失って希望がない。被害者は亡霊となって、今更に残る怨念すら無い。三者のいずれかの弁を尊重しても、そこには救いがないのです。

 『藪の中』が巷で真相探しをされていると知って、芥川もまた、読者や評論家に絶望するしかなかった。軍靴の足音が高くなり、絶望の上に絶望を重ねるしかなかった時代、『藪の中』に「絶望」という答えを見つけたくなかった集団心理があったとしても、それはそれで仕方ないのですけどね。「絶望」を見たくないほどに絶望した時代。希望の対極で絶望が語られるのなら、まだ随分とマシなのです。

 芥川の作品で、『芋粥』を知っている読者は多いみたいですが、芋粥を飽きるほど食べたいという、ささやかな希望が期待しない形で実現された五位の某もまた、夢や希望の皮肉な語り部として描かれています。

 僕も、アンプの新製品が出るたびにワクワクし、お金を貯めて買うまでが花でしたね。手に入れてしまえば、また次の高望みをするだけです。最後には、秋葉原で何も買わないで帰ってくるようになります。まさに五位の某の心理ですが、今は修理する面白さに取り憑かれているので元の木阿弥ですね。

 文化というものは、夢や希望を食べる「欲」という動物の排泄物かもしれません。夢や希望がなくなると、それを食べる「欲」も死んでしまいます。罪深い欲も、罪深くない欲も、絶望という毒に食当たりしないようにしたいものです。

    エフライム工房 平御幸
コメント
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