平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

呪詛としての南無阿弥陀仏

2015-02-04 18:48:21 | 古代史と聖書
 コメント欄で書いたのですが、日本という国は古代から呪詛で成り立ってきたところがあります。呪詛で有名なのは丑の刻参りですが、奈良時代や飛鳥時代にも呪詛が行われていたのです。

 呪詛の影響力が大きかったので、法律で厭魅(エンミ)を禁じるようになりました。厭魅とは、呪いで相手を病気にしたり殺すことです。厭魅が発覚すれば島流しです。

 しかし、最も公に行われながら、それが呪詛とは知られていない呪いがあります。それが南無阿弥陀仏という念仏です。表向きは、阿弥陀如来の功徳に帰依する言葉ですが、だったら南も無も使う必要がありません。サンスクリット語の漢字表記だけなら、ナは名や那でいいし、ムは武や務でも良いのです。

 僕がなぜ、南無阿弥陀仏を呪詛の言葉として見るのかというと、それは仏教の成り立ちに理由があります。開祖のブッダ(仏陀)自身は、古代イスラエルのダン族の出身で、それで「ダンの」という意味のダーナーから檀那や檀家という言葉が生まれたのです。しかし、仏という字は分解するとイムで、元々はエフライム族の祖エフライムを指していたのです。

 ダン族もエフライム族も、古代イスラエルの分裂後に出来た北イスラエル王国に属していました。初代北イスラエル王国の王がヤラベアム。ソロモン王に反旗を翻した、今で言うリベラル官僚です。ヤラベアムがソロモンの子レハベアムに従わずに、イスラエルは南北に分裂。この時に、祭壇のなかった北イスラエル王国が建てたのが金の子牛を祀る高き所で、ダンとベテルの二箇所に造られました。

 仏教は母体がヒンドゥー教ですが、聖牛ミトラの信仰を含めて、ヒンドゥー教は北イスラエルの民がインドに移り住んで持ち込んだものです。ユダヤ教とキリスト教の関係に当てはめれば、ヒンドゥー教が祭司バラモンを頂点とするユダヤ教で、仏教が釈迦を救世主とするキリスト教に位置します。

 日本に仏教がもたらされたのは、実はそんなに古くはなく、唐の傀儡国家として仏教を国家統制の中心とした奈良時代になってからです。それまでは戒すら存在しない、仏教的要素を取り入れた原始キリスト教と言うべきもので、だから法隆寺は救世主思想で凝り固まっているのです。

 また、奈良時代そのものが、北イスラエル王国の末裔が日本を支配した時代であり、だから天皇の名にエフライム族を意味する武(む)が付くのです。天武や文武や聖武など。天武の兄とされる天智天皇は、近江を拠点にした南ユダ族の残党です。京都もユダ族の秦氏を中心とした南ユダ族の縄張り。

 このように、イスラエル分裂後の南北対立が日本で再現されたのが、飛鳥時代以降の度重なる内戦の真相なのです。最も激しかったのが壬申の乱で、北イスラエル軍の勝利した戦いだったので、以降の日本の宗教が北イスラエルをルーツとする仏教一色になったのです。

 北イスラエルの勢力は、仏教を利用して、京都を拠点とする南ユダ王国の衰退を謀った。それが、「南ユダを無き者にする」という意味の南無阿弥陀仏という念仏なのです。

 偶然か呪詛の力かは分かりませんが、南ユダ王国の末裔が住む京都は災いが続きます。京都の弱体化で、北イスラエルのマナセ族が台頭し政権を奪います。これが源氏による鎌倉幕府です。逆に、南ユダ王国のベニヤミン族の残党・足利氏が政権を握ったのが室町時代。足利はタリとも読めますが、タリとはタタール(トルコ)のことで、聖徳太子もタリシヒコなので、タタール経由の南ユダ王国の王族だと分かるのです。

 元々は北イスラエル残党の仕掛けた南無阿弥陀仏の呪詛も、南北朝に分裂した時は、京都を拠点とする北朝の南ユダ王国が呪詛の力を得たのです。南朝は、北イスラエル王国の残党が仕掛けた呪詛が、自分たちを滅ぼす呪詛に変化したことを恨んだことでしょう。最後には自らに跳ね返る呪詛なんてするものじゃありません。

 明治時代は南朝の北イスラエル系が復活し、昭和は北朝の南ユダ王国系が再復活した時代。東京遷都自体が、京都を拠点とする南ユダ王国に対する、北イスラエルの反旗だったのです。もっとも、イエスを最後とするユダ族の王が復活する時が、未だに日本で続く南北対立に終止符を打つ時なんですけどね。

    エフライム工房 平御幸
コメント (6)
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