典礼聖歌 386 「風がどこから」 菅野淳作詞 高田三郎作曲
【バーチャル合唱】典礼聖歌"風がどこから" (高田三郎) by Japan Chamber Choir
典礼聖歌より一般讃歌 "風がどこから" 作詩:菅野淳 作曲:高田三郎 指揮:松原 千振 合唱:Japan Chamber Choir リ...
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日本の典礼聖歌のなかで、あなたはどの曲が最も好きですか、と問われたなら、私は躊躇することなくこの曲をあげることにしている。なぜ好きなのか、と聞かれても、とどのつまりは、好きだから好きだ、ということに尽きるのかも知れないが、あえて理由を言えば、詩(詞というより詩といいたい)の内容に惹かれると共に、曲がその内容にじつにマッチしているからだ、とでも答えようか。
私は、どういうわけか、「ハレルヤ」とか「グロリア」のような派手な曲にこころから感銘を受けたことがない。たとえば、ヘンデルのメサイアの「ハレルヤ」で、国王が起立したから、聴衆もそうするのだなどという話を聞くと、もうそれだけで「何と低俗なことか」と思ってしまう。これは、音楽鑑賞としては偏見に満ちているのかも知れない。歌詞など気にしないで音楽だけ聴けば名曲であるとは思うのだから。どんな曲に感動するかと言えば、もっと控えめな曲、口ごもる様な、沈黙の声が響き渡る様なものが好きなのだ。カトリック聖歌では、たとえば、受難週間で歌われる「茨の冠」。これは、バッハのマタイ受難曲でも歌われる旧い曲であるが、こういう曲には無条件で惹かれるものがある。なによりも、言葉の響きと、その意味内容と、曲とが調和していなければならないのだ。
「風がどこから」は、ヨハネ福音書3-8を典拠としている。いまそれを引用すれば、
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。霊とかspiritとかいうと抽象的に感じるだろうが、風といえば、それは、自然の息吹であり、まざまざとしたレアリティをもっている。實はギリシャ語の原文では、「風」と「霊」はまさに同じ言葉(πνευμα プネウマ)である。しかし、それが同じ言葉ではない日本語や英語であっても、この一節は不思議に心を捉える。そして、菅野淳の詩は、このヨハネ伝の一節を私達が普段使っている言葉で敷衍し、高田三郎が、それを私達の歌にしてくれたのだ。
1.風がどこから吹いてくるのか
人は誰も知らない
愛を呼び覚まし心を潤し
いつの間にかわたしの中を吹き抜けてゆく
それは気高いキリストの想い
どこへ風は吹いてゆくのか誰も知らない
2.炎がどうして燃え上がるのか
人は誰も尋ねない
闇をなめ尽くし腐敗を貫き
深く高く全てのものを清め続ける
それはみなぎるキリストの力
なぜか炎は燃えているのに誰も尋ねない
3.時が今しも過ぎてゆくのに
人は誰も気づかない
道を先駆けて恵みを携え
遠く遥か一人一人を守り導く
それは密かなキリストの祈り
なおも時は過ぎてゆくのに誰も気づかない