歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

鎮魂ということの意味

2005-03-12 |  宗教 Religion
前回のブログで「鎮魂の森を守ろう」と書いたが、そこでいう「鎮魂」の意味を更に考えよう。そのために、島比呂志氏が、1989年に書かれた「納骨堂のゆくえ」という文を手引きとしたい。(ハンセン病と真宗-隔離から解放へ Shinshu Booklet)
私は春秋の彼岸とお盆には、納骨堂詣りに出かけるのが習慣のようになっているのだが、最近ふと、患者のすべてが死に絶えたとき誰がお詣りするのだろうか、また納骨堂は、そのままそこに、いつまでも存在していられるのだろうかなどと、不安な思いに駆られることがある。それは私自身が70才を越えて、やがて死を迎えなければならないということと同時に、療養所自体も確実に終焉を迎えようとしているからだろう。・・・・私が納骨堂に不安を感じたのは、そこに療養所の歴史が集約されており、最も端的に終焉を物語る存在だからである。・・・・それは悲惨を極めた「隔離撲滅の記念碑」に他ならない。言葉を換えて言えば、生前何の抵抗もできなかった患者が、生命を代償として打ち建てた「抵抗の碑」とも呼べるだろう。いずれにしても、その存在は尊く重いものだが、それが将来もそこに在り続けられるかどうか、私達には何の保証もないのである。・・・・生存患者がいなくなり、施設が新しい目的に使用されるようになったときに、はたして納骨堂が安泰であるかどうか、誰にも分からないというのが実情である。そこで国に対して、納骨堂とその周辺を公園化して、永久保存の確約をさせることが急務ではないかと思うのだが、老人の取り越し苦労であろうか。
この文は15年前に書かれたものだが、島氏はそこで、療養所の納骨堂が「滅亡の種族のシンボル」であり「隔離撲滅の記念碑」に他ならないと言う過酷な歴史的事実を率直に見つめつつ、それを「生前何の抵抗もできなかった患者が、生命を代償として打ち建てた抵抗の碑」として捉えている。そして、この納骨堂が将来どうなるかという点について、国家は何の保証も与えていない事実を指摘し、そこを、差別と人権剥奪の歴史を思い起こすための「国立歴史公園」として残すことを提案している。

この文は、島氏が予防法廃止の政治運動に挺身する前のものであるが、彼は、その人権回復運動の精神を、小説「海の沙」の主人公の口を借りて、次の様な「全霊協宣言」なるものによって表現している。それは、療養所の自治会を横断する組織である「全患協」が、予防法撤廃よりも、予防法のもとでの療養所の待遇改善運動を重視していたことへの批判として書かれたものであるが、生者の団体である「全患協」を補完するものとして、納骨堂に眠る死者達の霊が語る「全霊協」の宣言文である。
全国国立癩療養所納骨堂ニ在籍スル諸氏ノ賛同ヲ得テ、ココニ全霊協発足を宣言スル。全霊協の目的ハ、生前、癩患者ナルガ故ニ奪ワレテイ人格ノ回復デアリ、ソレハ現存スル患者諸氏の人格回復ニヨッテ達セラレル。
この宣言で、島氏は、はっきりと納骨堂で眠る嘗ての仲間達の人格回復を訴えている。そして、全患協が「人間ノ尊厳」よりも金品や処遇の安定を求める運動のみに専念していることを批判し、今生きているものの「人格の回復」は、納骨堂で眠る過去の世代の「人格の回復」と不可分であることを宣言している。

島氏のこの宣言は、「鎮魂」ということの意味を改めて我々に反省させる。それは、死者達をいわば神棚に祭り上げ、単にその「霊を慰める」ということではない。それは、その人々の人格の回復、権利の回復を行うことなのである。なぜならば、生者の人格の回復は、死者の人格の回復と不可分であり、我々の内にあって生きている死者達への責任なのであるから。

私は前の投稿で「鎮魂の森を守ろう」と書いたが、そのときの鎮魂も、このような意味で理解しなければなるまい。それと同時に、全生園は今でこそ緑豊かな森に囲まれているが、これは決して自然林だけではないという事も記憶する必要がある。「倶会一処」によれば、全生園の森は戦争中に燃料としてあるいは防空壕建設のために伐採され、戦後しばらくの間は「丸裸同然」であったという。今の緑豊かな森の木々の多くは、ここを植林して「鎮魂の森」あるいは「人権の森」として後世に残そうという療養者達の努力の所産なのである。その森の木々には、それの世話をした過去の世代の思いが込められていることも忘れてはなるまい。
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