歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

第一回 ハンセン病問題に関するシンポジウムの内容

2005-03-14 |  宗教 Religion
「第1回ハンセン病問題に関するシンポジウム」というタイトルの集会が、今日(3月14日)に永田町の都道府県会館で開催された。たまたま厚生労働省健康局に資料館前の樹木伐採の件で問い合わせたときに、同じ担当者が、この会合の準備をも進めていることを知ったので、急遽参加することにした次第である。この担当者の方には、会議の始める前に直接お会いすることが出来た。

この会合は、厚生労働省と(社福)ふれあい福祉協会の主催、法務省が共催、文部科学省が後援という形態を取っていた。その趣旨は、「ハンセン病に対する差別・偏見を解消し、ハンセン病患者・元患者の名誉回復を図るため、国民に対してハンセン病問題に対する正しい知識の啓発普及に努める。加えて、都道府県等における同様のシンポジウムの開催を関係者に要請する」ということであった。

このシンポジウムは、検証会議が一応の課題を終えて、報告書を厚生労働省に提出したその後を受けて、企画されたものである。
プログラムの内容を紹介して、簡単にコメントしよう。

基調講演Ⅰ 長尾 榮治氏(国立療養所大島青松園長)「最先端のハンセン病医学」
基調講演Ⅱ 牧野 正直氏(国立療養所邑久光明園長)「これまでの国の政策を含む歴史について」
基調講演Ⅲ 曽我野 一美氏(全国ハンセン病療養所入所者協議会会長)「患者・元患者の視点から」

 長尾榮治氏の講演は、園長としてではなく医師としての立場からであったが、その内容は素人が聞いてもよく分かるものであった。ハンセン病の病原菌のDNA配列は現代では完全に解明されたが、この菌(学名として今でも癩菌という言葉は残っている)の基本的な特徴を、現代医学の立場から説明された。その内容は、国賠法訴訟での医師の証言などを聴いているものには周知のことではあるが、長尾氏は、現在開発途上国でWHOが実際に投与している治療薬の見本を会場の我々に直接回覧しつつ話された。そのポイントは、癩菌が人体の外では生きられぬごく弱い病原菌である」こと、「感染しても滅多に発病しない」こと、「たとえ発病したとしても自然治癒するケースも多い」こと、病状が進んだとしても、現代医学ならば、「適切な多剤併用療法によって、病状に応じて、一ヶ月、半年、一年 くらいの内服薬投与で、後遺症を残さずに完治する」こと等である。

牧野 正直氏は、基調講演のテーマが大きすぎるので、その責に耐えないと言うことを断られた後で、「戦前戦後を通じて日本のハンセン病対策の主流であった強制終生隔離政策がなぜ選択されたか」という問題について幾つかのコメントをされた。氏は嘗てはそれを故光田健輔氏の医療思想に求めたていたが、それでは不十分であったという反省から、明治日本の富国強兵政策、とくに「強兵」と関連した「壮健な国民を育成すべし」という保健思想の存在をあげられた。療養所で、健常者のことを「壮健さん」と呼んでいたことにその名残がある。 次に氏は、日本の医療政策が間違った道を歩み始めた「ターニングポイント」を1909年の旧法の施行時点にまで遡り、その間違った一歩がなぜ踏み出されたか、何がそれを影響したかを論じた。氏は、まず第一回の癩国際会議の影響を論じ、当時の独逸の医療思想が、日本の絶対隔離政策に影響したことを指摘した。これに反して、第二回のノルウェーのベルゲンでの国際会議における患者の人権への配慮、第三回のストラスブルグでの隔離を制限すべしという思想は、日本には影響しなかったのである。日本の医療政策は、医学以外の要因、とくに日露戦争、第一次と第二次の世界大戦のような戦争時の異常なる世論と深く結びついていたのである。

曽我野 一美氏は、基調講演のなかで、終戦直後の予防法改正のための患者組織の全国的な運動に始まり、国賠法訴訟に到るまでの、紆余曲折と長き苦渋に満ちた御自身の経験を語られた。氏自身は、後遺症に苦しまれたとはいえ、プロミン投与ではなく、自然治癒されたケースであることも話された。しかし、治癒しても退所できないという事情は、現在でも解決されていないのであるから、まして終戦直後の状況に於いては、なおさらのことであったろう。曽我野氏は、結局、病友のために自治活動、ならびに入所者協議会の仕事をされたのである。氏はまた、インドなど諸外国のハンセン病がまだ多発している国の療養所の視察について話され、開発途上国の療養施設の厳しい状況についても触れられた。

休憩を挟んで、パネルディスカッションに移ったが、パネリスト8人にたいして時間が90分というのはいかにも短すぎる様に思った。参加者は、

司会が
金平照子 ハンセン病問題に関する検証会議座長
パネリスト
関山昌人  厚生労働省健康局疾病対策課長
山野幸成  法務省人権擁護局人権啓発課長
鈴木康裕  栃木県保健福祉部長 (当日は県議出席のため、代理として小林氏が出席)
平沢保治  多磨全生園自治会長
野原晃   全日本中学校長会理事・埼玉県中学校長会会長
小野友道  国立大学法人熊本大学理事・副学長
小原健史  全国旅館生活衛生同業組合連合会会長
江刺正嘉  毎日新聞社会部編集委員

今回のパネリストの人選は、政府機関の代表者を加えることによって、ハンセン病問題の啓発活動に本腰を入れてもらうところにあったのだろう。とくに、予算をなんとか獲得できた法務省、回復者の里帰り事業をおこなう地方公共団体、学校教育にハンセン病問題の啓発活動をおこなうべき教育関係者、そして、宿泊拒否問題に関連して、旅館業者の団体、最後にマスコミ関係者という人選である。

政府機関を代表して出られたパネリストは、みな若手であった。過去の歴史を学ばれて適切なる行政をおこなって貰いたいものである。宿泊拒否事件での法務省の対応など、人権に対する配慮を政府機関が率先して行うべきであるから。また、高齢化した入園者の里帰り事業も大切である。この点、栃木県保健福祉部長の代理としてこられた小林氏の説明は、話が、具体性に富み、印象に残った。

パネリストの発言では、スライドを使って、基本的な問題点を説明された小野友道氏の話が、記憶に残った。氏は日本皮膚科学会が、太田正雄氏や小笠原登氏の様な貴重な例外を除いて、ハンセン病の問題を、らい学会に委せきりであったことを反省された。日本のらい医療政策が、療養所中心であったことーここに過去の日本の医学界の大きな問題があったのである。現在の問題点としては、患者数の減少と共に、ハンセン病の分かる医師が少なくなり、医学教育でも重視されていないが、国際化によって、外国人の患者を診療する機会はまだあるわけだから、このような事態は反省されるべきであろう。

平沢保治氏は、基調講演の話のなかで、諸外国の療養所が日本よりも厳しい状況であるといわれた曽我野氏の発言を補足して、日本の療養所のほうが確かに金銭的には恵まれているが、貧しくとも療養者が子供をもうけることが出来、亡くなるときに家族がみとることが可能なインドの療養所と比較して、どちらが「人の心」を大切にした福祉であったろうか、と述べられた。これは、福祉というものが金をかければよいというものではないという事実を喚起した点で適切であった。また、平沢氏自身が、啓蒙活動をする場合は、郷里ではまだ本名を名乗れない状況であることという重い現実を指摘された。

このシンポジウムの会場には、「わたしたちに出来ること」という厚生労働省のパンフレットや、「全生園の史跡建造物を残そう」という「人権の森」構想のパンフレットも用意されていた。

「史跡建造物を残そう」というだけではなく、「全生園の森の樹木を大切にしよう」というパンフレットも用意して貰いたいと考えている私は、やや複雑な思いを抱いて会場を後にした次第である。
Comments (2)
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