歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

コスモスと実存 自然と歴史

2007-04-01 |  宗教 Religion

自然と歴史

 我々は、前節に於いて、自然を客体として対象化する以前に、第一義的には「生成の〈如何に〉」を表現するものとして論じた。客体としての「存在」が何であるかは、この「生成の〈如何に〉」によって、そこから論じられねばならない。前節において、「神の自然」と「世界の自然」について語ったが、その場合、神の「存在」と世界の「存在」を実体的に区別して、両者の関係を述べるという文脈で、自然について語ったのではない。実体―属性という範疇は、ここで問題にしている自然が、第一義的に語られる場ではないからである。

西谷啓治は、「自然」について語られる場は、実体という範疇では捉えられぬことを次のように指摘する。 (H・ヴァルデンフェルス『絶対無』180頁、西谷啓治『宗教とは何か』141頁以下参照)

 「有の枠」がない「自然」では、aはa自体であり、bはb自体でありながら(a=a、b=bでありながら)同時にaとbとが相入している。いはゆる「自他不二」である。固定してゐなくて、a・bの間が「融通無碍」である。(a=b、むしろa←→bである)。aのうちにもbのうちにも「有の枠」はない。仏教的に言えば、aもbも「無自性」であり「無自性空」である。aがa自身であり、bがb自身であることと、abの不二ということとは、形式論的には矛盾ですが、「自然的」な有では矛盾ではなく、却って同じ事の両面であるといふことにあります。それは有が「有の枠」のない有だからです。仏教で「色即是空、空即是色」といふのが、さういふあり方を指してゐると思ゐます。それが、「おのずから」にして「みずから」に、つまり「ひとりで」にあるというふ有り方、「おのずからしかある有り方」といふことになります。

 ここでは、「自然」は、「有の枠」を越えて、事物が「不一不二」のありかたで、すなわち西谷が外のところで「回互的関係」とよぶありかたで、「おのずからしかある」ことが、「空の場」において考察されている。二つのものが「相入」しつつ、「一つ」ではないという「あり方」、諸事物が互いに妨げあうことなしに調和ある全体を為すというコスモロジーが語られている。華厳の「事事無礙法界」という存在把握を現代化したともいうべき西谷の言葉を手掛かりとして、さらなる考察を続けよう。

実体的な「有の枠組」を外して、事物を「事事無礙」の相でみることは、それだけでは、まだ、「自然」にとって本質的な、事物の「生成」が言及されていない。「空の場」において、時間や歴史というものが語られ得るためには、かかる回互的な「物の有り方」を述べるだけでは不十分である。ものの「生成」という次元を捨象せずに語ること、言うなれば非時間的な永遠の相において語られる「円環的な限定」においてのみ事事無礙を語るのではなく、同時に時間や歴史という「直線的限定」を語ることが必要である。それは、「無常」の相に於いてある自然なる時間的世界を如実に見るために、万物が一即一切、一切即一であることを語る「即」の論理にとどまることなく、この「即」の一字によって言い表されている事態をさらに具体的に、生成変化するものの位相において語ることである。かつてのキリスト教神学が、父と子と聖霊の内的な三位一体のペリコーレーシス(相互内在)だけではなく、歴史的世界に於てもまた三位一体論的な思索を展開したように、我々は、ひとり神こついてだけ語るのではなくて、世界について語るときにも、三位一体論的な思索を必要とするからである。

「自然」というあり方に歴史性を見ると言うことは、歴史的世界を、人為的なる世界に限定せずに、それを越えて万物のあり方にまで一般化する事を意味する。「自然」は、その根柢に於いて歴史的であり、歴史的生成ということをその中に含む――このことが強調されねばならない。それは、近代の科学で前提されてきたような自然概念――歴史なき必然的法則に支配される世界という概念――から、我々の言う自然を理解すべきではなく、逆に、近代の自然科学が立脚していた自然概念のほうが、我々のいう意味での「自然」把握からの一面的なる抽象の所産であることを意味している。

万物が歴史的世界においてあると言うことは、二〇世紀後半の自然科学によって見いだされた新しい自然観でもある.物質には歴史があり、その諸元素は歴史的なプロセスの中で生成した物であって、永遠の昔から存在していた物ではない。宇宙全体が、不可逆的に進化するシステムであり、その進化のプロセスから、生命と意識を持つ人間が登場したこと、人類の歴史は、かかる広大なる宇宙の歴史過程のなかに位置づけられるべき事――これらは、アポステリオリに認識された科学的知見ではあるが、歴史性の欠如した近代科学の自然概念を根本的に修正するものである。存在するものの総体としての宇宙は不可逆的な歴史をもち、未来に向かって開かれている。そのような歴史性が、生物に於いて、そして人間のような高度に進化した有機体に於いて、はじめて自覚されるようになる。ポスト近代的なる自然科学で扱われる自然については、いまここで詳しく論じる余裕はないが、すくなくも、近代科学で前提されていた非歴史的自然という概念は、一面的な抽象に過ぎなかったことは、今日では自然科学自身が明らかにしている。

さて、自然が根柢に於いて歴史的であり、進化するものであると言うことを、自然科学の議論ではなく、一般的なる形而上学の議論として採り上げる場合、それは次の様な提題として定式化できるであろう。

歴史的世界に於いては、「ものが生成する」と言うことが、そのものの現実的な活動を第一義的に言い表すものであり、それが「対象として存在する」ということは、第二義的なことである。

諸々の対象的存在とは常に既成の存在であり、新たなる個々の生成を制約する諸条件を形作る。ものの相互内在と言うことは、生成という次元を考慮して始めて抽象性を免れ、現実的な意味を獲得するのである。すなわち、どのものも既成の存在として、あらたなる個々の生成のための歴史的な条件として機能する、という意味で、そのものは一切の生成する事物の中に内在している。しかしながら、将来の生成が如何なるものであるかは、既成の過去の存在によって制約されはしても、決定されているわけではない。その意味での未来の開放性は、歴史的世界の存立のための不可欠の条件である。

しかしながら、過去の既定性と未来の開放性がそこに於いてある現在の活動そのものは、歴史のただ中にあって歴史を越えるものに直結している。現在は、過去とは違って未来の生成のための条件なのではなく、それ自身が常に完結し、充実した活動である。それは、我々自身の自己と切り離された対象的事物の生成変化ではなく、一切の対象的事物の変化が、そこにおいて語られる場所である。このような活動そのものを、対象的事物の単なる生成変化から区別して、「現成」と呼ぶことにしよう。

この語は、日本仏教の中で独自の時間論を展開した道元の用いたキーワードでもあった。道元の《正法眼蔵》の要語索引によれば、『現成』は単に『現成公案』の巻だけでなく、全体にわたって実に二六二箇所にわたる用例があり、すべてが絶対に肯定的意味で使用されている。これに対して、『無』はたかだか三〇の用例を、『空』は虚空という日常的な意味を含めても五一の用例を数えるのみで、それらは肯定的な文脈で使用されることもあれば、『無にあらず、有にあらず』『空を破し有を破す』というごとく否定的な文脈でも使用されている。これは、道元にとっては、有と無との相対的対立を越えるものを指す根源語は『(絶対)無』や『(真)空』ではなくて、寧ろ『現成』であったことを示唆している。

「現成」がたんなる対象的事物の「生成」から区別される点は、それが時間に於いて生じる出来事ではなくて、時間そのものを可能ならしめる出来事であるということである。しかし、それは単なる「有」と「無」という二つの相反する範疇を統合する「生成」の現実態であるがゆえに、「現成」を「有」というも「無」というも、ともに一面的な抽象となる。

かかる意味での「現成」においては、無限に生成と消滅を繰り返す直線的な時間的限定そのものが、その都度の「今此処」において統合され、現実化される。その意味で、世界の自然に於ける「生成の如何に」は、かかる円環的な生成にほかならぬ「現成」によって、一切の潜在性をもたぬ完全現実態となる。その意味ではそれぞれの「今―此処」は完結しており、その都度、歴史に一つの区切りをつける非連続性であるが、このような区切りが入ること、そのことによって、過去は破棄されるわけではなく、反復・継承というかたちで復活する。すなわち、歴史的世界に於ける直線的なる限定そのものが、「現成」という円環的限定によって可能となるのである。

「生死即涅槃」あるいは「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成させる」ということは、仏教的に言うならば「生死」の世界、すなわち生成と消滅によって特徴付けられる世界、キリスト教的に言うならば、福音のめぐみに与る以前の自然的世界を、実在性を欠いた単なる仮象として破棄しないということである。そのような世界の「自然」というあり方が、世界の内部において自己充足するものではなく、「神の自然」によって根拠付けられており、それによって可能となるものであること――それことは、まさに時間の中において生きている我々の直接経験から、すなわち「真理がそこに住まう内なる人」に還り(アウグスチヌス)、自己そのものの現成に他ならぬ時間性に徹底することによって知られるべき事柄であろう。

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